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ジグリットは押し寄せてくる敵兵になんとか応酬していた。鎧の継ぎ目を狙って放たれる広刃の一撃を避け、相手の喉を叩き斬る。敵の歩兵は人数合わせのために集められた雑兵とは違い、訓練を積んだ士官並みの手練ばかりだった。しかしこちらの部隊も五十人全員を腕の立つ者で固めてきている。互いに一歩も譲らず、ジグリットは仲間が敵を斃したかと思うと、すぐに別の敵に斃されるのを眸にした。
冬将の騎士だけは別で、彼はジグリットを庇いつつも、敵を次々に斬りつけていた。黒貂の外衣におびただしい血が飛び散っていたが、元が黒いため見た目にはわからなかった。騎士は敵兵が絶命するときには、すでに次の相手を斬り伏せていた。そうして足元に倒れた兵士を邪魔なら蹴飛ばし、踏みつけ、次の兵士の渾身の一撃までをも軽々と受け流すと、相手の肩口に刃を突き込んだ。
――ファン・ダルタを連れて来てよかった。
――これならこの部隊を完全に潰せる。
しかしジグリットのその確信は長くは続かなかった。一人の騎兵が現れたからだ。男の貌を見た瞬間、ジグリットはぎょっとして後ずさった。潰れた鼻に爛れた頭皮、僅かに残ったちぢれ髪の下に、薄笑いを浮かべた不気味な眸が光っている。すぐ後ろにいた冬将の騎士が、眼前の敵兵の喉仏をまっぷたつに断ち斬ると振り返った。
周りにいた兵士達は手を止め、敵味方の区別なくその巨体の男の馬から離れた。男がジグリットと冬将の騎士の前まで来ると、その空間だけ、ぽっかりと広く開いた。
男は馬上から眸を眇めて、冬将の騎士を見ると言った。
「おまえがタザリアの黒い狼か」その声は低く潰れて聞き取り難かった。
ファン・ダルタは睨みつけただけで応えない。すると、巨体の男は馬から飛び降りた。その瞬間、辺りに鼻を塞ぎたくなるほどの酒の臭いが充満した。どうやらこの男の体臭らしい。
「おれはデザーネの番豹ゴドイ・マリーノだ」
ゴドイが名を告げた途端、ファン・ダルタはジグリットを引き寄せ、自分の背に隠した。そしてにやにやとしまりのない顔で二人を見ているゴドイに、冷淡な笑みを返した。
「名高い犯罪人、ゴドイ・マリーノなら、おれも知っている。ナフタバンナから追い出されたほどの極悪人だ」
「知って下さってるとは、有り難いね」ゴドイは心底嬉しそうに、目尻を下げた。
ファン・ダルタはゴドイ・マリーノが女子供に暴力を振るう下衆な男だということを聞き及んでいた。それは男の戦士としての腕と同じくらい広く知れ渡っていた。
ゴドイはファン・ダルタの背後から自分を窺う少年に眸を止めた。番豹はタザリア王の顔を知らなかった。ただ、別の意図を持ってジグリットを熱い眸で見つめた。
「男の戦いの場に、そんな可愛い男の子を連れて来るとは、狼も隅に置けねぇな」
にやにやしているゴドイに、ファン・ダルタは剣を強く握り締め、怒鳴った。
「無礼な口を叩くな!」
「おまえを殺して、そいつを可愛がってやるよ」ゴドイはいやらしい眸でジグリットを見ながら、舌舐めずりをした。背筋が寒くなり、ジグリットは冬将の騎士の後ろに完全に隠れた。男の眸の届かない場所まで走って逃げたいほどだった。
「下がっていてください」騎士の声が瞬時に鋭くなった。
ジグリットは言われた通り彼から数歩下がった。その直後、冬将の騎士は黒い刀身を振りかざし、ゴドイの兜を被っていない裸の頭部に斬りつけた。止まっていた周りでの戦闘も再び開始される。
ゴドイはその躰に見合わず敏捷だった。番豹は背負っていた武器を取り出し、冬将の騎士の長剣を片手で食い止めた。
棘のついた戦鎚を軽々と振り、今度はゴドイが騎士に狙いをつけて振り下ろす。冬将の騎士は受けずに躱して、流れるような動作で次の一撃を繰り出した。ゴドイの革製の腕当てに深い疵が走る。しかしそれは男の太い腕に何の痛手も負わさなかった。
逆にゴドイは腕当てから刃を退こうとする冬将の騎士に、猛打をお見舞いした。右の二の腕を戦鎚で殴られ、冬将の騎士は横に吹っ飛んだ。ジグリットはファン・ダルタが倒れるのを初めて見た。それは恐ろしい光景で、ジグリットは唇が震え、瞬きもせず騎士を見つめた。彼は起きてこない。
下卑た笑いを漏らし、番豹がジグリットに近づく。
「さぁ、これでおまえはおれのもんだ」丸太のような太い腕が伸びてくる。
ジグリットが避けようとする前に、間近で戦っていた二人の兵士が間に飛び込んだ。
「陛下、逃げてください」「早くッ!」
二人の兵に言われても、ジグリットは動けなかった。ファン・ダルタがこんな粗暴な男に負けるはずがなかった。
ゴドイは兵士の言葉に初めて顔をしかめた。
「陛下だと!? この坊主がタザリア王だというのか!!」
番豹は雇い主であるクストー・デザーネがなんと言っていたかを思い出そうとした。タザリア王に出くわしたら、殺してもいいと言われたかどうか・・・・・・。考えている間に二人の兵士が向かってきた。ゴドイは上を向いて思考しながら、まともに眸を向けることもなく、二人の兵士の頭を、ほぼ同時に戦鎚の一振りで吹っ飛ばした。
ジグリットはその瞬間の骨が砕ける音に、怒りより先に恐怖が立った。長剣を握る手が汗ばみ、ゴドイ・マリーノの凶悪な笑みを前に躰が竦む。
「まぁいい。おまえをデザーネの許に連れて行こう」
ゴドイは今度こそジグリットを捕まえようと手を伸ばした。しかしまたしてもその手は届かなかった。ジグリットは歯を噛み締め、力一杯ゴドイの腕を斬りつけた。ゴドイは華奢な少年の一打ぐらい鎧はおろか、なめし革でも大した疵の心配は不要だと避けなかった。だがジグリットは狙いすましていた。冬将の騎士が疵つけた場所と同じ箇所にジグリットは刃を食い込ませた。
「う゛お゛お゛お゛ッ!!」ゴドイは獣のように吼え、血が噴出した腕を見下ろした。
男の眸に憤怒を湛えた獰猛な光が宿り、ジグリットは半歩下がった。そしてゴドイの戦鎚が今度は自分の頭を吹っ飛ばそうと持ち上げられた瞬間、ゴドイが再び絶叫した。
冬将の騎士がいつの間にか起き上がり、ゴドイの膝裏を突き刺していた。
「ぐああぁぁぁぁッッ!!」番豹は蹲り、痛みに悶えながら戦鎚を後ろに向かって振り回した。
ファン・ダルタはそれを見極めて素早く避けた。そしてゴドイを挟んで立っているジグリットを見た。少年は無事だったが、ゴドイの左右に兵士が二人死んでいる。騎士の胸の内に怒りが湧き上がった。
番豹も同じくらい怒っていた。男はあまりの怒りに顔が黒ずみ、ジグリットのことなど忘れて、狼をなんとしても殺そうと、戦鎚を手に振り向きながら立ち上がろうとした。
「貴様、殺してやる! 殺してやるぞッッ!!」
しかしそれが男の最後の言葉になった。ファン・ダルタは立ち上がる直前の男の首が、自分の折れた右腕がなんとか持ち上がる高さにまで来るのを見計らっていた。そしてその一瞬の好機を逃さず、剣を薙いだ。
騎士を罵倒しようとしていたゴドイは喉の奥で、ごぼっと無様な音を立てるしかなかった。頸動脈が断ち切れ、鮮血が飛び散った。ゴドイは冬将の騎士の前に盛大な音を立てて、仰向けに倒れると、急いで血を止めようと自ら手で首を押さえたが、やがてそのまま動かなくなった。
番豹が死んだことを見届けたファン・ダルタは、すぐにジグリットに駆け寄った。
「お怪我はありませんか?」
ジグリットは安堵と同時に、ゴドイが倒れると我先にと敵兵達が逃げ出すのを見ていた。名ばかりとはいえ、後衛軍の指揮官が殺られたのだ。ジグリットの部隊と戦っていた多くの軽装歩兵が、チョザとは逆へアンバー湖沿いを逃げていく。
「・・・・・・ぼくは大丈夫だ。それよりファン、おまえの方が酷いな」
眉を寄せたジグリットに、騎士は右腕を隠すように躰を反らした。
「これぐらいはなんともありません」
「なんともないわけないだろう」
ジグリットが右腕を掴むと、騎士は初めて顔を歪めた。
「そんなことより陛下」なんとか話題を変えようと騎士はチョザへの道を指した。「デザーネの用心棒がいたということは、このすぐ先にデザーネの当主もいるはずです」
「だろうな」ジグリットは彼らがすでに進んでいることから、番豹をよほど信頼していたのか、またはこちらの部隊を甘くみたのだろうと考えていた。「やつらがチョザの街にいる本隊と合流する前に、貴族を捕らえないと・・・・・・」
しかし戦闘の要である冬将の騎士の腕を取り、手近に落ちていた敵兵の剣の鞘を拾い上げてジグリットは彼の腕に添え木した。彼の右腕の肩当ては、鋼鉄製にも関わらず無残にへしゃげていた。
「おまえはここにいろ。ぼくと怪我のない者だけで追いかける」
騎士は言われて、それを一笑に付した。
「それはわたしへの侮辱ですよ、陛下。ろくに戦い方も知らない貴族連中相手に、わたしが負けるとお思いですか?」
「そうは思わないけど・・・」
ファン・ダルタはまだ危ぶんでいるジグリットを放って、さっさと生き残っていた三十人ほどの兵士を呼び集めた。その内の半数ほどが手酷い疵を負っている。それでも彼らは皆、少年王と共に行くことを躊躇わなかった。おかげでジグリットは、ファン・ダルタの意志に反対することができなかった。どちらにせよ、この手負いの狼が行くと言えば、たとえジグリットでも抑えられるはずがなかった。