3 幻の蝶
陽の光が眩しく、吹く風が心地よい。
その穏やかな風に舞い、庭園に咲く花々の香が辺り一面を漂う。
どこからともなく聞こえる愛らしい小鳥のさえずり。
歩を進めていくと、目の前に大きな泉水が広がり、さざ波たつ水面には風に散った花びらがゆらゆら揺れていた。
こうして外へ出たのはいつ以来だろうか。
遠い昔。
そう、幼い頃、母の手に引かれながら王宮の庭を歩いたことを思い出す。
その母もずいぶん前に亡くなってしまった。
ふと、月華は表情を翳らせた。
思えば、いつの間にか母の顔すら思い浮かべることができなくなってしまっている自分に気づく。
記憶の底に沈殿した欠片を拾い集めても、母がどんな顔をしていたのかさえ思い出すこともできず、まるで靄がかかったかのようにはっきりとしない。
色褪せすぎた思い出は、母の面影すら薄れさせてしまった。
──……様?
何度目かの名を呼ばれ、ようやく月華は我に返り深い思考の底から浮き上がる。
「月華様? 足元にお気をつけください。段差がございます」
目の前に差しだされた悠里の手を見つめ、しばしためらった後、月華は遠慮がちに手を添えた。
重ねた悠里の指は細くしなやかで、男の人にしては美しい手であった。
触れた悠里の指先から温もりが伝わってくる。
こっそりと悠里の横顔を見つめ、月華は慌てて視線を外し頬を朱に染めた。
「大丈夫ですか? もしかしたら、ご無理を言って連れ出してしまいましたか?」
「いいえ! 違います……」
まさか悠里に見とれていたとは言えるわけもなく、月華は慌てて否定する。
「外に出るのは久しぶりでしたので……」
「疲れましたか?」
「疲れてなど……」
月華は足をとめ、うつむいてしまう。
「……退屈ではないですか? 私と一緒にいて」
優しくされることに慣れていない。
労りの言葉をかけられたこともない。
だから、こうして誰かと一緒にいて、普通の会話をすることも今までなかった。
自分のもとにやって来る男たちはみな、己の欲情を一方的に吐き出すばかりで、誰ひとりとて気遣ってくれる者などいなかったから。
くすりと笑った悠里は、おもむろに地に片膝をつき、下からのぞき込むようにして月華を見上げる。
「わたしが退屈しているようにみえますか?」
ゆっくりと視線をあげ、月華は間近にある悠里の顔を見る。
優しい眼差しに嘘の気配はない。その目は自分を気遣うふうではあるものの、王に命じられたからといって無理をしてつきあってくれているというものではなかった。
「あの……」
何でしょう? と悠里は首を傾げ月華の言葉の先を待つ。
「また、悠里の笛を聞かせていただけますか?」
弱々しい声でお願いをする月華に、悠里はもちろんです、と快く答えた。
その時、目の前を一羽の白い蝶が軽やかに舞いながら過ぎるのを見て、月華の口許がかすかにほころぶ。
「蝶がお好きなのですね?」
悠里の問いかけに月華は控えめにうなずく。
優雅に舞う蝶の行方を目で追っていた月華は、ふと悠里を見上げた。
「悠里は、月蒼蝶をご存じでしょうか」
各地を旅する悠里なら、もしかしたら、その蝶を見たことがあるかもしれないと思ったからだ。
「ああ、幻の蝶ですね。残念ながら」
そこで、悠里は苦い笑いを浮かべた。
「確かに、噂ではとても美しい蝶だと聞いてはおります。ですが月華様、月蒼蝶をお望みになるのはおやめになったほうがよろしいかと」
「……何故、でしょう?」
「言い伝えでは、その蝶を見た者は……」
月蒼蝶を見た者は──?
こちらを見下ろす悠里の真剣な眼差しに、月華はこくりと喉を鳴らした。しかし、その先に続くであろう悠里の言葉を、結局最後まで聞くことはできなかった。
何故なら──。
「あら、どうやら先客がいたようね。それも、とても珍しい先客が。どういうことかしら?」
突如、背後からかけられた声に月華と悠里は振り返る。
少し離れた場所に、陽の姫と彼女を取り巻く男たちの姿。
相変わらず、きらびやかな集団であった。
それはまるで、辺りに咲く花々さえ色褪せさせてしまう華やかさ。
月華は朱珂の国のもう一人の姫である陽火から視線を外し、たじろいで後ずさる。
うなだれる月華の様子を目の端にとらえた悠里は、彼女をごく自然に背にかばうよう身体をずらして陽火たちの前に立った。
「何よ、その態度。私の顔を見て逃げだすことないでしょう? ねえ、陰の姫。月華」
陽の姫の口調にはどこか棘のような響きが含まれ、月華を見返すその眼差しも、好意的なものは欠片ほども見あたらなかった。
むしろ蔑みをたたえた目。
そもそも、陽火がわざわざこの離れの庭園に来ることじたい、月華に対する嫌がらせの何ものでもない。
それは単純な理由だ。
見目のよい男たちに囲まれ何不自由なく暮らす自分の姿を、牢部屋からのぞく月華に見せつけ、自分とおまえとでは、存在価値が違うのだと知らしめるためだ。
さあ、私をうらやみなさい。
自分の境遇を嘆いて失望しなさい。
鉄格子の中から精一杯、手を伸ばして足掻いてごらんなさい。
たとえどんなに、おまえが欲しいものを望もうとしても、何ひとつその手に掴むことなどできないのだから。
おまえが失意の底辺に落ちればおちるほど、私はもっと輝くことができる。
と……。
勝ち誇ったように笑む陽火の背後が、さざ波たつようにざわめく。
あの娘が陰の姫、月華様だと?
なんと、儚くも美しい……。
ああ……触れるのもためらうほどの美しさだ。
まるで月の雫のよう。
陽の姫に追従する男たちの間からそんな声がもれる。
滅多に人前に姿を見せず、王宮の離れに捕らわれるようにひっそりと暮らす陰の姫を、こうして間近で見るのは彼らにとって初めてだったようだ。
ごくりと唾を飲み込む者。
まるで呪縛にかけられたかのように月華の姿に釘付けとなり、身動ぐことができない者。
みな、月華の美しさに目を瞠らせた。
けれど、目を見開いたのは彼らだけではないようだ。
見下すように月華を見つめていた陽火の視線がすっと、悠里に向けられとどまる。
食い入るように悠里を見つめる陽の姫の頬にも、さっと赤みがさしたように見えたのは気のせいか。
「そう……おまえが新しく月華の元に送られた異国の者」
ふと、何かを思いついたように陽火は斜め後ろに控える従者の一人をかえりみる。
「おまえ今、陰の姫に見とれていたわよね。それも、ずいぶんと熱のこもった目で見ていたわ」
突如、陽の姫に話を振られた男は、とんでもないと慌てて首を振って否定する。
「嘘よ、月華を見てすごく顔を赤くしていたわ。それに、月のしずく……ですって? 何よそれ。ぜんぜん意味がわからない」
「そ、それは……その……」
男は青ざめた顔で口をもごもごさせ、うろたえる。
己自身、意識せずに口に出してしまった月華に対する褒め言葉を、よもや、陽の姫に聞かれていたとは何とも失態。
だが、一度声に出してしまった言葉をなかったことにすることはできない。
「そんなにこの女が気にいったのなら、今宵おまえが陰の姫の相手をなさい。おまえはもういらないわ」
陰の姫を褒め称えたのはこの場にいる誰もが同じ。
だが、運が悪いことに、たまたま陽の姫の一番近くにいたというだけで彼女の気まぐれの的となってしまった。
ただそれだけであった。
しかし突然、主に言いがかりをつけられたどころか、思いつきで従者の任を解かれてしまった男にとってはたまらない話である。
男は、即座に陽の姫の足下にひざまずき、必死になって許しを請い始めた。
すぐに陽火のご機嫌を取り戻さなければ。
なり振りかまってなどいられないとばかりに。
「そ、そ、それだけは! どうか私を陽火様のお側においてください!」
「あら」
足元にすがりつく男を、陽火はつんとあごを反らし半眼で見下ろす。
「陰の姫に涙を流させた者には褒美が与えられるのよ。おまえにとっても、悪いお話ではないでしょう?」
陽の姫の口許には意地の悪い笑み。
男は困惑顔で周りの者に救いを求めるよう視線を泳がせるが、誰一人この哀れな男に救いの手を差し伸べる者はいなかった。
それどころか、取り巻きたちの間から、あからさまな嘲笑がもれる。
地にひたいをこすりつけんばかりにうずくまる男を見る彼らの目は、あくまで冷ややかであった。
陽の姫のお気に入りとして側にはべり、甘い汁を吸う者は一人でも少ない方がいい。
それが彼らの本心だ。
「私を捨てないでくださいっ! ああ……陽火様、お願いでございます!」
けれど、無様に地に這いつくばった男の存在など、もはや視界のすみにも入らないとでもいうように、陽の姫は紅をはいた唇を吊りあげ、手にしていた扇をついと悠里の眼前に突きつけた。
「おまえ、この男の代わりにおまえが私の従者として加わりなさい。おまえはとても見栄えのよい男。私の供に添えても少しも見劣りしないわ」
悠里の背に隠れていた月華の肩がぴくりと震える。
「そんなつまらない女といるよりも、私と一緒にいたほうが楽しいはずよ」
緊迫した空気がその場を支配する。
みなが息を飲んで陽の姫と悠里を交互にみやる。
しかし、それも一瞬のことであった。
「お断りいたします」
はっきりと即座に断られ、陽火は驚きに眉をあげた。
耳を疑ったとでもいう様子だ。
自分の従者になりたがる男たちは大勢いる。
声をかければみな泣いて喜び、一生、お仕えしますと誓いをたてひれ伏す。
命令ひとつで彼らは逆らわずに動く。
だから、自分のいいなりにならない男がいるとは思わなかった。
声を発することも忘れ、茫然と立ち尽くす陽火に背を向け、参りましょう、と悠里の手が月華の背に添えられた。
悠里の目にはすでにもう、陽火の姿は映っていない。
しかし、歩き出そうとする悠里をとどめるように、月華は両手を悠里の胸に添えとんと、押し返す。
「悠里、いけません……」
陽火に従う男たちの顔ぶれが時折変わるのを、鉄格子越しから見てきた。
先ほどのように、陽火の怒りに触れ、あるいは気まぐれで遠ざけられたのだろう。
その者たちがどうなったのかは月華の知るところではない。だが、あの華やかな輪の中に二度と戻ってくることはなかった。
いや一度だけ、侍女たちが交わしていた会話を聞いてしまったことを思い出す。
本当かどうか定かではない。
月華は身を震わせ、一歩後ずさる。
処刑されたと──。
「お願いです、悠里。陽火様に逆らっては……私のことは……」
言いかけた月華の唇に、悠里はそっと人差し指を添えた。
それ以上は何も言わないでくださいと遮るように。
「たとえ、朱珂の王に命じられたとはいえ、今のわたしはわたしの意志で月華様のお側にいたいと望んでおります」
「ですが……」
「それとも、わたしが側にいるのはおいやですか?」
「そんな、ことは……」
見上げてくる悠里の瞳にひたと見つめられ、月華はまぶたを伏せた。
震える長いまつげが頬に影となって落ちる。
「私は悠里に……何もしてあげることも、差しあげられるものもございません」
私は何も持っていないから。
「もしも、悠里の身に何かあったとしても……」
そんなこと、と笑って悠里は緩く首を振る。
「何もいりません。いただく理由もございません。自分の身は自分で守れます。月華様のことも」
優雅な仕草で悠里はひざまずき、伸ばした手で月華の右手をとる。
一瞬、手を引きかけた月華だが、悠里はそれを許さなかった。
怖がらないで。
怯えないで。
逃げたりしないで。
わたしはあなたに優しくしたい。
あなたを守ってさしあげたい。
悠里の目がそう言っているような気がして……。
強張っていた身体の力が抜けていく。
暗闇しかなかった月華の心に小さな光りが灯る。
それは温かな光り。
呼吸が乱れて苦しい。
胸の奥を突き抜ける、つきりとした痛み。
けれど、嫌な痛みではない。
この痛みが何かと気づいたその時、月華の白い頬に色味が差した。
さっと風が吹き抜け月華の艶やかな黒髪をなでていく。
優しく流れる刻にのって、馥郁たる花の香が立ちこめ、舞いあがった花びらが二人を包む。
どこからともなくやってきた二羽の蝶。
つがいだろうか。
微笑ましいほどに仲睦まじい。
蝶は重なった月華と悠里の手の上をひらひらと飛び回る。
「わたしを月華様の側においてください」
添えられた悠里の手と真剣な眼差しを交互にみやり、ややあって、引き結んでいた月華の唇からはい、とかすかな声がもれる。
ほっと息をもらし、悠里は月華の手をとったまま立ち上がった。
「よかったです。もし月華様に拒絶されたら、わたしはこのまま、ここを立ち去ろうと思っておりました」
それを聞いた月華は、思わず悠里の指先をきゅっと握りしめ返す。
悠里を見上げる月華の瞳に不安の色が過ぎる。
「もちろん、どこにもいきません」
そう言って悠里は、近くに咲いている花を手折り月華の耳の脇にさした。
「すみません。勝手にお庭の花を……ですが、月華様の髪を飾るためでしたら花も喜びましょう」
それに、これなら風が吹いても、こめかみに残った痛々しい痣を見られることもない。
そうして悠里は月華の前に手を差し出す。
今度はためらうことなく、月華は差し出されたその手をとった。
眉根を寄せ、陽火は険しい顔つきで目の前の二人を凝視する。
壊れ物を扱うように、大切に、優しく丁寧に月華に接する悠里から目をそらすことができなかった。
まるで、何かの物語の一場面を見ているかのようだ。
感情を表にあらわすことのない月華だが、その乏しい表情にわずかな色が添えられたのを見る。
月華が羨ましいと思った瞬間、陽火は手にしていた扇を指先が白くなるほどにきつく握りしめた。
「どうして」
呟いて陽火は、うんざりとした目で、いまだ足元にすがりつく男を見下ろす。
自分の足元にうずくまるのは、みっともなく顔をゆがめて泣き崩れる無様な男。
この違いは何だというのだろうか。
陽火は目を吊り上げ立ち去って行こうとする悠里を制する。
「待ちなさい! こちらに来なさいと言ったでしょう。これは命令よ!」
怒りで肩を震わせる陽火に、しかし、悠里は振り返ることもなく月華をともない去っていこうとする。
「私の命令に従えないというの!」
怒りに我を忘れ、陽火はその場で足を踏みならす。
足元にいた男はひっと悲鳴をあげのけぞった。
「おまえたち! 何ぼんやり突っ立っているの。あの男を連れ戻しなさい!」




