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その夜、開かれた凱旋の宴は、ジグリットにとって初めての事ばかりだった。アイギオン城の一階の大広間には、およそ三百の兵が集められ、王の隣りには王妃が、そしてそれを挟んで一段低い場所に王子二人と王女一人が、それぞれの侍従を伴って着席していた。炎帝騎士団は横一列に、左の壁際に並んで座っている。そして右の壁際には、暗緑色の外衣を羽織った見慣れぬ一団が、ずらりとこれも一列になって並んでいた。
ジグリットは広間の一番後ろの席に座っていた。侍従ウェインの横で、ジグリットは被せられた黒い頭巾を何度も鼻より上に押し上げなければならなかった。それはすっぽり彼の顔を覆い尽くし、人目から完全に隔離するためのものだった。
まず手始めにタザリア王がナフタバンナ王国との講和が成った経緯と、お互いの条件についてどういう確約をしたのか等を長々と話し始めた。その間、ジグリットは目の前に給仕が忙しなく並びたてていく豪勢な食事に、否応なしに眸が吸い寄せられていた。
そこにはジグリットの知る限りの食材があり、見たこともないような彩りや匂いのものが多数あった。そしてそのどれもが湯気をたて、良い匂いで混じり合っていた。様々な形の麺麭から、白や青の乾酪、それに銀色の杯の前には瓶の栓がされたままの葡萄酒が何本も置かれ、湯気をたてている緑豆のスープや羊肉の煮込み、根菜類の煮物、それに塩と香辛料をたっぷり付けて焼かれた鶏の腿に、蒸し焼きの豚まで、ありとあらゆる料理が並んでいた。
ジグリットはそれらを生唾を何度も呑み込みながら、ただ眺めていた。王の挨拶は長く、終わったと思うと、また新たな話が始まり、それは尽きることのないようだった。
やがて、王が功労者の名を呼び、その者に称号を与えると告げた時、盛大な拍手が広間を轟かせ、ジグリットはようやく前を向いた。王の前に、黒い鎖帷子を着た兵士が進み出た。
――漆黒の騎士だ。
ジグリットはその男を眸にした途端、斬られた手のひらがずきずきと痛んだように感じた。
騎士は王の前に跪き、深く頭を垂れた。そして王は、名誉ある“冬将の騎士”の称号と、アンバー湖畔に連なる貴族の館の中でも特段に美しいと評される、テュランノス山脈と湖の僅かな境に建てられてた館の一つである“黄楼館”を彼に贈ると告げた。
王の言葉にまた大きな拍手が沸き、ファン・ダルタはその名誉を受けると応えた。
ジグリットは、右側に並んでいる暗緑色の外衣の一団が、こそこそと話し合っているのを見た。
――あの人達は何者なんだろう?
隣りで拍手しているウェインの服を掴んで、ジグリットはその一団を指差した。
「何?」とウェインは指差された方を見て、「ああ」と顔を曇らせた。「彼らは近衛隊だよ」
ジグリットの初めて聞く名だ。眸を瞬かせてウェインを窺うと、彼は親切に説明してくれた。
「近衛隊は王を守るための王宮の番人みたいなものさ。彼らもまた名誉ある人達で、ものすごく強いんだ。でも、近衛隊の隊長フツがちょっと変わり者でね、炎帝騎士団とは仲が悪いので有名なんだ。きっと、ファン・ダルタが称号を貰ったからやっかんでいるのさ」
ジグリットは近衛隊の一番王の席に近い場所に座る一人の男を見た。彼は炎帝騎士団のグーヴァーとは違い、若く、まだ二十代のようで、年齢ではファン・ダルタに近い。だらしなく着崩した格好で襟元はくちゃくちゃだったが、それでも隊員の中では一番目付きが鋭く、遠くからでもイライラしているのが見てとれた。
――なんだか怖そうな人だなぁ。
ジグリットは王宮に仕えるたくさんの人間の、これがほんの一部でしかないことをまだ知らなかった。集められたのは名のある兵士だけで、ナフタバンナとの会戦のため雇われた傭兵は入っておらず、もちろん王宮の侍女や侍従は宴の準備をするのが仕事で、ここでのんびり座っているわけではない。ジグリットはそんなことすら知らなかった。
その一連の儀式が終わると、いよいよ晩餐の始まりかとジグリットは思ったが、王は騎士が下がると、また広間に声を張り上げた。
「さて、本日はまだ趣向が残っている。眸の前の皿に釘付けになっている諸君、お預けを喰らうのはこれが最後だ」
ジグリットは頭巾を少しだけずり上げた。何かおもしろそうなことが始まるのかと思ったからだ。しかし王は予想もつかない発言をした。
「我等が炎帝騎士団の騎士長グーヴァーによって、今宵、新たな家族が加わることとなった」
兵士達が揃ってタザリア王を熱心に見つめている。
「ジグリット、こちらへ」そう言った王は、まっすぐに席の最後尾に座っていた小柄な頭巾の少年へ眸を向け、ジグリットはその途端、度肝を抜かれて息を詰めた。王につられて兵士達も後ろを振り返る。
侍従のウェインがまず立ち上がり、彼は隣りのジグリットの腕を掴んで、強引に立たせた。そして、物も言わず一気にジグリットの頭巾を払い除ける。
広間に「おおっ!」という驚愕と畏怖の声が谺し、ついで兵士達が騒ぎ始めた。
「ジューヌ様!?」
「いや、ジューヌ様は前方のお席に居られるぞ」
「誰だッ!?」
「王の新たな御子か?」
「ラシーヌ様の御子では?」
タザリア王はもう一度、ジグリットに向かって大声で喚呼した。
「ジグリット、こちらへ来なさい」
ウェインが背を押すと、ジグリットはよろけるように横の通路へ出た。そしてそのまま、兵士達の長椅子の間を通って、前方へ近づいて行く。人々の好奇の眸が、ジグリットに纏わりついていた。それは王の前に立ったとき、最も強くなり、ジグリットは背中が灼けるように熱く感じた。
タザリア王はその濃い顎鬚を触りながら、目前の少年を見下ろした。ジグリットは跪くべきか、このまま立っていて良いものか、王を見上げるべきか、それとも俯いている方が良いのかわからなかった。仕方なく王の胸元の細工の施された金釦を見ていると、王が言った。
「ジグリット、私の横に来なさい」
ジグリットは言われた通り、一段高い場所に立つ王の横に昇って並んだ。すると、王は彼の向きを反転させ、人々の眸に晒すようにすると、小さな肩を掴んで自分の方へ引き寄せた。ジグリットはその親しげな素振りにドキッとした。前では三百人の兵士と給仕達、壁際に並んだ十数人の騎士団、それに横からは王妃とその子供達がジグリットを見据えている。生まれて初めてこんなにたくさんの人から見られて、ジグリットは心底怖くなった。しかし、王の手は大きく彼の肩を掴み、上衣を通じてなお温かかった。
「彼の名はジグリット。我が息子、ジューヌにこの通り、瓜二つである」
広間はそれまでのざわめきが嘘のようにシンと静まり返っていた。
「わたしは彼を、わたしの家族として育てるつもりだ。いずれ時が来れば、再び戦渦が我が王国を巻き込むだろう。その時、ジューヌにそっくりな彼が敵の手に落ち、利用されるようなことがあってはならない。彼のこの容貌は利にも成り害にも成り得る。だからこそ、身の内に置くことが最善だと判断した。皆の者、よく見知っておくように。それから――」王はジグリットを見下ろし、間を置いて言った。「ジグリットは話すことができない。口が利けないのだ。よって、君達との意思疎通に何らかの不便が生じることがあると思う。だが、彼は耳が聞こえ、眸も見えている。やり方さえ掴めれば、会話することに問題はない。仲良くしてやって欲しい。以上だ」
兵士達はまたざわざわと小声で話し始めた。王は、ジグリットの耳に口を寄せそっと囁いた。「がんばったね。席に戻りなさい」ジグリットはどきまぎしながら頷き、王の手から離れ、また兵士達の間を緊張しながら歩いて行った。今度は真正面から彼らの好奇の眸が刺さり、ジグリットは不安に身が竦む思いだった。
ジグリットが席につくと、王はようやく葡萄酒の入った杯を手に取り、笑みを浮かべて最後の賛辞を述べた。
「それでは皆、この度の戦い、ご苦労であった。今宵は無礼講。心ゆくまで楽しんでくれ。乾杯!」
兵士達が一斉に杯を掲げる。
「乾杯!」
そして、長い宴が始まった。兵士の莫迦騒ぎの声は徐々に盛り上がりを見せ、皿は次々とカラになり、葡萄酒と麦酒がひっきりなしに運び込まれた。
ジグリットはウェインの横で、お腹がはちきれそうなほど食べ、呑み、食欲を満足させる一方で、騒ぐ兵士達を見つめた。彼等は時折、ジグリットの方を見て、こそこそと小声で話していた。不躾な視線を投げかける者もいた。その中には、明らかに敵意を持った眸もあり、ジグリットは落ち着かない気分でその夜を過ごした。酒宴は明け方まで続いたが、ウェインが夜半にはジグリットを部屋へと連れて戻ったので、彼は思いのほか、よく眠ることができた。しかし、その夜の夢は後味の悪いもので、翌朝、ジグリットは渋い顔で目覚めることとなった。