3-1
3
ジグリットがゴドイの馬に冬将の騎士と二人乗りして駆け出すと、怪我を負っているはずの兵士まで追走し始めた。甲冑の重さはどんなに軽くとも四十五から五十五ポンド(およそ二十~二十五キロ)はある。怪我をしている者は後から来るよう言ったのだが、誰もジグリットの言うことを聞かなかった。彼らは冬将の騎士同様、今こそタザリア王のために命を賭して戦うときだということを理解していた。
ジグリットの眸に前方をいまだのんびりと行く騎兵の頭が見えてきたのは、彼らにも凱旋門の礎石が見え始めた頃だった。チョザの街へ入られたら、ジグリットの少数の分遣隊では、サグニダやグーヴァーの軍との囲い込みはできないだろう。逆にたった四十人ばかりの兵では、あっという間に殺られてしまう。そうなる前にとジグリットは馬をさらに急がせた。すでに人間の足で追いつける速度ではなくなっていた。後方に置いていかれた兵士達が全力で追いかけて来るが、それでも次第に距離が開き始めていた。
冬将の騎士はジグリットに手綱を任せていた。その間に、騎士は自分の右腕を休めていた。こんなことなら王宮付きの医師に鎮痛剤を貰っておけばよかったと、騎士は思っていた。
背後から近づく敵の気配を察知したのは、十家の一つであるヒヴァ夫人の夫、ヒヴァ公だった。黒髪をきれいに後ろへ撫で上げた痩せたこの男は、後衛軍の中でも最後尾を進んでいた。いつもは妻であるヒヴァ夫人に一族のことは任せっきりで、自分はウァッリスの愛人のところで暮らしているこの男にとって、タザリア王への反乱など、上流階級に対する義務としての共同歩調の意味しかなかった。当然のことながら、彼は裏ではタザリアから手を退き、完全にウァッリスへ拠点を移す算段を整えていた。
上流階級との繋がりは大事だが、それ以上に命はもっと大切だ。タザリア王を倒したとして、すぐに彼らがタザリアを牛耳ることができるとは思えなかった。ヒヴァは臆病だったが、その分慎重で洞察力に長けていた。
ヒヴァは何度も何度も振り返り、敵ではなくデザーネの飼い犬である番豹が戻ってくるのを見ようとしていたのだが、彼の眸に映ったのはあの凶悪なゴドイ・マリーノではなく、一頭の馬が二人の人間を乗せて、猛然と駆けてくるところだった。
ヒヴァは声を上げなかった。敵が来たと口にする前に、彼はアンバー湖とは逆の、この時期はだだっ広い雪の原になっている小麦畑に向かって馬頭を回らした。彼は一人、懸命に畦を下り、西へと逃げて行く。ヒヴァは王の分遣隊が行き過ぎるまで待ち、さっさとウァッリスの愛人の許へ逃げようともう決めていた。もちろん彼の妻であるヒヴァ夫人など、男の頭にはすでになかった。
しばらくして、フレッドはヒヴァ公の馬が、なぜか畑を突っ切って行くのに気づいた。彼はなぜ、その臆病者が西へ駆けて行くのかわからなかった。しかし前を行く兄にその事を告げようとした直後、背後で叫び声が上がった。
フレッドは馬を止め、兄が振り返りすぐに驚愕に眸を見開くのを見た。クストーは口の中で誰かの名前を呟いた。そして次にフレッドにも聞こえるほどの大声で叫んだ。
「そんなところにいたとはな、タザリア王ッ!!」
驚いたフレッドも馬を反転させる。そこでは両脇を兵士に挟まれた一頭の馬がいた。乗っているのは右に剣を振りかざしながら手綱を握る少年と、左の兵士を斬りつけている頭一つ抜きん出た騎士だ。全身黒光りした漆黒の騎士の姿にフレッドは畏怖した。
――あれは狼じゃないか・・・・・・。
兄のクストーがフレッドに並び、吐き捨てた。
「糞ったれのゴドイめ! 狼を仕留め損ねたな」
しかしクストーは狼の存在を無視してタザリア王と思しき少年に再び叫んだ。
「王が自ら来るとは見上げた度胸だッ! だがこんな街道で死ぬより、玉座で死んだ方がよかったろうに」
兄が剣を抜くと、フレッドは続いて剣帯に触れた。剣戟の稽古なら何度もしてきたが、本物の戦いで剣を抜くのは生まれて初めてだった。そして兄の激高した眸を見つめ、武者震いしながら長剣を抜いた。それは彼の腕にはあまりに重く感じた。
その間も次々と兵士を斃して一頭の馬がフレッドに近づいてくる。十家の内の一つであるベルゲン家の当主が、少年王に向かって剣を振り下ろす。しかし見た目にも、その剣技には差がありすぎた。ベルゲンの肩当てはそれは立派な銀の白鳥の装飾物で覆われていた。男がもたもたと剣を持ち上げる間に、その兜と鎧の継ぎ目を少年王が突き、血飛沫と共に刃を抜き取った。
ベルゲンは断末魔の足掻きを見せる間もなく、馬上から落ち、地面に斃された兵士達の仲間入りを果たした。その光景は貴族も平民もなく、ただの屍体の山の一つだった。
フレッドの全身から汗が噴き出した。慄きながら兄を見返すと、クストーはまだゴドイに対する不平を漏らしていた。少年王が次の兵士を打ち斃す。さらに次も。その次も。同様に漆黒の鎧の狼が左側に押し寄せる兵士を難なく片腕で排除していく。
フレッドの喉に「兄上、逃げましょう」という言葉が浮き上がり、沈み、また浮き上がった。しかし兄は馬上で傍観しているだけだった。やがて兄が弟に言った。
「フレッド、王を殺せ! 往け!」
剣で少年王を指した兄の姿を、フレッドは信じ難い思いで見つめた。
「兄上、逃げましょう」やっと彼はその言葉を口にした。
「莫迦を言うな! ヤツを斃せばこの国はわれわれの物になるんだぞ!」
「しかし・・・・・・ッ」
ぐずぐずしている弟をクストーは強引に、隣りから馬の尻を蹴って走り出させた。
「疾く往けッ!」
「兄上ッ!!」
勝手に走り出した馬に乗ったまま振り返ったフレッドを、クストーは剣を下げ見送っていた。その瞬間、フレッドは兄が自分を何の躊躇いもなく恐怖の淵に叩き込んだことを知った。兄に対する信愛が、露のように掻き消えるのをフレッドは感じた。しかしすでに遅かった。
ジグリットは誰が上流階級の当主かを、戦いながらも察知していた。ここにいるのは十家のうちの四家の当主だった。そのうちベルゲンをジグリットが、そしてレイズとボレーの当主をファン・ダルタがすでに打ち破っていた。ベルゲン以外は死んではいなかったが、彼らは深手を負って地面に倒れていた。それで充分だった。
戦っている間に、後ろから二人を追って来ていた四十人近くの仲間がようやく追いつき、ジグリットと騎士の馬の周りから敵が消えると、前方がよく見えるようになっていた。ジグリットはデザーネの当主であるクストー・デザーネと、その弟のフレッド・デザーネがただこの戦いを静観しているのを見て、すぐに馬をそちらへ向けた。
冬将の騎士が背後からジグリットの腰を、折れた右腕でなんとか固定したまま言った。
「陛下、二人を相手にするのなら、わたしは馬から下ります。このままでは動きが取り難い」
「わかった。だが・・・・・・ちょっと待ってくれ」
その応えにジグリットの視線を追って、騎士も眸を上げる。すると、デザーネ家の兄弟のフレッドの方がこちらへ全速力で駆けてきていた。すでにフレッドとの距離は、馬を止めて降りていられるような悠長な時間を残していなかった。冬将の騎士はジグリットを馬から落ちないよう、さらに強く引き寄せた。
「お命頂戴!」フレッドはジグリットと剣を交えるため、左側へ馬を寄せた。
互いの馬がすれ違う瞬間、ジグリットとフレッドの刃がぶつかり、硬い音をたてて二人の剣が跳ね上がった。フレッドは器用に馬を反転させ、再び向かってくる。ジグリットも同じように反転して、それを待つ。
フレッドの心の内は混沌としていた。この少年王に対する怨みも怒りもない。なのになぜ剣を向けているのか。
――兄上が言ったからだ。デザーネが隆盛するために、兄上が喜ぶために、だから・・・・・・。
――だが兄上はおれのためとは一度も言わなかった。
剣と剣を打ち合い、また馬を反転させる。
――兄上は優しい方だ。おれをゴドイから遠ざけてくれていた。だが、本当にそうだったのだろうか。
剣は衝突を繰り返す。
――あの極悪人のゴドイをナフタバンナから連れて来てデザーネの用心棒に据えたのは、父上じゃない。
――兄上じゃないか!
馬を駆り、少年が振り上げる刃に向かって行く。その眸に、ずっと先でこの戦いを見守っている兄の姿が映った。クストーの表情には何の感情も見受けられなかった。弟が死ぬかもしれないというのに、兄は淡々と見つめているだけだった。
――兄上が大事なのは、玉座だけ。
――おれのことなど・・・・・・。
そのとき、フレッドの剣はジグリットの攻勢を受けて、力なく吹き飛んだ。手の中が軽くなり、フレッドは眸を見開いた。
「兄上ッ!!」フレッドは助けを求めて兄を見た。
しかしクストーは馬を回しただけだった。弟に背を向け、クストーの馬はチョザの凱旋門へと走り出した。フレッドの首筋にジグリットの冷たい刃がぴたりと当てられる。
「降参しろ!」
フレッドにはそれ以上、戦う理由がなかった。彼は頷いた。死の恐怖よりも、兄に見捨てられた失意に、フレッドは打ちのめされていた。
冬将の騎士は馬から降り、フレッドにも降りるよう言うと、すでに戦いを終えていた兵士達と共に怪我を負っている貴族二人とフレッドを縄で縛った。
クストーが去ると同時に、敵兵はそこかしこに逃げ去っていた。
「ファン、ぼくはクストー・デザーネを追う!」
ジグリットが馬上から告げると、冬将の騎士は「わたしもご一緒します」とフレッドの馬を見つけて素早く飛び乗った。
「いや、おまえは手綱もまともに持てないだろう。一人で大丈夫だ」
「またそんなことを言って! あなたという人は、一体いつになれば――」
小言を言い始めた騎士に、ジグリットは思わず怯んで慌てて頷いた。
「わかったわかった、一緒に行こう」
ジグリットがさっさと出発する。これ以上、騎士に口うるさくされたら、戦う気概もなくなりそうだった。兵士に貴族を王宮まで連れて行くよう命じて走り出すと、冬将の騎士もようやく黙ってついてくる。
彼らは馬をできるかぎり疾駆させ、懸命にデザーネを追い始めた。