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ジグリットはタザリア王から側近のギィエラへ、そしてギィエラの呼んだ侍従長から侍従頭へ、さらに侍従の中でも王子ジューヌ付きの侍従へと、王宮の中を転々とさせられた。結果、彼はアイギオン城から西方のソレシ城へ三階の渡り廊下を通じて入り、ジューヌ付きの侍従の一人である十六、七歳の青年に無理やり湯浴みをさせられ、躰中を皮が捲れそうなほど擦られた後、着て来た服を「よくもまぁ、こんなボロを着てましたね」と貶されて捨てられ、今は着たことのない白い絹の上衣を羽織っていた。
髪を切られてさっぱりしたのはよかったものの、爪に鑢までかけられ、甘い香料の入った粉を胸元と首筋に叩かれると、さしものジグリットも、ぐったりとして、打ち上げられた魚のように活力が失われていた。
これではまるでナターシの人形だ、とジグリットは思った。エスタークの貧民窟で、ある日人形を拾ってきたナターシが、汚れた服を脱がせて洗い、ほつれた眸をつけ直してやるのを見ていたことを思い出したのだ。
ジグリットは自分が何をすべきなのか、これからどうなるのか、何もわからなかった。それを質問しようにも、その侍従はたった一分さえ彼に与えなかった。侍従はジグリットを綺麗にすることだけに執念を燃やしていた。
すっかり弱って本物の人形のようになったジグリットに、侍従は最後の仕上げにと、彼を鏡の前に立たせた。ジグリットにとって、自分の姿がどう変わろうがそんなことはどうでもよかった。しかし、立派な彫り細工の入った姿見を正面から見たジグリットは、そこに立っている貴族の少年に、思わずぽかんと口が開いた。
どこからどう見ても、上流階級の貴族の子にしか見えなかった。伸び放題だった髪は、なめらかに梳かれて切り揃えられ、眉まで整えられていた。埃や泥の付いていた手足はピカピカと照り、痩せこけた頬はそのままだったが、それでも薄桃色で血色がよかった。ジグリットは暫し茫然とその見慣れぬ少年と見つめ合っていた。
「ジグリット、どうだい?」と侍従は誇らしげに胸を張った。「ジューヌ様がもう一人、ここに誕生したってわけさ。とは言っても、君は贋者だけど」
ジグリットはそれを聞いて、自分にそっくりだという少年のことを思い出した。その少年は、ここに立っている鏡の中の自分と同じ顔をしているらしい。その人物に会ってみたい、と初めてジグリットは思った。
そしてそれはすぐに実現することとなった。侍従は綺麗になったジグリットを、ソレシ城の北側にあるジューヌの住まいへと案内したのだ。
その際、侍従は数え切れないほどの注文をジグリットに突きつけた。例えば、大声を出さないこと。これは守りたくなくても守ってしまう。声が出ないのだから。それから、恐い顔をしないこと。睨まないこと。怒らないこと。突発的な動きをしないこと。驚かせないこと。近づき過ぎないこと。王子が良いと言うまで彼の顔を見ないこと。などなど。それはもう多岐に渡ってしてはならないことを告げられた。
ジグリットは途中から呆れ果てて聞いていられなくなったほどだ。一体、どんな王子様なのか、会う前から嫌な予感がする。
侍従が説明している間、ジグリットはソレシ城の美しい内観に魅了されていた。石灰で白く塗られた壁や、アーチ形の高い天井、装飾の施された窓は、すべてにあの薄布が掛けられていて、紫暁月の涼やかな風が時折、布からすり抜けて天鵝絨の垂れ布を揺らしている。
この世の中には、こんな素晴らしい場所があるんだとジグリットは感嘆していた。同じ人間でも、自分がこれまで住んでいた所とは雲泥の差だ。ナターシやマロシュ、テトス、それに小さな二人の子供達に、この城を見せてあげたいなぁとジグリットは思った。それと同時に感傷的になり、浮かれていた気分は影を射されたように萎んでいった。
そうこうしているうちに、侍従の足が暗灰色の櫟の扉の前で止まった。そこは二階の北東の角の部屋で、侍従は何の躊躇いもなく扉の取っ手の上部に付いている鐘金具を引いた。カンカンカン、と軽やかな鉄が打ち合う音が三度続く。
「どなたです?」と扉の内側から、女性の声が聴こえた。
侍従が扉に向かって返答する。
「ウェインです。ジグリットを連れて来ました」
すぐに扉が開くと思っていたジグリットは、ウェインと共に並んで、それからシンとした廊下で五分は待たされた。ジグリットはなぜそんなにも待たされるのかわからず、隣りに立つ侍従を何度か見上げたが、彼は「弱ったな」と呟くだけで、見た目にも諦めている様子が窺えた。こういったことはよくあるのだろう。
およそ五分後、扉が開いた。中年の侍女がゆっくりと扉の隙間から顔を出した。しかし、侍女はジグリットを見るなり、息まで止めて凍りついてしまった。
「ジュ、ジュ、ジューヌ様・・・・・・」と侍女はようやく呼吸を再開したと同時に口走ったが、その手は小刻みに震え、ウェインが彼女の肩を掴んで「大丈夫?」と声をかけたほどだった。
侍女が落ち着きを取り戻すと、ジグリットは彼女とウェインに前後を挟まれて室内へと入った。足を踏み入れた瞬間、ジグリットはふわりと躰が浮き上がった気がして足元を見下ろした。亜麻色の毛の長い織物が部屋一面に敷かれていた。その絨毯の感触は、ジグリットの洗いたての素足の裏をくすぐり、指の間に分け入って、歩くたびに草の原を空中歩行しているかのような気分にさせた。それが高価で上等の代物だということは、言われずともジグリットにもわかった。
「こちらへ」と侍女に勧められ、ジグリットは部屋の奥へと連れて行かれた。室内はすべての垂れ布が下がって薄暗く、壁には淡い色の風景画が掛かっている。高級そうな磨き込まれた樫の机には銀白色の金属製の円筒堤燈が置いてあり、中の赤い蝋燭に火が灯り、周りを覆った円筒形の薄い金属板がくるくると炎の熱で回っていた。金属板は少女の踊る様が透かし彫りにしてあり、それは回ると机の上に動きのある影を作り出していた。
ジグリットは前を行く侍女の目線が下ばかり見ていることに気付いた。そして、絨毯のあちらこちらに、玩具が転がっているのを見た。「お気をつけて」と侍女は振り返って言った。ジグリットが頷くと、彼女はその瞬間、大きな玩具をさっと跨いで先へ進んだ。
侍女は部屋の一番奥である続き部屋の一室へジグリットを案内した。そこは広い寝所だった。ジグリットは今まで寝ていたエスタークのあばら小屋の屋根裏が、犬小屋より酷く思えた。それほどまでに、その部屋は壮麗で、中央に置かれた寝台には装飾された天蓋から亜麻織の白い布がたっぷりと襞を作って床に垂れていた。ジグリットはそこが王様の寝室と聞かされても疑わなかっただろうが、その床にも通ってきた部屋同様、たくさんの玩具が転がっていた。
木製の兵隊人形や、鳥の形の笛、開いたままの画集。そのページにはジグリットが見たこともないようなたくさんの動物の精彩画が、活き活きと描かれていた。侍女はそれらを避けながら、寝台へと近づき亜麻織の布越しに声をかけた。
「ジューヌ様、新しいお友達がいらっしゃいましたよ」
甘い優しげな声で侍女がそう告げて、ジグリットは初めてそこに人がいることを知った。寝台の上には、小さな黒い影が乗っていた。影がもそもそと時間をかけて動くのを、ジグリットはじっと見つめていた。すると、寝台の中央から、やっと聞き取れるかどうかという小さなか細い少女のような声がした。
「・・・・・・ヤーヤ、ヤーヤ」
侍女が亜麻織の布を捲くり、そこへ屈んで入って行く。ジグリットは眉をひそめて、隣りの侍従ウェインを見上げた。寝台の中から、ぼそぼそと話し声がしている。ウェインは唇に人差し指をあて、静かにと合図した。ウェインはぼくの声が出ないことを忘れている、とジグリットは思い、溜め息と共に肩を竦めた。
しばらくして、侍女が布を手で掻き分け、出てきた。
「ウェイン、ジューヌ様のお側に」
「わかりました」
今度はウェインが布を掻い潜って、寝台へと上がる。侍女は続いてジグリットに言った。
「それからジグリット、ジューヌ様がお会いになられるそうです」
彼女はしずしずと華蓋から垂れ下がった亜麻織の布を左右に開いた。そしてカーテンのようにそれを寝台の両端の支柱に括り留めた。ジグリットは中央の大人が四人は寝られるだろう大きな寝台と、その上に座っている侍従ウェイン、そして彼にぴったりと寄り添っている自分と同じ歳ぐらいの少年がいるのを眸にした。
「ジグリット、膝をつきなさい」と侍女は強い口調で言った。
ジグリットは慌ててそこへしゃがみ、ファン・ダルタやグーヴァーが王にしていたように、肩膝をついて恭しく一礼した。一度見ただけの挨拶の仕方は、誰が見てもほぼ完璧だった。一介の兵士のようなその姿に、侍従と侍女は眸を瞠った。
王子はウェインの袖を掴んだまま、不安げに彼に問いかけた。その声はジグリットにもかすかに届いた。
「ウェイン、ぼくどうしよう・・・・・・なんて言えばいい?」
「ジューヌ様、大丈夫ですよ。ほら、もっとジグリットをよく見てください。あなたに似ているでしょう。そんな人が悪い人なわけないじゃないですか」
「でもぼく・・・・・・イヤだよ・・・・・・・・・」
ジューヌは寝台の上でウェインに両腕を絡め、ぐじぐじと口先で文句を垂れた。ジグリットはその脆弱な少年を注意深く見つめていた。彼が自分にそっくりだと、グーヴァーも侍従達も言う。実の父親であるタザリア王でさえ、一度は間違えたのだ。しかし、ジグリットの初見では、彼はまったく自分とは違う人間に見えた。こんなに女々しい男は初めてだとジグリットは呆れを通り越して、むしろ興味さえ抱き始めていた。
ジューヌは、侍従のウェインに遊里の女のようにしなだれかかっていた。
――まだナターシの方が男前だ。
ナターシが聞いたら激怒しそうなことを思いながら、ジグリットはジューヌが落ち着くのを待った。
侍従のウェインがジューヌに、何を言えばいいのかを告げると、ジューヌは鸚鵡のようにそれをジグリットに向かって、また囁くような高い声で繰り返した。
「お、おまえの謁見を許可する。名を名乗り、面を上げよ」
しかし、ジグリットは名を名乗ることができないので、口を閉じたまま、ジューヌの横にいるウェインに視線を送った。
「ああ、そうでした。ジューヌ様、彼は口が利けないのですよ」
すると、ジューヌは初めてジグリットに興味を示した。
「えっ!? 喋れないの?」そう言ってジグリットを見る。
「そうですよ。名前は私がお教えしましょう。彼はジグリット。そうですね、ジグリット?」
ジグリットはウェインに頷いた。
「へぇ、そうなんだ。お、おまえ・・・・・・ぼくと同じ色の髪だな。それに、眸も・・・」
ジューヌはウェインから離れ、寝台の縁にまで這いずると、そこに腰掛けてジグリットをじろじろと眺めた。
「顔も似てるな」
「そうでしょう。ジューヌ様、彼の顔をもっとよくご覧になりますか?」
「うん。いいぞ。おまえ、もっとこっちへ来ることを許可する」
ジグリットはジューヌの言葉にすっと立ち上がった。しかし、その動きに寝台の縁に座っていたジューヌは驚いて、猫のようにウェインの後ろへ身を隠した。
「ジグリット、動くときはゆっくりと」と背後で侍女が囁く。
――臆病なヤツだ。
ジグリットは仕方なく、歩幅を狭めてゆっくりと寝台へ近づいた。そして寝台の前でまた跪いた。そうするとジューヌはおろか、ウェインの姿も寝台の側面で見えなくなってしまった。
「さ、ジューヌ様。ジグリットをご覧下さい」とウェインが言うのが聴こえた。
「・・・・・・わかった。ウェイン、おまえはそこにいろ。いいな? 動いちゃダメだぞ」
「わかっております」
その後、ずるずると寝台の敷布がこちら側へ縒れてきて、ジグリットは頭上に王子が近づくのを察知した。
「ジ、ジグリット・・・・・・?」
王子のか細い声にジグリットは意識してゆっくりと顔を上げた。眸の前に、鏡でさっき見たばかりの自分が、不安一杯の表情を作って覗き込んでいた。
「おぉ・・・・・・」と王子が息を漏らした。「確かにぼくによく似てるな」
それはこっちの台詞だ、とジグリットは思った。しかし動揺を抑えて、努めて何も考えていないような、力の抜けた表情で彼を見つめ返した。臆病者なら、ジグリットがここで恐い顔でもしようものなら、またさっきのようにウェインの後ろに隠れてしまうだろう。
「おまえ、どこから来た? 何歳?」
ジューヌの問いに、ジグリットはゆっくりゆっくり手を上げ、自分の喉を指差した。
「ああ、そうか。口が利けないんだっけ。んーと・・・じゃあねぇ・・・・・・」
しかし二人の対面はそこで闖入者が現れ、突然にして終わった。
「ジューヌ、ジューヌッ!! 聞いた? おまえにそっくりな――」
背後から大声で入って来た少女を、ジグリットは驚いて振り返った。その時にはすでにジューヌは飛び上がるようにして、自分の絶対的な味方であるはずの侍従の後ろへ隠れてしまっていた。
「あら、もうこちらに挨拶に来ていたのね」
少女はジグリットとジューヌ、二人と同じ錆色の長い髪を背中で躍らせながら、十二、三歳とは思えない大人びた容姿で満面に笑みを浮かべ近づいて来た。
いきなりの乱入に侍女が困惑げに口を挟んだ。
「リネア様、ただいまジューヌ様がお目通りをなされている最中でございまして、」
「わたくしが邪魔をしたとでも言いたいの?」
リネアの鋭い流し眸に侍女は頭を下げた。
「い、いえ、そうではありませんが、ジューヌ様は新しいお友達に馴れる必要があるかと思いまして」
「新しい・・・・・・お・と・も・だ・ち?」はっきりと区切りながら言ったリネアは、入って来た時の朗らかさとは逆行した冷たい笑みを侍女に向けた。「おまえ、この小汚い盗人がわたくしの弟であり、王の嫡男であるジューヌと同等だと言いたいの?」
「えっ!? ぬ、盗人?」
ジグリットはごくりと唾を呑み、寝台の前に屈んだままリネアを見上げた。その人物が誰なのか、ジグリットは会話から理解していた。『わたくしの弟』と発言したなら、彼女は王子の姉である、王女リネア・タザリアしかいない。しかしジグリットは、その王女の自分に対する言葉に困惑していた。それは侍女と侍従のウェインも同様だった。
「リネア様、ジグリットは陛下がわたくし共にお世話するようにと預けられた少年でございます」
「そ、そうです。盗人などではありません。そうでしょう、ジグリット?」
侍女の優しい問いかけに、ジグリットは困窮した。確かに、騎士長の鞍を盗もうとしたのはテトスで自分ではなかったが、実際ジグリットは盗みをして生計を立てていたのだ。違うと答えるとそれは嘘になる。それに騎士長を含め、その場にいた者達でさえ、ジグリットも共犯だと思っているようだった。
ジグリットがなかなか返答しないでいると、リネアはほらね、と言うように微笑んだ。
「わたくし、帰還兵に聞いたのよ。お父様が連れて来たジューヌに似た少年のこと」ふふふ、とリネアは意味ありげにさらに続けた。「エスタークの孤児ですって」
ジグリットは侍女と侍従が自分を今までと違う眸で見るのを感じた。いずれすべてがみんなの知るところとなるだろうと思っていたが、こんなに早くそうなるとは思わなかった。ジグリットは完全に出鼻を挫かれた形になり、傷つき落胆した。
一方ジューヌはと言うと、侍従の肩越しに戦々恐々と成り行きを見守っていた。ジューヌは、ジグリットのことなどどうでもいいから、今は全員に部屋から出て行って欲しかった。いや、侍女のヤーヤを残して、残りの三人に出て行って欲しかった。揉め事は嫌いだし、リネアは怖い。そしてとばっちりを喰うのはもっと恐ろしかった。しかし口を出すほど彼は勇敢でもなかった。
あっという間に場を支配したリネアは、女王のような貫禄でジグリットに手招きした。
「おまえ、そんな所で這いつくばっていないで、こちらへ来なさい」
ジグリットは言われたとおり、とりあえず立ち上がった。侍従を振り返ったが、ウェインもどうすればいいのかわからないような顔で、茫然とジグリットを見返している。仕方なくジグリットはリネアの許へ近づいた。
彼女はジグリットよりニインチ(およそ五センチ)ほど背が高かった。しかし見上げた顔は細面で猫のように小さく、つんと尖った淡紅色の唇には薄い笑みが、そして錆色の眸にはかすかな愉悦さえ窺えた。ジグリットはリネアのすでに完成された美貌を前に、眸を瞬かせた。
「近くで見るとなおさら、ジューヌのようね」彼女はそう言うと、突然ジグリットの顎を指先で掴んだ。そしてもっとよく見ようと上げさせる。「身分を弁えず、将来の王と同じ貌を持つなんて」そこでリネアは口付けしそうなほど、顔を寄せジグリットにしか聴こえない最小限の吐息で囁いた。「殺されても文句は言えないわね」
その言い様にジグリットはぞっとして、瞬発的にリネアの手を振り払った。
「ジグリット!」侍従の叫びに、ジグリットはそうしてはいけなかったのだと知ったが、すでに遅かった。王女の手を叩き落としてしまったのだ。
「も、申し訳ございません、リネア様。何卒お赦しを。王宮へ来たばかりで、まだ礼儀も知らない者ですから」
侍従の怯えにリネアは明るく声を立てて笑った。
「まぁ、わたくし、そんなに心が狭くはないのよ。これしきのことで怒ったりしないわ」そしてジグリットを見返すと、王女はたおやかに微笑んだ。「今宵の晩餐で会いましょうね、ジグリット。わたくし、あなたと仲良くしたいのよ、本当よ」
その笑顔に隠された冷淡な眸は、ジグリットを怖気づかせるのに充分だった。彼女は来た時と同様、颯爽と髪を靡かせ、満面の笑みを湛えたまま、一人楽しげにジューヌの寝所を出て行った。