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8 月影に舞う蝶1

 寝台の上で膝を抱え、月華はぼんやりと夜空に浮かぶ月を眺めていた。


 途方に暮れる黒い瞳を揺らし、空を振り仰げばそこに浮かぶは凍える月。その月までもがまるで自分を嗤笑っているかのように見え、月華は力なく肩を落した。



 悠里……。



 心のすきまに、冷たい風がすり抜けていく。

 胸の奥を突き刺す痛みに戸惑いを覚え、月華は抱えた膝の頭にひたいをのせたその時、悠里に会いたいと願う思いが通じたのか。


 扉が開く気配に月華は膝にうずめていた顔をあげた。

 その目が驚きに見開かれる。


「どうして……もうここへは来ないと」


 扉の前で、息をはずませ悠里が立っていた。


「陽の姫の元から逃げて参りました。それよりも、お見せしたいものが」


 胸の前でそっと何かを包み込むように合わせていた悠里の両手が開かれ、そこから一匹の漆黒の蝶がふわりと舞い上がった。

 夜の闇に同化して、蝶はある一点、鉄格子のはめられた窓を目指しゆらりとゆらりと飛んでいく。

 柔らかな羽ばたきを繰り返し、虚空をさまよう蝶が鉄格子の窓から差し込む月の光を浴びた瞬間──。


 月華は目を瞠らせた。


「まさか、これは……この蝶は……」


 はい、と悠里はうなずく。


「月華の元へと駆けつける途中の庭園で見つけました」


 月影に舞うその蝶は、羽から蒼白い光を放ち軌跡を描いて闇に舞う。

 おそるおそる虚空へと伸ばした月華の指先に月蒼蝶がふわりととまった。


「月蒼蝶を見た者はひとつだけ願いごとが叶うと。月華は何を願いますか?」


「いいえ! 私などにはもったいない。それに、この蝶を見つけたのは悠里です。だからどうか、悠里の願いを叶えてください」


 しかし、悠里は否と首を振る。


「月華の願いが叶うこと。それがわたしの願いでございます」


 言って、目元を和らげ悠里は微笑む。

 けれど、悠里の瞳がどこか悲しげに揺れたように見えたのは何故か。

 落ちた沈黙に、まるで、時が止まってしまったかのような錯覚さえ覚えた。しかし、穏やかで静寂な時は部屋の外から響く叫び声によって再び刻み始めた。


「悠里、悠里!」


「陽の姫様、お待ちくださいませ。ここは陽の姫様が来るような場所では」


「邪魔よ、どきなさい!」


 扉が勢いよく開かれ、陽の姫が部屋へと踏み込んできた。


 突然現れた来訪者に驚いたのか、月蒼蝶は月華の指先から離れ闇の中へとまぎれ消えて行く。

 凄まじい形相を浮かべ、陽の姫がまっすぐに月華の元へ歩み寄ると、大きく右手を振り上げ月華の頬を叩いた。


「男を拐かす穢らわしい女!」


 叩かれた頬に手をあて、月華は静かに陽の姫を見つめ返す。


「何よその目。ほんとうのことだわ!」


 陽の姫は月華の側らに立つ悠里に視線を向け、胸に飛び込んで抱きついた。


「よく聞いて。悠里は騙されているの。この女は娼婦なのよ。だから、こんな女など放って私の元へ来て」


 胸にすがりついてくる陽の姫の肩を、悠里はきつくつかんで引きはがした。


「悠里……」


 拒絶された陽の姫は、茫然として悠里を見つめ返す。しかし、すぐにまなじりをつりあげ悠里を上目遣いで睨む。


「どうして? どうしておまえは私のものにならないの! こんな女のどこがいいの? 私がこの女よりも劣るというわけ!」


 怒りの感情とともに、陽の姫の手が悠里の頬めがけて振り上げられた。けれど、その手を背後から月華につかみ取られる。


「おやめください。陽火様」


 月華の瞳の奥深くに沈殿する怒りの炎に、陽の姫は威圧され顔を引きつらせた。


「何よその目……おまえも、その男も許さないから! この私に逆らったことを後悔させてあげる。覚えておくことね!」


 と、吐き捨て部屋から去ってしまった。


「月華?」


 見つめてくる悠里から逃れるよう、月華は静かに視線を外す。


「陽の姫様が言ったことは、ほんとうです」


 悠里に背を向け、月華はさらに言葉を継ぐ。


「父である国王と私の母がどのような出会いをし、結ばれたのかは私は知りません。が、私の母は朱珂の色街の娼婦でした」


 悠里に背を向けたまま、月華は淡々と語り始めた。


 王と正妃の間に世継ぎの姫、陽火が生まれた。しかし、時を同じくして王の寵愛を一身に受けていた側室にも娘、月華が誕生した。王は月華を大変可愛がり、正妃はそれを激しく嫉妬し、そして恐れた。

 側室との間に生まれた子が己の子を退け、世継ぎになることを。

 そこで、正妃は側室、つまり月華の母を秘密裏に殺害。

 残された幼い月華を王の反対を押し切り王宮深くに閉じ込めてしまった。しかし、それだけでは正妃の気はおさまらず、彼女は月華にさらに過酷な運命を突きつけた。

 王の心を盗んだ月華の母は元娼婦。

 ならばその娘にも母と同じことをさせようと、年頃になった月華のもとに次々と男をあてがった。


 陽の姫が笑えば太陽が注ぎ、陰の姫が泣けば雨が降る。


 月華に向ける正妃の悪意にもはや王もどうすることもできず、王が世間体を取りつくろうために作り上げた嘘であったと。


「悠里、お願いがございます」


 月華の黒い瞳がまっすぐに悠里を見上げる。

 その瞳の奥には切実な思いが揺れていた。


「私を抱いてください」


「何を……」


 悠里は言葉をつかえさせた。


「女の身である私から、このようなことを言い出して呆れてしまわれましたか?」


「決して、そのような……」


「それとも、穢れた私などお嫌でしょうか」


 ふいに、悠里の手に引き寄せられ、そのままきつく抱きしめられる。


「いいえ! 本当は一目見た時からあなたの美しさに心を奪われ、あなたに触れたいと思っておりました。何もしないという素振りを見せながら、その実、自分の心を抑えるのにどれだけ必死だったか。わたしは……そんな男です」


「ならば、どうか私を」


 消え入りそうな声を落とし、悠里の胸に月華はこつりとひたいを押しつけた。悠里の手が頬に触れあごにかかる。

 顔をあげた月華と悠里の視線が絡む。

 近づいてくる悠里の唇が月華の唇に重ねられた。


 こんなにも、誰かの腕に抱かれたいと思ったのは初めてで──。


 悠里、愛しています。


 月影さやかに照らす寝台に二つの影が揺れる。

 溶け合う二つの吐息。

 きつく絡め合った指で互いの存在を確かめあう。

 眉宇をひそめ、月華は身体を仰け反らした。

 鉄格子のはめられた窓の向こう、月が緩やかに(そら)の高みへと昇りつめていく。

 その月の光を浴びて優雅に踊る月蒼蝶。

 蝶は二人の頭上を緩やかに舞うと、月の光に導かれ鉄格子の隙間から窓の外へと飛び去っていく。



 待って、いかないで。

 連れていかないで。


 連れて行く?

 誰を?



 しめつけられるような胸の痛みに寂しさを覚えた。

 何故、そんなことを思ったのか月華自身もわからなかった。

 ふと、庭園で、陽の姫の従者が言った言葉を思い出す。



 月蒼蝶はこの世の蝶ではなく、死神の遣いの魔蝶と呼ばれているとも。


「月華、願いごとは決まりましたか?」


「いいえ、まだ何も。今はただこうして悠里のお側にいられるだけで私は幸せです」


 優しく髪をなでられ、月華は幸せそうに微笑む。


「早く悠里と旅がしたいです」


 囁くように言って、月華は愛しい人の胸に身をすり寄せると、深い眠りに落ちていった。

 静かな寝息をたてる月華のひたいに悠里は口づけを落とす。


「月華、月蒼蝶を見てしまったのはわたしです。ですが、願い事はあなたに託します。だから、どうかあなたの幸せを願ってください」


 そう呟いた悠里の声は、眠ってしまった月華には届かなかった。



 そして翌朝、悠里の姿は消えていた。

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