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アンバー湖畔から五千人の軍が王宮へ向かって来ることを、ジグリットは事前に察知していた。ジグリットはすでに数日前から、彼らが傭兵と上流階級の混合軍を組織して、攻撃の機会を狙っていることを聞き及んでいた。
マネスラーが送り込んだ間諜の内、ほぼ全員がすでに連絡を絶っている。彼らの安否も心配だったが、それにより正確な情報を得るのが以前より難しくなったことはさらに手痛いことだった。
だが味方が一人もいないわけではなかった。炎帝騎士団の騎士ドリスティのように、中流貴族や下位の貴族出身者の中には、上流階級につかず、王宮に残った者が少なからずいたからだ。ドリスティは母親から送られてきたという手紙をジグリットに見せてくれた。そのおかげで、上流階級の軍がいつ王宮へ侵攻を始めるのか、ジグリット達にも見当をつけることができた。
上流階級の混合軍が侵攻する前夜であり、グラキーレ以下配下の者が夕刻に出て行った後、貴族の軍がチョザの街へ入る前に、ジグリットはアンバー湖方面にある南の凱旋門を、さらに西方と北方の門も市民警護団に命じて閉めさせた。
そして信頼できる四人の男達を集めて、作戦会議を行っていた。
「グーヴァー、残っている騎士団の騎士と近衛隊の隊員をすべて集めろ。それから兵士見習いでも腕の立つ者は戦闘に備えて準備をさせておけ」
ジグリットは謁見室の長机に諸々の調査資料や地図を並べていた。連日続けてきた作戦会議は、ほぼ終盤に差し掛かっている。この三日まともに寝ていなかったが、それはジグリットに限らずほぼ全員がそうだった。
「わかりました。すぐに手配します」騎士長のグーヴァーが頷き、謁見室を出て行く。
ジグリットの正面にはマネスラーが座っていた。彼はこれ以上ないほど人相が悪く、長い前髪が視界をほとんど遮っているおかげで、暗く陰鬱な容貌はさらにひどくなっていた。
「グラキーレ達がアンバー湖の南東沿いから上流階級の混合軍を引き連れて来るまで、どれぐらいかかるとお思いですか?」マネスラーが訊ねる。
ジグリットは彼が王宮に残ったことがいまだに理解できなかったが、それでもマネスラーがいないと立ち行かないのは本当だった。実際、マネスラー自身も自分の行為に納得しているわけではなかった。彼はウァッリス公国の貴族であり、国は違えども同じ階級にある者達をこのような諍いで敵とみなすのは遺憾であり、気が進まなかった。
しかし王はすでに迎え討つしか手はなく、上流階級を説得しようにも、十家の筆頭一族であるデザーネ家の総領は血気盛んな若者だ。こちらの話を黙って聞くとは思えなかった。
マネスラーは眉間を寄せて、机上の書類の山を何かを探すような手つきで広げた。それを見つめていたジグリットが答える。
「すぐだろう。傭兵を維持する金をも惜しむやつらだ。すぐ進軍を始めるだろうな」
それはマネスラーにも同意できたが、先に王の隣りに座っている騎士が言った。
「でしたら陛下、こちらも準備を抜かりなくしておかなくては」
冬将の騎士はマネスラーが知る限り、常に少年王の隣りに陣取っていた。その黒い狼を王が重用していることは、すでに誰もが知っていたが、マネスラーの眸にはその男の忠誠心は見たことがないほどひたむきであり、真摯なものだった。国の主君とはいえ、そこまで堅固な忠心になると、騎士の王に対する態度は本物の家族愛のようにも思えた。そのことを少年王がどこまで感じ取っているのかはわからないが、マネスラーも自分が王宮に残った不可解な理由の一つに、王に対するそれと同様のものがあることは否定できなかった。
少年は日々成長し、思いも寄らぬ発言や立ち居振舞いでマネスラーを驚かせる。あれほど勉強ができなかった子供が、自分の指導によって、いまや作戦会議で堂々と発言していることが、彼のささやかな自負にさえなっていた。もっと様々なことを教えたい。もっと彼の才能を伸ばしたい。そして彼がタザリアの王として世に名の知れた人物として立ったとき、自分もまた最高の師となるのだ。しかしそれは師と教え子という、ある意味親と子に似た強い関係をも意味していた。そんなことは認めたくなかった。
マネスラーは不愉快な考えに至って苛立ち、無意味に書類を掻き回した。隣りで助手のオイサが片付けるたびに散らかすマネスラーに文句を言いたげにしていたが、恐々視線を送るに留めている。
ジグリットは肘をつき、小さな顎を手の甲に載せて上目遣いに、机上の七枝の燭台を眺めながら言った。蝋燭はすでに半分以上溶けている。
「だが、指揮官となるべきほとんどの騎士がグラキーレに付いたんだ。残った数人で数千人もの兵をまとめ上げるのは至難の業だな」
確かにそれは不可能だとマネスラーは手を止め、考えた。現在炎帝騎士団の騎士の数はいまや七人しかいない。それも騎士長グーヴァー、冬将の騎士ファン・ダルタを含めて七人だ。
騎士は元々、タザリア軍では指揮官としての役割を担うための訓練をされていた。バスキオ・グラキーレが自分を含め、十七人の騎士を向こうに連れて行ったことは、混合軍の人数五千人に勝るとも劣らない大問題だった。
「こちらの人数は雑兵を入れても三千人程度になるでしょう。他国との戦争なら時間をかけて兵を集められますが、これほど急を要している上に、相手がいつも兵を集めるのを任せていた上流階級では、人数も集まりません。しかも指揮官が足りないとなっては、どうにもなりませんね」マネスラーが口を歪めて告げる。
「寄せ集めの混合軍より質が悪いな」とジグリットは冗談めかして笑った。しかしその眸は本当には微笑んでいなかった。
近衛隊長のフツは、一人だけ四人から離れた席について、行儀悪く机上に脚を載せ、退屈そうに足先をぴょこぴょこと動かしていたが、ようやく閉じていた口を開いて意見を述べた。
「あえてやつらに協力態勢を強いるのを止めて、好きなようにやらせたらどうだ?」
フツはその場にそぐわないほど、弛み切っていた。近衛隊の隊員もおよそ四分の一ほどがグラキーレに連れて行かれたというのに、まるで意に介していない様子だったのだ。
「それしかないだろうな」ジグリットはフツが机に脚を載せていようと、突っ伏して寝ていようと、この戦闘で彼が必要なことは言うまでもなかったので、大概の姿勢に眸を瞑っていた。「協調が必要な箇所では、小部隊でも訓練された兵を配置すればいい」
ジグリットが言うと、冬将の騎士が見慣れた深い闇夜のような黒い眸で少年王を見た。
「もちろんあなたの周りに置く騎士は、わたしを筆頭に信頼できる者で固めましょう」
これは先制だった。ジグリットは冬将の騎士を前衛部隊の指揮官に任命しようと思っていたのだが、もちろん騎士もそれを見越していたのだ。
溜め息をついてジグリットはうな垂れた。この調子ではファン・ダルタはジグリットが思いついた作戦に、文句を言うだろうと予測できたからだ。案の定、騎士長のグーヴァーが騎士五人と、フツが名を挙げた信頼できるという六人の近衛隊員を連れて戻って来る頃、冬将の騎士は牙を剥いて反論していた。
「賛成し兼ねます。あなたが王宮から出る必要性を感じません」
謁見室にやって来たグーヴァー達は、冬将の騎士の荒々しい口調に眸を見開いている。しかしジグリットは気圧されずに訊き返した。
「なぜ?」
「あなたはわたし達の王であり、この戦いの主導者です。危地に赴くなど以ての外。できればここで後衛に徹していただきたい」騎士が尤もな意見を述べる。
だがジグリットは即座に却下した。
「断わる!」
「陛下ッ!」ファン・ダルタがさらに眸を眇める。
「ぼくの敵をぼくが討たずにどうする。それに標的が王宮にいるとやつらも思っているだろうから、移動して行方を晦ましていた方が安全だぞ」
冬将の騎士は誰がいようと構わずに、少年の両肩を掴んで真上から怒鳴った。
「またそんないい加減なことを言って、結局前線どころか、一番危険な所へ向かって行くんじゃないですか!」
掴まれた肩の痛みに顔をしかめながら、ジグリットは相手にせず笑い飛ばした。
「その心配は、自分に自信がない表れか、ファン・ダルタ」
挑発には乗らず騎士は食い下がった。
「あなたがどこへ行こうとも、わたしは全力でお守りします。ですが――」
「だったら別にいいだろう」ジグリットは反論を許さず、騎士の声を遮った。「これ以上うるさくするなら、おまえではなくグーヴァーを連れて行く」
「陛下・・・・・・ッ!」
それで話は終わりだとばかりに、ジグリットはグーヴァーが連れてきた騎士と近衛隊員に作戦の説明と彼らの役割を命じるために冬将の騎士から離れた。ファン・ダルタが少年の背に向けた視線に、マネスラーはぎょっとして思わず身震いした。騎士はその眸に暗い光を宿して怒りに燃えていた。