3-2
「ク、クレイトス様・・・・・・」
ギィエラが慌てて止めようとするも、王はすでにジグリットの眼前に立っていた。そして右や左から悉に、彼を検分した。
「ふむ、見れば見るほどジューヌに似ているな、君は」
王に言われてジグリットは複雑な気分で、またもじもじと躰を揺すった。
「エスタークに戻りたいかね?」
問われてジグリットは「はい」と答えようとしたが、声が出ないことを思い出し、ただ頷いた。
「無礼ですよ、王の質問に首を振って応えるなどと」
ギィエラが玉座の隣りからジグリットに注意すると、グーヴァーは肩を竦めた。
「申し遅れましたが、彼は唖なのです」
「聾唖者なのか?」と王が訊ねる。
「いえ、耳は聴こえています。ただ喋れないだけです」
全員が口を閉ざして考え込むと、ジグリットは彼らが何か勘違いしていることに気づいた。グーヴァーもファン・ダルタも、ジグリットが風邪で声が出ないだけだということを知らないのだ。つまり、ずっとこのまま喋れないのだと思っているらしい。
説明すべきかとも思ったが、ジグリットはそれがどんなに大変なことかを知っていたので、とりあえず今は黙っていた。風邪さえ治ればすぐにわかることだ。
「口が利けないなら、王子の影武者は務まらないでしょう」
ギィエラは冷静にそう告げた。ジグリットは全員の視線にいい加減、居心地が悪く、何度も隣りで跪いているグーヴァーを見たが、彼はなぜか自信満々といった様子で朗らかに笑んでいた。
しばらくして王はジグリットの正面に立ち、少し身を屈めて息子に似た少年を覗き込んだ。近くに寄ると、さらにその王の眸はジグリットをドキドキさせた。その眸は彼とまったく同色だったからだ。ジグリットは、何度か想像したことのある自分の父親像を、この瞳に感じずにはいられなかった。
「声が出ないのかね?」
王に問われて、ジグリットはコクンと頷いた。いずれは出るだろうが、とにかく今は出ないのだから、嘘をついているわけではないとジグリットは思った。
「そうか。それは可哀相に。じゃあ、君はどうやって話しをするのかな? 例えば・・・・・・自分の名前を人に教えるときは?」
ジグリットは即座に隣りにいるグーヴァーを指差した。王はその指の先にいる騎士長を見た。
「なるほど。自分のことを知っている人に、話してもらうんだね?」
ジグリットが再び頷くと、王は言った。
「じゃあ、君のことを知らない人ばかりだったら、君はどうやって自分のことを話すんだい?」
ジグリットは眸を丸くした。そんなことは考えたこともなかった。声が出なくなったのは、つい数日前のことだ。
「君は、字の読み書きができるのかな?」と王は続いて問うた。ジグリットはすぐに首を横に振った。
字の読み書きなんて、貧民窟の孤児は誰一人できない。ジグリットも看板の文字の一つ二つは読むことができたが、長い文章を読んだり、書いたりすることはできなかった。タザリア王国の識字率は低く、それは王都から離れるとさらに顕著になっていた。
「字も読めないとなると、我々との意思疎通もままなりませんよ、クレイトス様」
ギィエラが言うと、王は身を起こして「確かにな」と呟き、グーヴァーの肩を叩いた。
「騎士長、君の我が息子を思う気持ちには感謝しよう。しかし、彼が幾ら息子に似ていたとしても、これは厄介なことだぞ」
「それは当然そうでしょう。しかしながら陛下、わたしの知る限り、これほどジューヌ様に似た少年はこのバルダのどこを捜してもいない、そう明言できます。影武者を育てるなら、彼において他はないでしょう」
「・・・・・・・・・・・・」
王が黙ってしまうと、ギィエラが口を挟んだ。
「グーヴァー騎士長、言が過ぎますよ」
「これは失敬。魔道具使いギィエラ殿でも、ジューヌ様の身代わりを作り出すことは可能かもしれません。しかし彼は本物の人間です。人は人を見極める能力を生まれながらに持っているものです。わたしが王子に似た彼と出会ったのも、何かの因果。そう思われませんか、陛下」
ギィエラは、跪いたグーヴァーの見かけとは違う自分に対する無礼な態度に、今までの穏やかさを消し去るような冷ややかな顔つきになった。
ジグリットは自分がエスタークに戻れるなら、その方がいいと思っていた。王がジグリットをエスタークに戻せと言えば、また仲間と一緒に、過酷でも楽しい暮らしができる。しかし、王は玉座に戻り、どっかと腰を落ち着けた。その頃にはギィエラはまた仮面を貼り付けたかのような穏やかさを取り戻していた。
「ジグリット、君のその手は一体どうしたんだね?」と王は袖机に右肘をついて訊ねた。
答えようとしたジグリットは、王の射抜くようなまっすぐな視線を受けて、今まさに自分が試されているのだということに気付いた。なぜなら、その問いは今までのものに比べて、答えるのが困難であるとわかったからだ。もし、王が本当にその疑問を知りたいのなら、隣りにいるグーヴァーに訊けばいい。それなら、答えはすぐに得られる。そうしなかった理由をジグリットは瞬時に悟ったのだ。
王が自分を試す理由は一つしかない。うまく答えられない愚鈍な少年は田舎街へ帰してしまおうと思っているのだろう。そしてそれは彼にとってまさに願ってもないことだった。ジグリットはエスタークへ帰りたいのだ。
しかし、それと同時に眸の前の玉座に座った一人の男を、ジグリットはあっと言わせてみたいとも思った。同じ錆色の眸と髪を持つこの王に、ジグリットは思慕にも似た感情を抱き始めていた。それは会ったことすらない父に対する憧憬だった。彼はものの数秒も逡巡しなかった。
ジグリットは、少し離れて跪いたまま、微動だにしないで床を見つめていたファン・ダルタを横目で確認すると、颯爽と近づいて行き、彼がその面を上げる前に、抱えていた兜を裸足で蹴り飛ばした。黒い兜がガランガランと磨かれた御影石の床を勢いよく転がって行く。
「何をするッ!」
ファン・ダルタの鋭利な眸がジグリットを捉え、彼は腰の長剣に手を置き、立ち上がった。ジグリットはそんな騎士を、小莫迦にしたように口元を吊り上げ鼻で嘲笑った。
「き、貴様!!」
貧民窟の子供にからかわれた騎士の怒りは並々ならぬものだった。すぐさま彼は、すらりと剣を引き抜いた。そしてジグリットに刃先を向ける。ファン・ダルタは本気でジグリットを斬り殺すつもりだった。グーヴァーが止めようとした瞬間、ジグリットはすっと剣の正面に、自らその手のひらを差し出した。
――真っ白な包帯が巻かれた手。
その手を見たファン・ダルタは、眸を見開いた。そして自分が何をしようとしているのかを知り、一気に頭に昇った熱が冷め、愕然とした表情で王を振り返った。ジグリットもそれに続いて、ゆっくりとタザリア王へ顔を向けた。
王は静かに頷いた。
「・・・わかった。剣で斬られたのだな、その疵は」
静観していた王が察知すると、ジグリットはまるで演技終えた俳優のように、それまでの緊張を解き、柔らかく破顔した。
「その相手は、ファン・ダルタ、貴公だと言うのか?」と今度はギィエラが問いかける。
騎士は気まずそうに、長剣を鞘に収めた。王の前で、しかも玉座の間を血で穢すところだった。怒りで場所を忘れて血を流すことなど、あってはならないことなのだ。
「わたくしの不注意により、彼に怪我を負わせたのは確かです。・・・しかし陛下、」と彼は弁明しようとした。だが、王はそれを赦さなかった。
「弁解は必要ない。盗人を殺す権利が騎士に与えられていることぐらい、わたしも知っている。だが貴公、ちと剣を抜くのが早すぎるぞ」
「・・・・・・」
漆黒の騎士は、悔しそうに俯いた。ジグリットはそんな彼を少し気の毒に思い、転がった兜を走って取ってくると、ファン・ダルタの足元に置いた。その際、騎士とは眸を合わさないように務めた。彼が怒っているだろうことは容易に知れた。ジグリットは彼を利用したのだ。
事が収まると、タザリア王は隣りに立つ側近のギィエラを見上げた。
「どう思う、あの少年」
「・・・・・・唖とはいえ、多少、頭は使えるようですね」
「わたしはしばらく様子を見るのも良いと思う」
「本気ですか?」
「もちろんだ。わたしは影武者を立てていないが、ゲルシュタイン帝国やアルケナシュ公国では、常に治世者の身代わりを用意していると聞いている。今ジューヌに似ているなら、これからもっと似せていけばいい。そのようにこの子を作り上げていけばいいのだ」
ジグリットは王の言葉に、エスタークへ戻る望みが断たれたと知った。しかし、元からそういう約束ではあったし、自分がいなくても仲間達はなんとかやっていけるだろう。そう思い込むことで、悲しい気持ちや、不安、それに寂しさを、なんとか胸の内に追いやろうとした。
王は決断すると、後はもう早かった。
「よし、グーヴァー。ジグリットのことは任せておけ。ジューヌの影武者として彼を育てると約束しよう」
「陛下ならそう仰っていただけると信じておりました」
グーヴァーは一礼し、横目でジグリットににやりと笑いかけた。最初からこうなると思っていたと言いたげな顔だった。
「それでは陛下、本日の凱旋式の酒宴まで暫し雑用がありますので、これにて失礼させていただきたく存じます」
「ああ、」と王がグーヴァーに頷くと、便乗してファン・ダルタも兜を手に立ち上がった。彼はまだ青褪めていた。
「陛下、わたくしも退出させていただきます」
王は漆黒の騎士に返答するまでもなく、彼自身も玉座から身を浮かせ立ち上がろうとしていた。そして、彼は傷心の騎士に最後の言葉をかけた。
「ファン・ダルタ、先ほどの事は気にするな。わたしがおまえでも、同じようにこの少年に無礼だと叫んだろうからな」
「・・・・・・はい」
王の慰めは騎士にとって、あまり効果がなかった。彼は戦場で味わわなかった屈辱を、今この場で味わったのだ。ただの子供にいいように操られたことは、敵の血の味よりも彼を打ちのめした。
漆黒の騎士は黒貂の外衣を腕で華麗に翻すと、ジグリットを一瞥もせずに退席した。続いてグーヴァーも、ジグリットに小声で「大丈夫だ。またすぐに会える」とだけ囁くと、後を追うようにその場を去った。ジグリットは一人、王とその側近の前に残されることとなった。
しかし、その様子をもう一人、離れた場所から見ている者がいた。彼女はアイギオン城とアンバー湖を分かつ城壁の上に座っていた。そこは南の城壁の最頂部にある巡視路で、唯一謁見室を覗くことのできる場所だった。リネア・タザリア王女は、その胸壁の狭間に座り、華やかな美貌を薄気味悪い笑みで歪ませた。
「ふふっ、面白そうな子」
錆色の長い髪を一括りにし、白い額を顕わにしたその王女は、王家の黒い炎の紋章が入った板金の耳飾りを爪で弾いて鳴らした。カーーンッ、と高く響いた音色が、彼女の胸で溢れそうになっている期待をさらに昂ぶらせる。
リネアはこれが楽しい日々の始まりだと、天が告げているのを感じ、深い微笑を浮かべていた。




