第六章 蛇遣人の炎婚
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聖階歴2022年、紫暁月。タザリアでは、ゲルシュタインからの書簡が届いて、王宮は大騒ぎだった。ジグリットは白帝月の終わりに内乱を治めて以来、タザリアの王として仕事に励み、ウァッリス公国やナフタバンナ王国などとの国交も回復期に入ってきていた。だが、半年前にジリス砦がゲルシュタインの部隊と思しき夜盗に襲われた問題から、ゲルシュタインとの和解さえ進んでいないというのに、それは届いたのだった。
「うかない顔。どうしたの、ジューヌ」
ジグリットは珍しく、リネアの居室に足を運んでいた。彼が自ら望んでその場所を訪れたのは、これが初めてだった。
金紗の布張りの椅子にかけたリネアに、ジグリットはうろうろと部屋を歩き回りながら言った。
「リネア、ぼくはやっぱりこの婚姻には賛成しかねるな」
「そうは言っても」彼女は首を傾げて、魅力的に笑って見せた。「他の国の王族でわたくしにふさわしい男がどれだけいると思っているの?」
ジグリットは眉根を寄せ、他の国の見知っている数人の皇子の顔を思い浮かべた。
「ね、わかるでしょう。ウァッリスは二院議会制の法治国家だから、婚姻なんて無理でしょう。ナフタバンナの皇子は体型がもう少しなんとかしてくれないと、わたくしの好みじゃないし。アルケナシュはまだ王がお若いせいもあって、皇子は産まれてもいないじゃないの。それにベトゥラは――」
リネアが言う前からジグリットにもわかっていた。ベトゥラ連邦共和国は彼女の母親のいる国だ。エスナ王妃はタザリアから逃げ帰ったのだ。もうタザリアと関係を持とうとはしないだろうし、こちらから声をかけることもない。タザリアに泥を塗ったのだ、あの王妃は――。
「そうね、まだレニークとアスキア、それにイーレクスがあるけど」
それもジグリットには察することができた。それらの三カ国は、いずれタザリアに劣る国ばかりだ。アスキアは山岳の小国で、レニークは西の涯ての国、そしてイーレクスは大陸からさらに北に位置する雪に覆われた島国だった。リネアが婚姻してもタザリアが得るものは何もないだろう。
「だからって、ゲルシュタインは王が息子に替わったばかりで、昏迷を極めていると聞いている。しかも王を殺したのはその息子だという噂なんだぞ? そんなところに嫁がせるわけにはいかない」
執拗なジグリットの反対に、リネアはふふっと破顔した。
「珍しくわたくしの心配をしているの? でもゲルシュタインのアリッキーノ一世王は、白金の髪と薄墨色の眸をしたなかなかの美男子なのよ。多分、わたくしが知る限りでは、バルダ大陸の王族の中では一、二を争う見栄えの良さだと思うわ」
「そんなことは関係ない」
間髪入れずにジグリットが言うと、リネアは両手を腰に当て反論した。
「関係なくはないわ。わたくしが産む子供は、美人じゃないと嫌なの」
さもそれが、もっとも大切な事だと言いたげなりネアに、ジグリットは押し黙った。彼女は王女としての立場としてではなく、身勝手な我儘で言っているに過ぎないとわかったからだ。ゲルシュタインが危険な国だとジグリットは勘付いていた。それはタザリアの王になって、密偵や密使が送ってくる書簡などでゲルシュタインの政治形態を知るにつれ、直感から確信へと変わっていた。
だがそれをジグリットは、リネアに告げる気はなかった。ジグリットは彼女がそれほど愚かではないだろうと思っていたのだ。
ゲルシュタインの書簡には、はっきりとタザリアの王女であるリネアと、婚姻関係を結びたいと明記されていた。もちろん現在の国交断絶状態を解消し、これからは親交を深め合い、隣国として持ちつ持たれつの仲になりたいとも書かれていた。
半年前のジリス砦での事は、ゲルシュタイン側があれほど、自国の犯行ではないと言っていた言葉が裏返り、書簡では前皇帝がやったことであり、現在の皇帝としては遺憾であるとも、そして短いが謝罪文も付け添えてあった。
ジグリットはゲルシュタインが本気でタザリアと国交を回復したがっているのかどうか、判別できなかった。王が替われば国も変わる。今度の皇帝がどんな人物なのか、書簡の内容だけではわからない。だからこそ、この話を受けるつもりにはなれなかった。
ただ、この話に魅力を感じないわけでもなかった。この婚姻には利点も少なからずある。婚姻がうまくいけばゲルシュタインはタザリアへ攻め入ることはなくなるだろう。ジグリットはゲルシュタイン帝国の莫大な軍事力を理解していた。
政略結婚として考えると、これは確かに良い話だった。戦争をしないという保証のための婚姻。しかしそのためにリネアを利用するのは、後ろめたくもあった。だから彼女が断わるというなら、無理強いする気はなかった。
「リネア、ぼくは断りの返事を書くよ。それでいいよね」
しかしリネアはジグリットの考えを真っ向から遮った。
「駄目よ」リネアは立ち上がり言った。「もう少し考える時間が必要だわ。急ぐことはないでしょう」
ジグリットは彼女がそう言うならと、渋々了承した。
「だったら、考えをまとめたら謁見室か、ぼくの部屋へ来てくれるかな。待ってるから」
「いいわ」リネアは不満そうなジグリットを面白そうに見つめながら、対照的な明るさで答えた。
リネアが返事を寄越したのは、翌日の昼前だった。ジグリットは謁見室で騎士長のグーヴァーに文句を垂れていた。
「だから、来年こそはフランチェサイズの誕生祭に行けるようにして欲しいんだ」
「わかっていますよ。今期を逃したのは仕方がないじゃないですか。即位が決まったばかりで、慌しかったのに加えて、内乱まであったんですから」
何度目かになる言い訳を口にしながら眸を泳がせていたグーヴァーは、謁見室の入口で立ち止まり恐ろしい形相で二人を睨みつけている王女を発見した。
「リ、リネア様・・・・・・如何されましたか?」
慌てて王女を迎えに行くと、彼女は騎士長から顔を背けて、ジグリットのいる玉座へ大股に歩いて来た。
「返事をしに来たのよ」彼女は無愛想に言った。
ジグリットはなぜか機嫌の悪いリネアに、なんとか笑みを作って対応した。
「ゲルシュタインのアリッキーノ王との婚姻の件だろう。返事は聞かなくてもわかってるよ。もう断りの書簡も書いてある」
しかしリネアは大きく首を横に振り、怒り出すのを我慢しているような顔で答えた。
「わたくし、そのお話をお受けします。返事は了承しましたと書いて送ってちょうだい」
ジグリットは玉座から立ち上がり、口を開けたものの、何も言うべき言葉が見つからず立ち竦んだ。リネアの背後から騎士長が駆けてきて、ジグリットの代わりに叫んだ。
「王女様、何を言っているのかわかっていらっしゃるんですか!?」
リネアはむすっとした顔つきで頷いた。
「ええ、もちろんよ。蛇と炎が婚姻するという事よ。猛毒を持った鎖蛇を黒き炎は恐れない。そうでしょう、ジューヌ」
ジグリットは衝撃でまだ茫然としていた。グーヴァーはどうしていいかわからないのか、リネアとジグリットを交互に見ながら、目をぱちぱちと瞬かせている。
「ぼくは反対だと言ったはずだ」ジグリットはようやく正気づいて言った。
「それでもわたくしが決めた事よ。わたくしが誰といつ結婚するかまで、あなたに干渉できるの?」
ジグリットは一瞬、自分が王だから当然だと言いそうになったが、リネアに笑われて終わりだと気づき、口を噤んだ。
「返事を書いてちょうだい。すぐに。そして、あの方を王宮に招いて」
グーヴァーがまたもや叫んだ。
「アリッキーノをこの王宮に入れるのですか!?」
リネアは楽しそうに哄笑した。
「当たり前じゃない。わたくしは婚儀は、タザリアでするつもりなの。わたくしの夫になるのなら、自国に引き篭っていないで、タザリアまで来れる勇壮さを見せてもらいたいわ」
ジグリットはそれを聞いて、リネアがアリッキーノを誘き寄せて、この城で殺すつもりかもしれないと疑った。しかしすぐにその考えは消え去った。そんなことをしても、何の得にもならない。少なくとも彼女には。
ゲルシュタインの王が他国で殺されれば、ナフタバンナもウァッリスも、もちろんバスカニオン教の教団やアルケナシュ公国も黙ってはいないだろう。特に教団は卑劣な手を使うことを嫌う。ジグリットはバスカニオン教の教団とは、深い繋がりを持ちたいと思っていた。もちろん、アンブロシアーナのことがあるからだ。
アリッキーノをチョザへ呼んでも、彼が来ないことも考えられた。一国の皇帝ともあろう者が、隣国とはいえ、国交も正常化していない国に安易に来るとは思えない。
「わかった。リネアの言ったように返事をしたためよう」ジグリットは静かにそう告げると、玉座に座り直した。
「ジューヌ様、それはあまりにも考えなしではございませんか」グーヴァーが横からごちゃごちゃと言い出すと、リネアはさっさと謁見室を出て行った。
ジグリットにもリネアが何を考えているのか、さっぱりわからなかった。アリッキーノが美形だから婚姻したいなどと、本気で言っているようにも思えない。ゲルシュタインは危険な国だ。ジグリットはリネアの身の上を心配したことなど、今まで一度たりともなかったが、さすがに今回ばかりは不安になっていた。