第一章 王道への炎駆
「タザリア王国物語3 炎虐の王女」
取り返しのつかない猛火になるまで、時間はかからない。
いつだって炎は燻っている。
私の目の前で、そして私の内側で。
それが爆ぜたとき、人はこう言うのだ。
時が満ちたと――――。
ジグリット・バルディフ 『回顧録』より
第一章 王道への炎駆
第二章 双炎の策動
第三章 火炎に紛れし人々
第四章 立ち昇る戦塵の陽炎
第五章 炎砂を従える兄妹
第六章 蛇遣人の炎婚
第七章 魔炎簒奪
第八章 炎虐の誓い
第一章 王道への炎駆
1
聖階暦2021年。その年のタザリアは不穏な厚い雲を払えず、チョザの街でさえいつもの年よりも暗澹とした雰囲気に包まれていた。黄昏月にタザリア国王、クレイトス・タザリアが逝去し、年の終わりの白帝月に入ってからも王無きままのタザリアに気概は乏しく、酷寒と大雪に慣れているはずの人々でさえ、陽の射さない曇天の下、陰鬱な日々を送っていた。
唯一明るい話題といえば、ジューヌ王子の戴冠だったが、それも街の人々には大した期待を与えなかった。脆弱で名高いジューヌ王子がタザリア王となることに、難色を示す人間の方が多かったのだ。
そんな中、戴冠式が近づいたある夜、ジグリットはマウー城を訪れていた。それはエスナ王妃が彼を招いたからだった。王子に話があるとはどういう事なのか、ジグリットは戦々恐々だったが、無視するわけにもいかず、王妃のいる居室へと向かった。
マウー城は年中変わらず窓という窓が開け放たれ、白帝月も初旬のその夜は、壁の切石まで冷え切っていた。ジグリットは地下で道化と会う以外に、マウー城を訪れることは滅多になく、彼は王妃の居室へ行く間、緊張を隠せなかった。
侍従や侍女の姿もなく、シンと静まり返った通廊をジグリットは足早に歩いた。王妃はジグリットをジューヌと思ってくれるだろうか。自分の産んだ息子が見分けられないなんてことが、あるのだろうか。ジグリットの不安に反して、彼が居室の扉を叩くと、王妃は孤児を見る眸ではなく、王子を優しく迎え入れた。部屋には彼女しかいなかった。
「よく来てくれたわね、ジューヌ」
エスナは暖炉の火がさらに強まるよう薪を投じた。そして自ら、熱く沸かした牛乳に蒸留酒を垂らして彼に渡した。
「ありがとうございます」ジグリットは母親にというよりは、王妃に対する礼儀で答えた。
ジグリットから見ても、エスナはいまだ若く、母というより一人の美しい女性だった。リネアに似た面差しで、内面も激昂しやすい性質の上、気分屋だったが、それが彼女の美しさを引き立てていることは間違いなかった。まるで誇り高い雪豹のごとく、エスナは素肌に纏った白い毛皮の長衣から、伸びた素足を惜しげもなく晒して、ジグリットの向かいではなく、金襴張りの長椅子の隣りに腰掛けた。ジグリットは王妃と見つめ合う必要がないことに安心した。
「ジューヌ、お父様がこんなことになって、さぞ辛いでしょうね」エスナの手がジグリットの頭に触れた。彼女に髪を撫でられると、ジグリットはくすぐったくなって身を縮めた。「でもね、あなたが次代の王になることがあの人の望みだったのよ。リネアではタザリアをお父様のように守ることはできないわ」
ジグリットはエスナの手をそのままに、黙って聞いていた。
「残念だけど、わたくしはずっとタザリアが好きになれなかった。あなたの生まれ故郷だとわかっているのよ。でも、わたくしは心底、ベトゥラの人間なの。あの北の大地だけが、わたくしを慰めることができる。クレイがいなくなってしまった今、わたくしの悲しみを癒せるのはあの地だけ」
エスナが何を言いたいのか、ジグリットにはさっぱりわからなかった。杯に口をつけ、喉元を温かい液体が通り過ぎるのをジグリットは心地良く感じていた。暖炉に赤々と火が燃えていても、この部屋は広く寒いことに変わりなかったのだ。
エスナは黙っているジューヌに続けた。
「ジューヌ、わたくしはベトゥラに帰ります。クレイがいない今、この国にわたくしは必要ないわ。あの人だけが、わたくしをこの地に縛り付けることができたのよ」
エスナの声に震えが走り、ジグリットは彼女が泣いていることに気づいた。
「あなたやリネアを置いて行くわたくしを赦してちょうだい。ひどい母だと蔑まないで」
ジグリットは杯を置くと、今度はその可哀相な女性の髪を撫で返した。エスナの髪は太陽に照らされた雪のように、薄い金色に輝いていた。一瞬、ジグリットはフランチェサイズのアンブロシアーナの黄金色の髪を思った。そうすると、余計に王妃が気の毒になってジグリットは微笑んだ。
「大丈夫ですよ、母上」ジグリットは優しく言った。「たとえ母上がどこに行こうとも、ぼくもリネアも変わらずあなたの幸せをお祈りしています」
エスナはその鋭い眼差しに似合わぬ切なげな表情で、ぽろぽろと涙した。彼女にとって、それがどんなに勇気がいることか、ジグリットにもわかっていた。タザリアの王妃として嫁いだ女性が故郷に帰っても、一族には疎まれるだけだろう。それでも雪深いシェイドに帰りたいという彼女の心を、ジグリットは邪険にできるはずもなかった。
実質、それはエスナがタザリアと縁を切ることを示唆していたが、ジグリットは僅かな時間にそのことが齎す国にとっての損失を量って、ベトゥラ連邦共和国との関係にそれほど深い軋轢が生じるとは考えなかった。ベトゥラとの間に互いの脅威となる国、ゲルシュタイン帝国がある限り、エスナ王妃が帰還したとしても、あの僭主国は黙ってそれを受け容れるだろう。表向きはこれが深刻な問題になるとは思えない。
そして何より、自分の正体がバレるかもしれないという不安を抱えていたジグリットにとって、王妃の決断はむしろベトゥラ連邦共和国との関係が悪化したとしても、それを差し引いてなお有り難かった。




