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ノナは十歳の女の子だった。兄と同じ白金の髪をしていたが、眸だけは違った。彼女の眸は生まれつき煌く紅玉のように赤かった。色素が薄いせいだと教えられていたが、ノナは理由などどうでもよかった。なぜなら彼女は色の中で赤が一番好きだったからだ。
「ねーえ、ドゥエちゃん。おにいさまはいそがしそうだから、あたしとあそんでいましょうね」
ノナの友達ドゥエちゃんは、いつでもノナと一緒にいる。ドゥエちゃんは宮殿の魔道具使いから貰ったもので、八本足の爬虫類の人形だった。最初に貰ったときは、確かに四本足だったのだが、いつの間にか八本足になっていたのだ。ノナはその方がずっと素敵だと思っていた。
ノナは爬虫類の頭を小さな手で鷲掴むと、ぐいぐいと上下に動かした。
「なぁに、ドゥエちゃん? え? そうなの?」
彼女は誰にも聞こえない人形の声を耳にして首を可愛らしく傾げた。そして楽しそうにくすくす笑った。
そこに一人の侍女が開いたままの扉から入って来た。
「ノナ様、こちらにいらっしゃったのですか」
侍女の後ろには黒い長衣を着た女が立っていた。侍女は振り返り、一歩後ずさると女が部屋に入るのを待って、扉を開けたままにして去って行った。
「おそかったのね、ツザー」ノナは言った。
女は被っていた頭巾を取り、栗色の明るい髪とまだ若々しい容貌を顕わにした。
「申し訳ございません、ノナ様」
「いいのよ、ツザー。おまえがなにをしていたのか、あたしみていたもの」
ツザーは少女の言葉に琥珀色の眸を眇めた。
「ノナ様、あんなに言ったのに、また視跡の力をお使いになりましたね」
責められてノナは頬を膨らませ、持っていたドゥエちゃんを突き出し、喋るのに合わせて小刻みに動かした。
「だって、ひまだったんだもん」
ツザーはドゥエちゃんを退かせようと手を出したが、その不気味な人形には触れられなかった。人形の方から首を引っ込めたからだ。
「ツザーのいったとおり、ちゃんとおべんきょうだってしたのよ。ほら、みてちょうだい」
ノナは自分の背の低い机に駆けて行き、その上に置いていた五冊の書物を抱えると重そうによたよたと戻って来た。ドゥエちゃんはいつの間にか少女の頭に登っている。
ツザーは少女から書物を受け取り、彼女がきちんとそれらに眸を通したかどうかを確かめるために、中をパラパラと捲った。書物の中身は題名を残して、すべて白紙だった。
「よく覚えましたね」ツザーは優しく言った。
ツザーはノナに出した課題に、少女が記憶すれば書物が白紙になるようにしておいたのだ。ツザーは女では数少ない魔道具使いの一人で、昨年ウァッリス公国の魔道具使い協会からゲルシュタイン帝国へ派遣されたのだった。
「おぼえるのはかんたんよ。わすれるほうがむずかしいの」ノナは頭からドゥエちゃんを降ろして抱き締めた。「ツザーがいろいろおしえてくれるから、だんだんあたまがいっぱいになってきちゃったみたい」
ツザーは微笑して少女と糸杉の机へ向かい、新しい書物を六冊並べた。
「不必要な知識は徐々に忘れていくものです。普段使わない知識は、頭の隅に追いやられて、必要になるときまで思い出すことはありません。今は覚え始めだから混乱するのでしょう。そのうちに慣れますよ」
彼女は自分の妹にするように、優しく肩を撫でた。そして少女の抱いている爬虫類の人形の足が八本あることに、恐れと喜びを同時に感じていた。
ツザーはノナが天性の魔道具使いだと確信していた。それはノナが教えずとも、その人形を自由に扱うことができたからだ。普通の人間が、この人形の足を自在に増やしたり動かしたりすることはできない。それは魔道具使いが修行に使う練成人形だったからだ。
練成人形は魔道具使いが師匠に最初に与えられる課題の一つで、自分の望み通りの人格を持った人形を造ることができる。ただし、それには向き不向きがあり、天性の才能が要求された。実際、ツザーが練成人形を自在に操れるようになるのに、二年を要した。ノナは与えられて一週間で人形と話をし、人形の形を変えることができるようになった。
「古代言語の教書で、わからないところがありましたか?」ツザーが訊ねると、ノナは頭を振った。
「ううん、わからないところはあったけど、ドゥエちゃんがおしえてくれたからだいじょうぶよ」
「・・・そうですか」
爬虫類の人形は少女の胸の中から、ツザーを見上げていた。その醜悪な緑の眸からツザーは顔を逸らした。ノナが一体、どんな人格をこの人形に与えたのか、それはツザーにもわからなかったが、なんだか不気味な人形になっていた。
「ねぇ、ツザー」ノナは無邪気に訊ねた。「ここへくるまえに、ツザーがおへやでおべんきょうしているときに、へんなおとこがたずねてきたでしょう。ツザーにへんなことをしようとしているから、あたしおもわずドゥエちゃんのあたまをひきちぎっちゃったわ。あのおとこ、ツザーになにしようとしていたの?」
ツザーは最近のノナが覚えた悪い遊びには、ほとほと困り果てていた。彼女は視跡の力を使って、狙った相手のどんなところでも覗き見することができた。
ここへ来る直前、ツザーは部屋を訪ねて来た一人の兵士と魔道具の話をしていたのだが、そのうち兵士がよからぬ思いを抱いて、ツザーに襲いかかったのだ。女だとはいえ、魔道具使いだ。そうそう簡単にねじ伏せられるものではない。ツザーは隠し持っていた魔道具を使って男を部屋から追い出した。しかしそれをノナに覗き見されていたとは・・・・・・。
「ノナ様、お願いですから視跡の力をお使いになるのは、わたくしのいるときにして下さい。前から申し上げている通り、その力はノナ様のような幼い方には躰の毒です」
「わかってるわよ。でも、ツザーがしんぱいだったの」
「それでもです。視跡の力は、ノナ様の命を縮めるものですよ。あれから心臓が痛くなったり、どこか具合が悪くなったりしませんでしたか?」
「どこもいたくないわ。でもそうね、ちょっとねむくなったかもしれない」
ツザーはノナを天蓋付きの寝台に連れて行くと、彼女をそっと寝かせた。
「いいですね、どうしてもお暇なときは、いつでもわたくしに会いに来てくださって結構ですし、もちろんわたくしからお伺いしてもいいのですから、どうぞ視跡の力は使わないでください」
不気味な爬虫類の人形はノナの横で八本の足を広げて悠々とくつろいでいる。ノナが先ほど、頭を千切ったと言っていたが、すでにその頭は何事もなかったかのように生えていた。ノナが癇癪を起こすたびに、人形は頭や足をもがれていたが、しばらくするとまた生えているのだ。ツザーが知る限り、そんな練成人形は見たこともなかった。
ツザーはノナの白銀の糸のようなおかっぱ頭を撫で、彼女が真紅の眸を閉じると安堵した。ノナが眠りに入った途端、爬虫類の人形も事切れたように、ただの滑稽な綿の布袋になっていた。