シンクロジェットスイミング
シンクロナイズのことはご存じでも、シンクロジェットなる水泳競技を知る方はごくまれなのではなかろうか。
正式名はシンクロジェットスイミング。男子がやる競技で、およそ十年前にアメリカで発祥した。
かなり新しい種のスポーツである。
男子のシンクロナイズなんて、観る側の方からすれば、美なるものは微塵も感じられない。まったく地味で見栄えがしない。はたまた気持ち悪い。
こうした声を背景に、シンクロジェットは必然的に誕生したのである。
まずは、この競技について説明しよう。ほとんどの方がルールをご存じないであろうから……。
女子が行うシンクロナイズが美しさによって採点されるのに対し、こちらは進んだ距離を競う。その試合方法は一チーム八名からなる団体競技で、八人の選手が一体となってプールの中を進む。
競技時間はわずか十秒。
この十秒間に進んだ距離を競うという、まことにもってシンプルなものである。
ただこの競技、前に進む方法が奇異であった。
水中で体を動かしては反則失格となる。それもピクリともである。
では、どうやって前に進むのか。
これには多くの方が疑問をお持ちだろう。
なんのことはない。推進力は選手たちのオナラ、この噴射力によって前進する。
たかがオナラと決してあなどるなかれ。八人が心をひとつにし、いっせいにオナラを噴射すれば、想像を超える推進力が生まれるのである。
これでおわかりであろう。
シンクロジェットのジェットとはオナラの噴射力を意味する。すなわち、ジェット機が空を飛ぶ原理と同じ、そういえばわかりやすいかと思う。
さらにもうひとつ。
同時に八人が、そうそうタイミングよくオナラを出せるものか。そう疑われる方がいるであろう。
しかし世の中には、それを可能にする先天的体質の持ち主がゴマンといるのである。実際、中国には推定十万人以上いると言われ、そのうち百人ほどが選手として活躍している。
このシンクロジェットスイミング。
今や急速に、世界各国に普及しつつあった。
アジアにおいては、五年ほど前からタイや韓国でも始められている。
対し、日本は出遅れていた。
昨年、一部の企業や大学の同好会などで、やっと始められたばかり。どうも日本人特有の文化や気質なるものが、この競技への参加を足踏みさせる要因となっていたようだ。
それが今年になって、JOC――日本オリンピック委員会が強化種目に指定し、選手の育成に本腰を入れ始めた。
というのも……。
次回オリンピックの正式種目として、新たに認定されるのではないか。国際オリンピック委員会の委員の間で、そんなウワサがまことしやかに流れたからである。
まあ、数年後に迫った東京オリンピックで、ぜひメダルをということらしい。
さて、本日。
シンクロジェットスイミングの国際試合が日本で初めて開催されようとしていた。中国と韓国の代表チームを招いての親善試合である。
日本はこの競技では後進国。
にわか編成の日本チームが、他国の代表チームにどれほどまで通用するのか。そうした意図や狙いもあって、日本水泳連盟が急きょ開催。さしずめそんなところらしい。
本日はテレビでも、実況ナマ中継で放送されることになっている。先に行われる女子のシンクロナイズのついでということであったが……。
シンクロナイズが終了した。
すると、それまで試合会場を埋めていた観客たちがいっせいに席を立ち始めた。
いたしかたない。シンクロジェットという競技名さえ知らない者がほとんどなのだから。
シンクロジェットが始まった。
一番手は強豪の中国チーム。
縦一列となった八人の選手が行進しながらプールサイドに登場した。
選手たちは全員、シンクロジェット協会公認のパンツをはいているのだが、そのパンツにはガスを通す直径十センチの穴が開いており、男たちのたくましい尻が見え隠れした。
プールに飛びこんだ八人は水平に浮くと、互いの手足を取り合いダイヤ型の隊形を組んだ。こうして一体化することにより、水の抵抗を最小限にするとともに推進力を最大限にする。
白と赤の旗を手にした五名の競技審判員がプールサイドに立った。反則のチェックをするためだ。
天井を向いた八名の選手は身動きひとつせず、ラッコのごとく水面に浮いている。
いよいよ笛が鳴るのを待つばかりとなった。
数秒間、プールに緊迫した空気が漂ったあと、開始の合図である鋭い笛の音が鳴る。
選手たちが前に進み始めた。ゆっくりゆっくり、のろのろと……。同時に、いくつもの泡がブクブクと水面に浮かんできた。
この泡こそオナラである。
そこに競泳のような迫力はない。
観る者にとってはただただこっけいで、たいくつ以外のなにものでもなかった。
再び笛が鳴る。
十秒が過ぎ、中国チームの競技は終了した。
審判員全員が白旗を上げている。
603ミリ。
進んだ距離が電光掲示板に表示された。
世界記録はアメリカチームが今年になって出した668ミリ。これにはおよばないが、600ミリ超えはそうそう出るものではない。
記録としては大いに満足できるものであった。
中国選手たちは喜びを分かち合うように、ハイタッチをしながら退場していった。
続いて韓国チームの入場。
選手たちはプールに飛び込むと、キャプテンを先頭に扇形となった。この扇形の隊形は、韓国チームのもっとも得意とするところである。
最近になって、韓国チームはメキメキと記録を伸ばしており、今回はオリンピック入賞レベルの600ミリ超えを狙っていた。
選手たちの気持ちもおのずとたかぶる。
開始の笛が鳴った。
八人の選手が一糸乱れることなく前進。同時に選手たちの体の両わきから、大量の泡がボコボコとわいて出た。
十秒が過ぎ、終了の笛が鳴った。
反則はなかったようで、審判員全員が白旗を上げていた。
選手たちの顔に安堵の色が浮かんでいる。一人でも体を動かし、審判員に反則と判定されると、チームとして失格になるのだ。
記録が電光掲示板に表示された。
388ミリ。
安堵の表情が落胆の色に変わった。
オナラを出すタイミングが、わずかだがずれてしまったようだ。不本意な結果に、選手たちは首をうなだれて退場していった。
いよいよ開催国の日本チームが登場。
一列になって歩く八人の選手が、観客席に向かって手を振りながら入場する。この試合のために厳しい三カ月間の強化合宿をこなしてきた、よりすぐりの選抜メンバーたちであった。
選手たちがプールに飛びこみ、八人が一直線になって浮かんだ。
この隊形はミサイル型と呼ばれ、水の抵抗は抑えられるが、推進力を生み出すことがむずかしいとされていた。
開始の笛が鳴り、一直線の隊列がゆっくりスタートした。
三秒、四秒、五秒……。
ここで審判員たちの持つ赤旗が次々と上がった。
中止の長い笛が鳴る。
反則失格。
水面にプカリと浮いたモノ。ソレがすべてを物語っていた。ソレをかわそうとして、前から三番目の選手が顔を大きく動かしてしまったようだ。
けれども……。
こうしたことは、シンクロジェットにはおうおうにして起こりうる。腸にためこんだ大量のガス、それを一気に噴射するのだから、同時にソレも一緒に出てしまうこともあるのだ。
水から上がった選手たちは、プールサイドで茫然と立ちつくしていた。全員が無念な表情を浮かべ、パンツの穴まで淋しく見える。
そんな選手たちへ、マイクを手にしたレポーターのインタビューが始まった。
「まず、キャプテンのサトウ選手にうかがいます。初めての国際試合でしたが、いかがでしたか?」
「がんばったんですが、すみません、残念な結果になってしまって」
サトウ選手がくちびるをかみしめる。
「スズベ選手、今回は失格でしたが、いい勉強になったのでは?」
レポーターはとなりの選手にマイクを向けた。
「ボクが悪いんです。このボクが顔を動かしたばかりに……」
スズベ選手はしゃっくりのように嗚咽をあげ、目を赤く泣きはらしていた。
そのスズベ選手の手を取り、となりのコミヤ選手がかばうように言う。
「スズベのせいじゃないんです。みんな、オレが悪いんです。オレが、オレがもらしたばかりに……」
ここまでしゃべるとコミヤ選手は、その場でワッーと泣きくずれてしまった。
サトウ選手が、コミヤ選手を抱きかかえるようにしてなぐさめる。
「だれのせいでもないよ。これからもっともっと練習に励み、オリンピックでは金メダルを首にかけようじゃないか」
「キャプテン!」
コミヤ選手の瞳が輝く。
クサイと言われればそれまでだが、まさにスポ根ドラマの感動場面そのものだった。
「これぞ、戦う男のドラマ。視聴者の皆様も、大いに感動されたのではないでしょうか」
レポーターの目には涙が浮かんでいた。
最後に――。
シンクロジェットスイミングの、その後について報告せねばなるまい。
男子シンクロナイズに対する意見――気持ち悪いのあとに、さらにクサイという批判が加わった。
むろんのこと。
東京オリンピックの正式種目に公認されなかったことは語るまでもない。