6 予兆1
薄く雲を張った空に、にじむような光の暈を描いて月がかかる。
天の海に何処へともなく流れさまよう雲の波路。その途切れた雲の狭間から、月の艶めきが夜の帳におぼろげな明るさを漂わせた。
寝台に座り、身を寄せ合いながら二人は会話を交わしていた。
灯り一つない部屋。
唯一の光りは鉄格子の窓の向こう、凝った闇に淡い輝きを放つ月明かりのみ。それでも、互いの顔を確かめるには不自由はない。
触れあう肩と肩に、衣服越し悠里の体温を感じるたび、意識して月華は顔を赤らめた。
だからむしろ、火照った頬を隠すには、この頼りない明るさでじゅうぶんだと思った。
たった二人だけの時間は、緩やかに流れていく。
「初めて海を見た時は感動したものです」
会話といっても昨夜と同様、悠里の語ってくれる旅の話に相づちをうち、時折、質問をするだけであったが、月華にとってはこのうえもない至福の時間であった。
「海?」
「はい。妨げるものなど何もない水平線から、徐々に太陽がのぼっていくさまは、まさに神々しいの一言で、あまりの美しさに思わず涙をこぼしてしまいました」
「きっと、とても美しいのでしょうね」
当然のことながら、海を見たことがない月華にはその壮大さや美しさを思い描くことが難しかった。それでも、悠里の説明に自分なりに想像を膨らませるだけで心が躍った。
「それに、港町は活気があって、何より新鮮な海の幸が素晴らしい」
「まあ」
月華は口許に手をあて、くすくすと笑う。しかし、口許に微笑みを浮かべた月華の顔にふと、暗い陰が過ぎる。
この幸福な時がいつまでも続けばいいのに。
いっそうのこと、時がとまってしまえば。
これまで、毎夜見知らぬ男たちに抱かれながら、孤独の闇に心をさまよわせ、一刻も早く朝がくるのを切実に願った月華であったが、悠里と過ごす夜は愛おしく、永遠に続いて欲しいと思った。
「月華にも海をお見せしたい」
月華は目を閉じ、まぶたの裏に想像の海の景色を思い浮かべる。
どこまでも続く広く青い海。
そこから昇っていく朝日。
「見てみたいです。私も」
悠里と一緒に見ることができたら、それはどんなに素晴らしいだろうか。
けれど、いつか悠里はここを去っていってしまう。
いつまでも、自分の側にいられるわけがない。
悠里はたまたまこの朱珂の国を訪れ、無理矢理陰の姫の相手にと連れられてきてしまっただけ。
私が涙を流せば悠里の役目は終わってしまう。
流さなくても、使命を果たすことができなかったと、やがてここから解放される。
それがいつかはわからない。
もしかしたら、幸せなこの時間は今宵限りかもしれない。
そう思った瞬間、月華は身を震わせた。
どちらにしても、そう遠くはないうちに悠里はこの王宮からいなくなってしまう。
そうなれば、どんなに願っても二度と悠里と会うことは叶わない。
悠里と離れたくない。
この時、月華の脳裏に幻の蝶、月蒼蝶の言い伝えが過ぎっていった。
『月蒼蝶を見た者は何でもひとつだけ願いごとが叶う』
という、言い伝えを。
もし、その蝶を見ることができたなら、言い伝えが真実であるなら……。
悠里の側にいたいと心から願えば、望みは叶うのだろうか。
「月華」
ふと、真面目な顔で悠里は月華と向き合った。
「わたしと一緒に旅をしませんか?」
「旅? 悠里と?」
思いもよらない突然の悠里の言葉に、月華は最初、何を言われたのか理解することができなかった。
「この王宮を抜け出し、二人で旅をしながら各地を回り歩くのです。世界はとても広く美しい。そのすべてをわたしは月華にお見せしたい」
抜け出す、とあえてその言葉を選らんだのは、自分を連れてこの王宮から、さらに、朱珂の国から逃げだそうという意味。
悠里の真剣な表情を見れば、安易な気持ちで言ったのではないということはあきらかである。
だが、ここから逃れるなどそう容易いことではないことくらい、月華とてわかっているつもりであった。
大勢の兵士たちが自分たちを捕らえようと追ってくるだろう。
捕まってしまえば悠里は処罰されるかもしれない。
それでも、不思議なことに悠里と一緒なら無理ではないような気がした。
「ほんとうですか? 私を連れていってくださるのですか?」
月華は悠里の袖をつかんだ。
が……つかんだその手が静かに離れていく。
「私は外の世界のことを何も知りません。生まれてからずっと、この王宮から出たことがないのです。私が側にいてはきっと、悠里に迷惑をかけてしまいます」
「迷惑などと思うはずがない」
伸ばされた悠里の手が頬に触れた。
その手で優しくなでられる。
「それとも、外の世界が怖いですか?」
いいえ、と月華は首を振る。
悠里と一緒ならば何も怖いことなどない。
ほんとうに怖いのは、あなたと離れてしまうことだから。
月華はまぶたを落とし、膝の上においた手を握りしめた。
迷う必要などない。
再び視線をあげた月華の瞳に揺らぎのない強い光が宿る。
「私を連れていってください。悠里と一緒に行きたいです!」
よかった、と声を落とす悠里の肩が安堵したようにさがる。ともに旅をしようと口にした悠里も、実は緊張していたのだ。
「世界を見て回って、どこか落ち着ける場所を見つけたら、そこで二人で静かに暮らしましょう」
目を見開いて月華は口許に手をあてた。
「それは……」
「あなたをお守りいたします。一生」
「一生……?」
「はい。一生、あなたを大切にすると、約束いたします」
「わ、私……一生懸命いろいろなことを覚えていきます。悠里に呆れられないよう、努力いたします! だから……」
必死で言いつのる月華の唇に悠里は笑って軽く指を添えた。
「あなたはあなたのままでいいのですよ」
唇に触れていた悠里の手が落ち、月華の手をやんわりと握りしめる。
「これからは、わたしを頼ってください。わたしに甘えてください。この先ずっと、わたしが月華の側にいます。寂しい思いは決してさせません」
はい、と何度も月華はうなずいた。
見つめ合う二人の間に沈黙が流れていく。
互いの息遣いさえ聞こえるほどの静寂。
悠里の顔が近づいてくる。
月華は静かに目を閉じた。
そして、ひたいに落ちた柔らかな口づけ。
ゆっくりと閉ざしていたまぶたを開けると、目の前では照れたように視線を斜めにそらす悠里の顔があった。
「すみません……」
「いいえ……あやまらないでください……」
手を繋いだまま二人は目を合わせ、肩を揺らして笑った。
絡み合う二人の手に、鉄格子の黒い影が落ちる。
愛し合う二人の仲を断ち切ろうとするような。
それは、不吉な予感を暗示させる予兆。
突如、その音が耳に入った。
扉の向こうが騒がしい。
数人。
否、数十人の荒々しい足音がこちらに向かって近づいてくる。
直後、扉が乱暴に開かれ、数十名の兵士が部屋に押し入ってきた。




