5 寄り添いあう心
すでに日も傾き始め、夕映えの光が鉄格子の窓から差し込んでくる。
沈みかけようとする夕陽は今まさに地平線に飲み込まれていこうとし、紫紺の空には星が一つ二つとまたたき始め、徐々に訪れようとする夜の気配をそこはかとなく忍ばせていた。
夕暮れ特有の緩慢とした空気漂う中、遠くで侍女たちの笑い声がどこからともなく聞こえてくる。
楽しそうな笑い声。
一日の仕事からようやく解き放たれ、自由を求め軽やかな足どりで去って行く彼女たちの後ろ姿を、月華はいつも窓からぼんやりと眺めていたものであった。
「申し訳ございません。怖い思いをさせてしまいました。大丈夫ですか?」
窓際に置かれた寝台に腰をかけ、いまだ震えのとまらない月華の前に膝をついた悠里は申し訳なさそうな声を落とす。
恐ろしかった。
もし、悠里の身に危険がおよんでいたらと思うと震えがとまらない。
あるいは、悠里が陽火の元に行ってしまったら、自分の元から去ってしまったら……と考えただけで、胸がずきりと痛んで苦しい。
私には、悠里を引き止めるすべはないのだから。
だけど、こうして悠里は私の側にいてくれる。
優しい眼差しで自分を見つめてくれる。
けれど、優しくされればされるほど、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「謝らなければいけないのは、私のほうです」
わずかにまぶた伏せた合間からのぞく月華の瞳に暗い翳が揺れた。
お庭の散策に誘ってくれた悠里の気持ちが嬉しくて甘えてしまった。
わずかばかりの自由を欲したのではなく、肩を並べて悠里と陽の当たる外を歩きたかった。
悠里と手をつないだときは胸が躍った。
こんな気持ちは初めてだと。
嬉しくて。
嬉しくて。
なのに、あんなことが起きるとは。
いいえ。
あの事態を予測できなかったいえる?
あの場に陽の姫が現れることなどわかっていたはずなのに。
私が悠里の誘いを断っていれば、悠里に迷惑をかけてしまうこともなかった。
私は陰の姫。
この暗い牢部屋で涙を流すだけの存在。
ただ、それだけ。
それ以外のことを誰も私に望まない。
なのにその涙さえ、もはや流れることもなくなってしまった。
私が涙を流さないために、この朱珂の国に雨が降らなくなってしまったと、みなが私を責め苛む。
この牢部屋に連れて来られてから、何ひとついい思い出などない。
自分の運命に選択の余地すらなかった。
その運命は、解けない鎖のごとく己の身に絡みついて離れず、抗うことも許されなかった。
嘆いたところで、どうにもならないのだと悟ってから、何も望むことはなくなってしまった。
欲しなければ誰かを羨むこともない。
希望を持たなければ、絶望を知ることもない。
心を殺してしまえば与えられるすべての苦痛を、痛みと感じることもない。
と、繰り返し自分に言い聞かせてきた。
あきらめてしまうことで、壊れてしまいそうになる心をかろうじて保つことができた。
悠里と出会うまでは。
悠里と出会ってから、自分の気持ちに変化が生じ始めていることに気づく。
悠里を失いたくないと、心の底から願ってしまった。
「月華様? お庭に行くべきではなかったと、ご自分を責めておいでですね。わたしの誘いを断ればよかったと」
心の中を読み取られてしまい、月華ははっとして身を固くする。
「私……」
「表情にでていますよ」
「後悔しております。私のせいで、悠里を巻き込んでしまいました」
見つめてくる悠里の視線から逃れるように、月華は視線を手元に落とした。
「月華様のせいではありません」
「ですが、あの者は悠里を!」
口に出すことすら恐ろしいと月華はその後に続く言葉を閉ざし、膝の上に置いた手をきつく握りしめ、うつむいてしまう。
「腕に自信があるなどと言って、もしあの者が本気で……」
「月華様。お顔をあげてください」
それでも、顔をあげようとしない月華の頬に、伸ばされた悠里の手が添えられる。
青ざめた顔。
震える唇。
揺らぐ瞳。
うつむいていた顔を持ち上げられ、悠里と月華は見つめ合う。
「腕に自信があると言ったのは本当のことですよ。このとおり、独り身で旅をしているゆえ、何度か危険な目にもあいます」
「危険な目?」
「ええ。たとえば、賊に襲われたり」
賊、とつぶやき月華は大きく目を見開いた。
賊など、当然のことながら話でしか聞いたことがない。
この王宮にいる限り無縁なこと。
彼らは旅人や村や町を集団で襲い、金品を奪い平気で人を惨殺すると……そんな恐ろしい者たちに悠里が襲われたことがあるとは。
「なので、それなりに武術や剣術も身につけております。賊に比べたら、先ほどの者の攻撃など虫が飛んできたようなものです」
「賊に襲われたことがあるなんて」
「反対に叩きのめしてやりますよ」
月華を怯えさせないよう、悠里はつとめて明るく答える。
「……殺してしまうのですか?」
まさか、と悠里は苦笑する。
「さすがにそれは……ですが、それこそ腕をへし折ってやりました」
「悠里がそんなことをするなんて、とても見えません」
「よく言われます」
「お強いのですね」
「親の顔も知らない孤児でしたから。生きるためにはいろいろと……」
親の顔も知らないという悠里の言葉に、月華は痛々しい表情を浮かべる。
「ごめんなさい。つらいことを思い出させてしまいました」
「お気になさらず。こうしてわたしが存在しているのですから当然両親はいたのでしょう。ですが、顔も知らないのだから、わたしにとっては最初からいなかったも同然。もちろん、子どもの頃は親のいない自分の境遇を嘆きもしましたが」
それよりも、と言って、頬に触れていた悠里の手が落ち、月華の両手をそっと包み込む。
「少しは落ち着かれたようですね」
月華はこくりとうなずいた。
だいぶ、震えがおさまったような気がする。
不思議なことに、こうして悠里に触れているだけで、先ほどまでの不安や恐れが嘘のように鎮まっていく。
ふと、月華は悠里の腰にさげられた笛に視線を落とす。
「大切な笛が傷ついてしまいました」
「ああ、たいしたことではないですよ」
しかし、月華の表情は暗い。
たいしたことはないとは言うが、悠里にとっては大切な商売道具でもある笛だ。その笛に傷がついてしまい申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「そんな顔をなさらないで。笛の代わりなどいくらでもあります。けれど、今のわたしにとって一番大切なのは月華様ただおひとりです。月華様、無理に笑ってとは申しません。ですが、悲しいお顔をされるとわたしの心が痛みます」
そして、握っていた月華の手を悠里は口許に持っていき、その指先にそっと口づけをした。
「悠里……」
目をそらしたいのに、そらせられない。
惹きつけ引き寄せられるように悠里の瞳に捕らわれて絡め取られ、身動ぐことさえできない。
座っているのかそうでないのか、身体がふわふわとする。
何だか落ち着かない。
おのずと、悠里の唇に目がいってしまい、心臓が音をたててどきどきと鳴る。
意識していることを悟られるのが恥ずかしくて、何でもないふりをよそおうとするが難しかった。
泣きもしない。
笑いもしない。
感情を表にださないから何を考えているのかわからない。
無表情で可愛げのない娘。
ずっと、みなからそう言われ続けてきたのに……。
指先に残る悠里の唇の感触が、熱をともなっていまだ残っている。
こんなに優しく指に口づけをされたのは初めてだった。
悠里はたくさんの初めてを私に与えてくれる。
そのどれもが心地よくて胸が躍り、心の闇を払ってくれた。
これまで、ここに来た男たちはみな……。
そんなことを思い出しかけ月華は否、と苦痛でしかなかった過去を振り払う。
今は悠里のことだけを考えていたいというように。
何かを言いかけようとして口を開き、そして、閉ざすを繰り返す月華の表情を、悠里はただ微笑みながら見つめているだけ。
そんなふうに見つめられたら、私……。
頬が熱い。
たぶん、耳まで赤くなっている。
「悠里」
「はい」
ようやく発した声は、どこかうわずっているような気がした。
それどころか、悠里と名を呼んだものの、その先へと続く会話を見つけることができずにいる。
それでも何か言葉をみつけようと試みるが、それらすべてが断片となって頭の中を空回りしていくだけ。
結局。
「……何か言ってください」
それだけを言うのがやっとであった。
「可愛らしいお方」
すかさず返ってきた答えに、さらに頬を赤く染めた月華は、咄嗟に悠里の手から自分の手を引き抜き頬に持っていく。
その手で月華は熱くなった顔を隠すように押さえこむ。
目の前で悠里がくすりと笑う気配を感じた。
「からかわないでください」
「からかってなどおりません。可愛いですよ、月華様」
「お願いですから」
頬を赤らめたまま視線を斜めにそらした月華の目に、卓の上に寂しくぽつんと置かれた花が映った。
昼間、悠里が髪に挿してくれた花であった。
悠里に抱き寄せられた拍子に髪から落ちてしまったのだ。
「悠里、お願いがございます」
頬から手を離し、月華は再び悠里に視線を戻す。
「仰ってください。月華様のお願いでしたらどんなことでも」
「はい。もう一度、あの花を私の髪に挿してくださいますか?」
「花? ですが、落ちてしまった花を月華様の髪に飾るのは……それに、花びらが少し傷ついてしまいました。お許しいただけるのなら、もう一度お庭に行き別の花をとって参ります」
立ち上がった悠里の袖を、咄嗟に月華はつかんで引き止める。
「いいえ、せっかく悠里からいただいた花です。大切にしたいのです」
「わかりました」
悠里は卓の上に置かれた花を手に取ると、月華の長い黒髪を愛おしげに何度も指ですく。
時折、悠里の指先が首筋に触れ、くすぐったさに月華は肩を震わせた。
「失礼いたします」
そう言って、悠里の指先があごに触れた。
うつむき加減の月華の顔を持ち上げると、手にした花を耳脇に挿す。
月華は嬉しそうに目を閉じ、飾られた花に手を触れる。
甘い花の香がふわりと漂い鼻腔をくすぐる。
幸せな気持ちが胸に広がっていく。
どんな贈りものよりも、悠里のくれたこの花が一番素敵だと思った。
小さなため息が月華の唇からこぼれ落ちる。
闇色でしかなかった心に色がつく。
悠里と出会えて幸せ。
悠里の側にいたい。
悠里のことをもっと知りたい。
悠里に触れたい。
触れてほしい。
私……。
悠里のことが好き。
大好き。
「悠里」
長いまつげを震わせ、閉ざしていた瞳を開いた月華は、花びらに触れたまま小首を傾げにこりと微笑んだ。
儚い笑みでもなく、無理に作られた笑みでもない。
それは、堅く小さな蕾が花開いたかのような可憐な笑顔であった。
「ありがとう。嬉しいです」
「……」
すると突然、悠里は片手で顔を押さえ下を向いてしまった。
「悠里? どうしたの? 悠里?」
いきなり目をそらすようにうつむいてしまった悠里の仕草に、月華は不安になっておろおろとする。
悠里と呼びかけても、いっこうに顔をあげようとはしない。
どうしてしまったの?
何故、顔をあげてくれないの?
「私……」
母を亡くしてから心から笑った記憶などない。
だから、きっと、うまく笑えていなかったのかも。
ぎこちない引きつった顔だったから、悠里は笑っているの?
「私の顔、おかしかったですか?」
沈んだ声を落とす月華に、悠里は違うのだと首を振って否定する。
「違います。違うのです……」
と、言いながらも、それでもいっこうに顔をあげようとしない悠里の前に、月華はおそるおそる手を伸ばす。
悠里の肩に手が触れようとした瞬間、ようやく悠里が顔を持ち上げた。
「申し訳ございません。月華様の笑顔があまりにも、愛らしくて……」
顔を赤らめた悠里は困惑した表情をする。
「わたしの方が照れてしまいました」
悠里に触れようとして空に浮いたままの手をとられ、そのまま悠里の頬に導かれる。
熱いのは自分の手か悠里の頬か。
もはや、わからなかった。
「おいやなら、どうぞこの手を振り払ってください。そうでないと、わたしは勘違いをしてしまいそうです」
ゆっくりと歩み寄ってきた二人の思いが加速していく。
「いいえ、勘違いではないです」
「月華様」
「どうか名前で、月華と呼んでください」
「月華」
愛おしい人の名を呟き、悠里は月華の手首の内側に唇を寄せた。
甘い疼きが手首に走った。




