5-2
二時間後、王宮の謁見室に彼らはその争いの舞台を移していた。玉座に腰かけたジグリットは自分とそう歳の違わない一人の少年と、謁見室の外から成り行きを見守っている十数人の少年兵達を眺めていた。そこから少し真横に離れた場所には、前々から用意は万端であったかのように装備の整った騎士が五人、それに兵舎で少年達を指南しているという黄土色の制服を着た士官六人がひとかたまりになって立っている。
騎士長のグーヴァーがその中心人物である少年兵を連れて現れると、すぐに騎士と士官達が謁見室に飛び込んできた。それに引き続き、少年兵の友人達が謁見室に入ろうとする。しかし数十人の少年達は扉の前で番をしている近衛隊員二人に止められ、仕方なしに廊下から開いた扉の中の玉座を覗き込んでいた。
最初、どちらも自分寄りの事の経緯を主張し合っていたが、いつまで経っても玉座のタザリア王が黙っているので、やがてそれとなく静まっていった。
冬将の騎士は最後にやって来ると、一番ジグリットに近い場所に跪いた。
「ジューヌ様、兵舎での騒ぎは一段落しました。一連の関係者は皆ここへ連れて来ましたが、如何致しましょう」
ジグリットは彼に頷き、落ち着かない様子でしきりに瞬きしている少年兵を見た。グーヴァーの横に立った少年の歳は十四、五といったところだろう。色黒で赤茶けたぼさぼさの髪に灰色の眸。どこにでもいそうな少年だった。
「名前を」とジグリットは少年に促した。
「スタインです、陛下」その声には深い絶望が混じっていた。
「ではスタイン、なぜクヴァラ士官を殺したのか聞かせてくれないか?」
「はい・・・・・・」俯いて、しばらくスタインはおどおどと周りに眸を走らせた。それから上目遣いに玉座のジグリットを見て、小さく身震いした。「ぼく、あの人に乱暴されてました。ずっとです」
あまりに声が小さかったので、最後尾が聞こえずジグリットが聞き返した。
「どれくらい?」
「わかりません。でも、チョザの兵舎に来てからずっとです。ぼく以外にも、酷いことされてる人がいっぱいいます。みんな、何も悪くないのに、殴られたり、蹴られたりしています」
そのとき、左側に立っていた貴族出身者の士官の一人が口を挟んだ。
「陛下、彼らの態度が悪いのでわたし共は――」
「黙っていろ!」ジグリットはそちらを見ずに冷たく制して、また少年に声をかけた。「スタイン、続けて」
スタインは左側に立っている男達が怖いのか、唇をぶるぶる震わせながら相変わらず小声でぼそぼそ言った。
「はい。ぼくはクヴァラ士官を殺すつもりなんかなくて、ただちょっと言い返しただけです。なのに、すごく怒ってあの人は剣を抜こうとしました」
「嘘だ!」
「先に剣を持っていたのは貴様だろう!」
また騒ぎ出した騎士や士官に、ジグリットは先ほどより激しく怒鳴った。
「黙っていろと言っただろう! 何度同じことを言わせるつもりだ」
ジグリットは口を閉ざしたものの不服そうに自分を見つめる彼らから、少年へと眸を移した。
「スタイン、クヴァラ士官は君を殺そうとしたのか?」
「わかりません。でも剣を抜いていました。それでぼくは、怖くて・・・・・・」
今のスタインは怯えて萎縮しきっている。そんな少年が今まで乱暴されていたからといって、自ら積極的に攻撃を仕掛けるだろうか。ジグリットが考えていると、少年は王が疑っていると思ったのか、涙を浮かべて訴えた。
「稽古剣が刺さったのは偶然です。わざとじゃありません! 信じてください!」
スタインが激しく首を横に振ると、彼の涙が左右に吹き飛んだ。
隣りに立っているグーヴァーが気の毒そうに少年を横目で見下ろしている。しかし貴族出身者達は容赦なく追及した。
「陛下、そのような下賎な者の虚言を信じるおつもりですか?」
「大体、クヴァラが彼に暴力を働いていたという証拠もないのですよ!」
「自分で殺しておいて、死者に汚名を着せようなどと、彼は重罪に処すべきです」
ジグリットは玉座の背凭れに躰を預けて、憤慨している男達と泣いている少年とを見比べた。それから最後に口を開いた傲慢な士官の一人を睨みつけた。
「判決はわたしが下す。それにスタインの言ったことは、すぐに証明できるだろう」
ジグリットの言葉に、貴族側の男達は皆、訝しげに互いを見合った。さらにジグリットが廊下にいる少年兵達、十数人を謁見室に招き入れると、騎士や士官達は小声で、どうするつもりなのかと囁き合った。
ジグリットは、泣き濡れた顔を腕でごしごしと擦っているスタインの後ろに並んだ、十四人の同じ年頃の少年達が緊張した面持ちで棒のように突っ立っているのを見て、自然と口元を緩めた。彼らは全員、十四歳から十七歳といったところで、与えられた灰色の兵服はぶかぶかだったり、ぴちぴちで足が付き出していたり様々だったが、どの少年も足元の裾は擦れて黒く煤けて、徐々にほつれかかっていた。体格は細いのやらのっぽやら、にきび顔から髪の逆立ったのまでいたが、全員が強張った顔で俯いていた。彼らはさっきまでは廊下の外から非難の言葉を騎士や士官に投げかけていたのに、今はまるで借りてきた猫のように大人しかった。
「おまえ達、全員そこで服を脱げ」ジグリットが言うと、少年兵達だけでなく、貴族出身者達もきょとんとした顔つきになった。ジグリットは全員の訝しげな眸を無視した。「さっさとしろ」
これには泣いていたスタインでさえ、思わず聞き返した。
「・・・あの、陛下・・・・・・それは、どうしてでしょうか?」
「聞こえなかったのか?」ジグリットはそれも無視して、彼を急かした。「いいから早くしろ」
少年達が戸惑い気味に、だが言われた通り、もぞもぞと服を脱ぎ始めると、貴族側の騎士や士官達は彼らの貧相な躰を莫迦にして、くすくす笑ったり皮肉ったりした。しかしスタインとその後ろにいる十数人の少年達の腕や背中が顕わになるにつれ、その冷笑は沈黙に変わっていった。
ジグリットは玉座から立ち上がりスタインの前へ行くと、自分とそう変わらない身長の少年の腕を取った。腕にはできたばかりの紫色の痣から治りかけた黄色い痣まで、片腕だけで五つもあった。
「この痣は形や大きさからして、剣戟の稽古でできたものではないな」
隣りにいたグーヴァーが同じように、スタインの背中にできた二インチ(およそ五センチ)ほどの円形の痣を怪訝な顔で指差した。
「こちらにもあります。まるで蹴られた痕のようにも見えますが」
スタインは国王と騎士長に躰をじろじろと観察されると、またほろほろと声もなく泣き始めた。ジグリットは自分の上衣の袖で彼の顔をぐいと強く拭いた。それからすぐに後ろに並んだ他の少年達も同じように見て回った。
彼らはスタインとは違い、緊張しつつも自分に触れるジグリットから眸を離さず、痣のことを問いかけられると、怖々と小声で答えた。
やがてジグリットが少年兵達の許から離れて玉座に戻り、貴族出身者のかたまりに眸を向けると、彼らは視線を彷徨わせながら、誰か反論するものはいないかと仲間内で目配せした。
そしてジグリットが口を開く前に、一人の褐色がかった髪の騎士が進み出て言った。
「陛下、たとえ彼らが乱暴されていたとわかったとしても、それがクヴァラであったとは言えないのではないでしょうか? 少年兵同士の諍いかもしれません」
ジグリットは可笑しそうに笑った。
「スタインを庇って戦おうとしていた彼らが、仲間内で痣になるほど激しく争うと思うのか? 遠慮のない攻撃は常に強者から、一方的に与えられるものだ」
「しかし――」
言い募ろうとした騎士を遮り、ジグリットは彼を侮蔑するためだけに問いかけた。
「猫が鼠を噛み殺すのを見たことはあっても、鼠が仲間を噛み殺すのを見たことはないんじゃないのか?」
騎士は顔を歪めて、押し黙った。
「おまえ達の槍的は長剣ではなく、稽古剣で血を流して見せたのだ」ジグリットはスタインの真っ赤に潤んだ眸と無数の痣を見た。「彼の言い分を聞かずとも、これが報復であったことは間違いない」
ジグリットは王女リネアがかつて自分をいたぶり、加虐で苦しめたことを思い返し、その少年の躰を真正面から見ることに苦痛を感じていた。あれと同様の痣が自分にあった時期のことは、思い出したくもなかった。孤児のジグリットから王子ジューヌへと生まれ変わった後、リネア自身も変貌したかのように、自分に対する態度を変え、彼女は弟に表面上は優しく接していたが、それでも過去の記憶を消すことはできなかった。
「彼の処刑はなしだ。その少年兵は今日を以って除隊とする。何が真実か判断できない場合、彼の罪を咎めるのは難しい。人を殺したからといって、その犯人を殺すことが最良であるとは言えないだろう」
ジグリットはそう判決を下すと、少年兵達に服を着るよう命じた。だが、それではもちろん貴族側が納得するわけもなかった。士官達はこぞって反論しようとしたが、一人の騎士に押し留められ、代わりに彼が全員の意見を告げた。
「陛下、われわれは大切な仲間を不当にも殺されたのですよ。あなたの部下でもあるクヴァラ士官に対し一切の慈悲もない。このような裁決は認められません」
しかしジグリットは取り合わず、「異議は却下する」とだけ述べると、少年兵達を全員、謁見室から出て行かせようとした。
騎士長のグーヴァーも少年兵達が出て行くと、まだ何が起こったかわからず、ぼさっと立っていたスタインの背を押した。
「ほら、出て行け!」そう言うと、グーヴァーはスタインの耳に小さく忠告した。「急いでチョザから離れるんだ。遠くまで行けよ」
スタインは一瞬振り返り、ジグリットに眸を合わせると素早く一礼して、脱兎のごとく走り出て行った。
貴族出の騎士や士官達は、逃げて行くスタインの背にぶつぶつと何か呟いていたが、やがてその内の一人の声がジグリットにも聞こえた。
「こうなったら、われわれで・・・・・・」
このままにしておいたら、あの少年は貴族の手の者に明日には殺されるだろうと気づいて、ジグリットは最後に彼らに釘を刺した。
「スタインに手を出したら、その者には厳重な罰を与える。いいな!」
やがて不承不承といった様子で、謁見室から貴族出身者の集団が出て行くと、さすがにジグリットも疲れて玉座の中で眸を閉じた。
「ジューヌ様、クヴァラ士官の遺体ですが、クヴァラ家の方へ連絡し引き取りに来させます」冬将の騎士はジグリットがうっすらと眸を開けると、穏やかな黒い眸を向けて返事を待っていた。
「ああ、そうしてくれ」
彼が去って行くと、ジグリットは初めて、冬将の騎士が貴族でなくてよかったと心から感じた。ファン・ダルタはジューヌに忠誠を誓ってくれた。だから彼は信頼できる。そして、不安そうに目尻を下げて寄ってきたグーヴァーもまた、ジグリットにはなくてはならない、数少ない支持者だった。
「陛下、これで陛下の立場は貴族共に、平民寄りだと言われることになるでしょう」
彼の心配がもっともなことはわかっていた。
「だろうな。だが、スタインは悪くない。そういう状況を知りもせず放置していたぼくが悪いんだ」
「・・・・・・すでに騎士の中にもあなたへの忠誠を疑わざるを得ない発言をしている者もいます。これからは今まで以上に慎重になさるべきかと思います」
「これまで以上にか?」ジグリットは岩のように硬い表情を見せているグーヴァーに、大げさなほど驚いて見せた。
するとグーヴァーもふっと頬を緩めて頷いた。
「ええ、これまで以上にですよ」
彼らは互いに穏やかな笑みを向けていたが、やがてグーヴァーは玉座の前の段を上がると、分厚い手のひらでジグリットの肩を掴んだ。
「陛下、あなたの毅然とした裁定をわたしは誇りに思います。クレイトス様が見ておられたら、きっとわたし以上にあなたの成長を喜ばしく思われたでしょう」
グーヴァーの言葉はジグリットの中に湧き上がった不安という灰色の雲の一片を吹き飛ばした。だが、それはほんの僅かに過ぎず、ジグリットはこれから先も、平民と貴族に分け隔てなく接していくには大きな障壁があると感じていた。どちらをも味方につけるには、人の心が流れるのは速く、さらに時間は経ち過ぎていた。




