2 旅の楽士
長い一日がようやく終わりを告げようとしていた。
部屋に現れた侍女の手には白い夜着。
今宵も見知らぬ男が私に涙を流させようと、この部屋に来ることを悟る。
夜着に着替えた月華は寝台の端に腰をかけた。
ほどなくして、侍女の無言の案内とともに、部屋に一人の青年が現れる。
二十歳を少し過ぎた、すらりとした長身に均整のとれた身体つき。
端整な顔だちの若者であった。
どこかはわからないが、おそらく、この国の者ではない異国の者。
だが、見てくれなどどうでもいい。
どんなに美しい顔だちをしていようが、そうでなかろうが、ここへ来た以上、自分に求めることはただひとつ──。
戸惑いの表情を浮かべ扉の側で所在なく立ち尽くす青年の前で、月華はためらうことなく夜着の帯に自ら手をかけた。
白い薄布が月華の肩からするりと滑り足元に落ちる。
差し込む月明かりが月華の素肌を舐めるように、蒼白く照らす。
「ま、待って! お待ちくださいっ……」
男はひどくうろたえた様子で視線を斜めにそらし、声をうわずらせた。
「何故? 私を抱きにきたのでしょう?」
月華は不思議そうに小さく首を傾げ、抑揚のない声で男に問う。
「抱、き? 違います。誤解です! 確かに、陰の姫様のお相手をするようにと命じられましたが……」
男はそんなつもりは決してないのだと首を振り、ゆっくりと月華の元へ歩み寄る。月華の足下に落ちた夜着を拾いあげ、男は己の指先が少女の肌に触れないよう、そっと肩に羽織らせた。
かけられた夜着を胸の前でかき合わせ、月華は驚いた顔で男を見上げた。
男はふわりと優しい微笑みを口許に浮かべる。
「お風邪を召されます」
静かで穏やかな声が耳元に落ちる。
何故?
ここへやってくる男たちは誰もかれもみな、自分の身体を貪り、玩具のように弄ぶのに。
何故、あなたは私に優しくしてくださるの?
「わたしは旅の楽士でございます」
そう言って、男はここへ連れて来られるまでの経緯を語った。
楽士として各地を旅する男は、たまたまこの朱珂の国に立ち寄った。だが、突然、複数の兵士に囲まれ、なかば無理矢理この王宮に連れてこられたのだという。
いったい、何がなんだか……と、首を傾げる男に月華は眼差しを落とす。
おそらく理由などない。
異国の者という物珍しさから、単純に目をつけられてしまっただけなのだろう。
陰の姫の相手をさせるにはちょうどいいと。
「ええと、少しお話をしませんか?」
男の手によって窓辺に導かれ、椅子に腰をかける。
「わたしの名は悠里です」
「ゆうり?」
青年は月華の手をとり、手のひらになぞるように自分の名を綴った。
「悠里」
はい、と悠里と名乗った男は人懐こい笑みを浮かべる。
「月華……」
「月華様……美しい名ですね」
月華の瞳にわずかな動揺が走る。
名を褒められるなど、生まれて初めてのことであったから。
気恥ずかしさに視線を落とした月華の目が、男の腰に下げられた横笛にとまる。
「ああ。よろしければ、何か吹きましょうか?」
月華はこくりとうなずいた。
「月華様はどのような曲がお好みでしょう」
今度はわからないというように首を振る。
悠里は静かに口許に笑みを刻み、笛を吹き始めた。
憂いを漂わせる笛の旋律が、夜の静寂を縫いとっていく。
月華はそっと胸に手をあて目を閉じた。
笛の音色が心の奥深くに浸透していく。
優しくて切なくて、けれど心地よい音。
やがて、震える音色が曲の終わりを告げ、静かな余韻を響かせ闇へとさまよい消えていく。
笛から唇を離した悠里は、ゆっくりと閉じていたまぶたをあげた。
二人の間に落ちる、しばしの沈黙。
「素敵な曲……」
「お褒めいただき光栄です。もし、よろしければ他の曲も」
はい、と無言でうなずく月華に笑いかけ、さらに悠里は別の曲を吹き始めた。
月華は再び目を閉じ、美しい笛の音に耳を傾けた。
その夜は一晩中、悠里の笛を聞き、彼の語ってくれる旅の出来事に月華は興味を示した。
自分の知らない外の世界。
他国の話。
悠里自身のこと。
途切れることなく続く悠里の話と笛に、月華は真剣に聞き入った。
次は? と、話をねだる月華の仕草に悠里は嫌な顔ひとつせず、それどころか瞳を輝かせる月華を退屈させまいと、豊富な話題で楽しませた。
悠里の話は夜更けまで続いた。
けれど、いつの間にか眠ってしまったらしく翌朝、目覚めたら寝台の上であった。
月華ははっとなって身を起こした。
おそらく悠里が寝台まで運んでくれたのだろう。
「お目覚めになられましたか?」
窓辺にもたれるように背中をあずけて立ち、悠里がこちらを見下ろし微笑んでいる。
朝日を浴びる悠里の笑顔がことさら眩しくて、月華は目を細めた。
「ごめんなさい……私、いつの間にか眠ってしまって」
「いいえ、わたしの方こそ月華様の可愛い寝顔を盗み見してしまいました。どうかお許しください」
戸惑いを覚えて手元に視線を落とし、月華は頬を朱に染める。
可愛いと言われて、どういう反応をとればよいのかわからなかった。
おもむろに近寄ってきた悠里の右手が頬のあたりに伸び、思わず月華はぴくりと肩を震わせた。
悠里の手が頬に触れる直前でとまる。
「すみません。おどろかせてしまいました」
両手でシーツを握りしめ月華はいいえ、と消え入りそうな声を落とし頭を振る。
「触れても、いいですか?」
悠里の問いかけに、うつむいたまま月華はちいさくうなずく。
伸ばされた指先が頬に触れ、そっとなでられ髪をすく。
いたわるような手つきであった。
「ここに痣が」
見上げると、悠里が眉宇をひそめ悲しそうな表情を浮かべていた。
月華はこめかみのあたりに指をあて眉間を寄せる。
先日、自分を抱きに来た男に叩かれた箇所であった。
顔に手をあてたまま、月華は悠里から視線をそらす。
この痣の理由を尋ねられることを恐れて。
他の男に抱かれたことを知られたくなくて。
己の身にかせられた境遇を憐れまれるのも悲しい。
けれど、その心配も杞憂にすぎなかった。
自分がこの国でどういう扱いを受けているか薄々気づいてはいるであろうが、悠里は決して詮索してくることはなかった。
その気遣いがありがたいと思った。
「髪をおろしていれば痣も目立ちませんでしょう。あとでお薬をいただけるよう頼んでみます」
「いえ……へいきです。痛みもそれほどありません」
「いけません。きれいなお顔に傷でも残ったら大変です」
きれいと言われて、またしても月華は顔を赤らめうつむいてしまう。
そんなふうに言ってくれる者など今までいなかったから。
嬉しいのに恥ずかしい。
嬉しいと思うその表現の仕方がわからない。
これでは呆れられてしまう。
けれど、それもまた月華のただの考えすぎであった。
悠里はふわりと笑って窓の外を見やる。
「見事なお庭ですね。よろしければ、後で一緒に散歩をしませんか?」
思わぬ悠里の提案に、しかし、月華はでも……と言葉を濁す。
そこへ、次の間から食事の盆を手に現れた侍女に、悠里は傷薬を頼みさらに、月華を庭の散策に連れ出してもよいだろうかと尋ねる。
すると、驚いたことに二つ返事で承諾を得ることができた。
もっとも、侍女たちの監視つきではあるが。




