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その後、ジグリットはエスナ王妃の居室から出ると、その足で地下の薄暗く湿った場所へ向かった。マウー城の地下にいる道化師と久方ぶりに会いたいと思ったのだ。王が病にかかったと知った時から、道化に会っていなかったが、その老婆は微塵も変わっていなかった。
「クレイトスが死んだそうだね」
ぼろ布のような長衣を纏った老婆は、その日は柱から少し出て来て、ジグリットの正面に立っていた。
「ああ、そうだよ。あんたは知ってたんじゃないのか?」
道化は皺だらけの気味悪い顔でにたりと笑った。
「知ってたってどうしようもないさ。クレイトスの病は防ぎようもなかった」
ジグリットはそれが嘘でも真実でも、もうどちらでもよかった。王は死んだのだ。今さらだと彼は思った。
「それで、クレイトスはおまえになんて言ったんだい? ジグリット」
「なんてって?」
「クレイトスはおまえが本当は誰なのか、知っていただろう、ジグリット」
ジグリットは眸を眇めて、老婆を見返した。
「そうだな。知っていたよ。だが陛下は誰にもその事を話さなかったみたいだ。今もこうやって、ぼくが王子でいられるのだからな」
老婆は可笑しそうにヒャッヒャッと笑った。
「おまえが王子でいられるのは、おまえがおまえの敵を、そうさ、あの強突張りのサンデルマンを始末したからさ。まあ、これで問題がすべて解決したわけじゃあないけどね。とりあえずは上手いことやったんだよ、こりゃすごい」
ジグリットはこの道化が眸にしたように自分に関する事柄を口にすると、良い気はしなかった。だが黙ったまま、老婆の続きを待った。
「おまえが王になることは、最初から知っていたさ。知っていたがね、ジグリット。おまえが愚かなことを考えていることだって、あたしゃ、お見通しさ」
ジグリットはドキッとして眸を伏せた。
「先のことがわかっても、何を考えているのかまでは、わかるもんか」
「わかるよ、ジグリット。おまえは白帝月と紫暁月の間の数えない日にフランチェサイズに行くつもりさ。フランチェサイズで誕生祭があるからね。そしておまえは少女神にこう言うんだ。『わたしの妻になって欲しい』と」
「そんなこと言うもんか!」ジグリットは頬を赤らめて叫んだ。「少女神はバスカニオンの妻だ。そんなこと・・・・・・言えるわけがない」
だが、ジグリットは確かに誕生祭に行くつもりだった。以前、王が誕生祭には一度は行っておくべきだと言っていたからだ。誕生祭を観た者は、どんな頑固な非国教徒でも、少女神の神の力の前にひれ伏し、主の真の存在を感じ取ることができるという噂だった。
ジグリットはいまだ、バスカニオン教に関しては、不信感を抱いていた。そんな迷信じみた話は信じられるわけがなかった。自分の眸で見たことしか、信じないと彼は決めていた。しかし、それとは別にアンブロシアーナのことを思わない日はなかった。
ジグリットはアンブロシアーナの曙光のような笑顔の輝きを忘れることができなかった。彼は彼女のことを思うと、胸がざわめき苦しくなった。今すぐにでも飛んでいって、彼女の手を取り、永遠に変わらぬ心を誓いたかった。
「道化、ぼくはどうすればいい」
ジグリットは沈痛な面持ちで、濡れた柱のひとつに凭れた。
「おまえは王子。王子がおまえ」
道化は戯けながら足を交互に踏み鳴らした。しかしそれは薄汚れた裸足で、足音はぺたぺたと濡れた音を立てるだけだった。
「それに、会ってもジューヌとして会うことになるんだ。ジグリットは死んだんだ。彼女になんて言えばいい」
幾ら考えても、それはうまくいきそうになかった。今度はジューヌとしてアンブロシアーナに近づき、そしてジグリットのことはなかったことにする。そんなことはできない。ジグリットは彼女に嘘をつき通す自信がなかった。だが、本当のことを話す勇気もなかった。アンブロシアーナは王子を見殺しにして、その地位に取って代わった自分をどう思うだろう。彼女に嫌われるぐらいなら、いっそジューヌとしてやり直した方がいいようにも思えた。
「彼女に本当のことを話してしまえたら」嘆くように呟く。
「ジューヌならどうする? ジグリットならどうする? 王子ならどうする?」道化は彼の独白を聞いているのかいないのか、まだ戯けていた。
「ぼくは・・・・・・」答えなど見つかりそうにもなかった。それでも彼女に会いたかった。
道化は足踏みを止めて、ジグリットの凭れかかっている柱の後ろに回った。
「ジグは彼女を手に入れたい。王子は彼女を娶れない。バスカニオンの妻は永遠に純潔」歌うように老婆が嗄れ声で言った。
悲痛な顔をしたジグリットに、老婆は耳打ちするようにそっと口添えした。
「方法がないわけじゃないよ。ジグリット」
その声に不気味な画策を感じて、ジグリットは眉をひそめた。
「何を考えてる、道化?」
「おまえが考えてることさ、ヒッヒッヒッ――」
「ぼくは、諦めるしかないんだ」ジグリットは首を振った。
「違うね。王子は嘘つき、嘘つきはジグリット」
「嘘じゃない!」
「少女神をも手に入れることができる、それはバスカニオンと同等。おまえは神となるしか道はない」
「つまり無理ってことだろう」
道化は右隣りの柱の蔭へ移った。その皮と骨だけの腕が、破れて垂れた長衣の下から覗いている。
「おまえはジグ。ジグリット。王子。タザリアの王子? いいや違う。バルディフの王子」
ジグリットはその名前にぎょっとした。バルディフを名乗ることができるのは、たった一人だけだ。この世でたった一人だけがその名を持つことが赦されている。その名は、器世界の統治者を意味する。かつてオグドアスという古代文明が栄えていた頃、バルダ大陸を支配していた者が名乗っていた王たる者の名だ。
驚愕しているジグリットに、道化は構わず続けた。
「バルディフの王子よ、王となり、バルダを手中に治めるがいい、この大陸全土が神のものならば、バスカニオンのものをすべて手に入れるがいい」老婆は夢に浮かされたように両腕を突き上げ、闇をも呑み込みそうな大口で叫んだ。「土地も人も、その妻さえも」
円形の空間にその不敵な言葉が反響し、とっさにジグリットは柱から躰を起こした。
「・・・・・・おまえは恐ろしいヤツだ」ジグリットは言った。
「恐ろしいのは血が滴る玉座、白金と黄金は軋り合い、やがてそこに腰かける王が一人」
「もういい」首を振ったジグリットは、たとえ夢の中でもそんな大それたことは考えないと知っていた。「アンブロシアーナは陽炎さ。所詮、手に入らないもの。手が届かないものだ」
「それでいいのかい?」
「仕方ないだろう。ぼくにどうしろっていうんだ。どうにもできやしない」
ジグリットが暗い廊下へ歩き去ろうとしたとき、道化が背後で首を傾げた。
「少女神などただの女さ。呪われた女さ」
しかし老婆の声は、うな垂れて帰って行くジグリットには届かなかった。
老婆はただもう一言だけ、彼に告げなければならないことを思い出した。
「双子の王子よ、おまえの姉に気をおつけ。女は嘘を重ねながら、他人の嘘を利用する」
「肝に命じておくさ」ジグリットは振り返らず手を上げた。
道化師は笑えなかった。彼がそう答えることを知っていたからではなく、どう答えても運命を変えることができないとわかっていたからだ。この助言さえ、意味がないと老婆は知っていた。だが言わずにはいられなかった。ジグリットがこれから、どれだけの犠牲を払うのかを知っているからには――。
また躰が痛み出して、老婆は両腕を交差して自分の骨ばった肩を擦った。そのとき、長衣の裾から指輪が転げ落ちた。それは真鍮の台に見事な紅玉の嵌まったもので、裏には椿の五弁花の印章が入っていた。拾い上げた老婆の眸に、かつての麗しい輝きが宿り、すぐに暗い色に戻った。
「可哀相に」と道化はジグリットの想い人のために一言呟き、闇の中へと姿を消した。