第五章 炎砂を従える兄妹
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タザリアでの内乱より、事はほんの一月ほど遡る。バルダ大陸に現存する唯一の砂漠地帯、ゲルシュタイン帝国では「皆殺しの蛇皇子」の異名を持つ六番目の嫡子が、たった一人の妹を残し、すべての兄弟を暗殺し終えていた。
オス砂漠の東、帝都ナウゼン・バグラーの宮殿は、大量殺戮の血に染まったとされる真っ赤な砂を混ぜて造られていた。血の城ともいわれるその一角に、アリッキーノ皇子は居室を持っていた。
「無益な息子がまた一人死んだぐらいで、父上の嘆きようは、笑えるじゃないか」アリッキーノは窓辺に腰かけ、長い脚をゆったりと組んでいた。「もはや葬儀も繰り返せばただの茶番だな」
白金に輝く髪に薄墨色の鋭い眸。肌は砂漠の熱い風に吹かれたことすらないような白さのその男こそ、六番目の嫡子だった。だが、昨夜から彼の立ち位置は、唯一の嫡子であり、誰もが忠誠を誓う世継ぎの皇子になった。いや、そうしたのだ。彼自身が。
アリッキーノは十七歳だったが、すでに成熟した男だった。元々、狡猾だった性格は、老獪の域に達し、生まれながらに備わった気品は、他者をひれ伏させることに長けていた。ただし、彼の目的は昔から変わらず、至極簡単で、誰でも理解することができた。有害なものは排除する、という精神である。
その理解者の一人、貴族出身の名将タトバントの息子である騎兵部隊の騎士、ラドニクは褐色の肌をした美男子で、彼はアリッキーノの幼少の頃からの近臣だった。ラドニクの金茶の眸が、皇子を見つめていた。
「しかしアリッキーノ様、さすがの陛下もすでに手は打っているでしょう」
心配そうに言った従兵に皇子は笑った。
「あの男がどんな手を打とうが、今さらだな。愚かな男だ。蛇にとって血の繋がりなど、忌まわしきものに過ぎん。むしろこの国にとって災いにしかならん。玉座が一つなら、いい加減退いていただくしかあるまい」
アリッキーノは実父を殺す手筈をすでに終えていた。彼には手足となる毒蛇が城の中に何十人といた。彼らは間違いなく明日中にはこの国の王の命を奪うだろう。
本物の鎖蛇が一匹、アリッキーノのいる窓辺へ、そのしなやかな躰をくねらせながら近づいてきた。彼は感情のない眸でそれを見ていた。足を伝い、蛇が皇子の躰を登って行く。
ラドニクは蛇の毒が抜かれていないことを知っていた。しかし止めようとはしなかった。不実者と名づけられたその蛇は、アリッキーノの愛玩物だったからだ。ドローンは決して皇子に噛みついたことがなく、それどころか邪険にされることを喜んでいるように見えた。アリッキーノはいつものように、蛇を手荒く払い除けた。怒るどころか、ドローンは部屋の隅へ行き、躰を小さく丸めて眠り始めた。
「ラドニク、おれはようやく退屈せずに済みそうだ」アリッキーノの眸は冷淡なままだったが、その口調には僅かな喜びがあった。
「もちろんです、わが君」ラドニクは跪き、磨き上げられた皇子の靴の先にくちづけた。「あなたこそ、至高の皇帝。このバルダ大陸全土が陛下のものです。バスカニオンさえ、あなたには逆らえない」
アリッキーノはラドニクの顎を足先で持ち上げた。
「当然だ。芥共を一掃して、現実を見せてやることがおれの使命だ。あの無骨なだけの父は、タザリアの王子の暗殺にも失敗したらしい。おれならもっと容易く殺れるぜ」
ラドニクは恍惚とした表情で自分の君主を見上げていたが、アリッキーノの足が引くと、立ち上がる許可を貰い言った。
「タザリアの王子がジリスへ来ていたという噂、本当だったのですか?」
「らしいな。相変わらず無用心なやつらだ。安穏とした生活に慣れきってやがる」
「陛下が玉座についた暁には、タザリアから攻めるとよろしいかもしれませんね」
しかしアリッキーノはそれには同意しなかった。
「いや、あの国にはまだ手を出さない。というより、別に考えがある」
不気味な含み笑いを漏らした皇子に、ラドニクは嫌な予感がしていた。それは血の臭い立つ、いつもの残酷な遊戯ではなく、本物の謀略の兆しだった。
聖階歴二〇二一年、黄昏月六十五日。ゲルシュタイン帝国の王、ウィンガロス三世崩御。折りしもクレイトスが亡くなる十一日前のことだった。
病死とされているが、ウィンガロスの死の原因は不明。遺体はただちに焼却され、どのような姿だったのかもわからないままだった。ウィンガロスは長年、圧政を敷いた暴君だったため、その死を悼む者も少なかった。
アリッキーノの従兵だけが、王の最期を見ることができた。
「おまえ達は地獄を見るだろう。あいつはおまえ達の望んだ国どころか、世界を冥府へ誘う死神だ。眸の眩んだおまえ達は、身の毛のよだつ最期を遂げるぞ。必ずや・・・・・・必ずや・・・・・・」呪いの言葉を吐きながら、王は息絶えた。
兵士達はそれを聞いても、恐ろしくもなかった。なぜなら、蛇は呪う者だからだ。蛇の王にふさわしい最期だと思っただけだ。そしてアリッキーノの治世が父王よりも凶悪なら、それはそれで彼らにしてみれば、甘い蜜が湧いて出るようなものだった。悪政には幾らでも彼らを潤わせてくれる抜け穴があるのだ。
アリッキーノは父親の葬儀を蔑ろにして、その夜は晩餐を開いた。彼は杯を片手に兵の前に立ち、血も涙もない祝杯を上げた。
「老骨は去り、おぞましい晩餐は終わった。今宵から偽りの宴は開かれないであろう。さぁ、葡萄酒を呑め! 羊の臓物を喰え! これからは我らが、帝国の永きに渡る歴史を司るのだ! 武将共よ、その血肉を滾らせ帝国の世を切り開いてみせよ!!」
男達の荒々しい歓喜が、雄叫びという轟音となって砂漠の宮殿を揺るがした。
ゲルシュタイン帝国はこれにより、事実上、暗黒政権時代へと突入し始めていた。




