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1 二人の姫

 雲ひとつない、晴れた夜の(うみ)に浮かぶは蒼白の月。

 冴え冴えと凍てつく光を解き放ち、濃密な夜の帳に光を落とす。


 月華はそろりと顔を上げ、窓の向こう夜空にかかる月を見上げた。

 窓には鉄格子がはめられ、その隙間から凍える月の光が帯状に差し込み、月華の素肌を蒼白く照らしだす。


 年の頃は十六、七。

 しっとりと濡れた肌はまるで夜露をまとう花びらのよう。

 背に流れる黒髪は絹糸のごとき艶やかさ。

 夜の虚空をさまよう黒い瞳はどこか憂いを秘め、その瞳で見つめられたなら、男なら誰でも一瞬にして心を奪われてしまうであろう美しい少女であった。


 その少女のかたわらで、寝台に手足を広げて横たわり、息を乱して胸を上下させていた男がふいにむくりと起き上がった。


「ちっ! 陰の姫に涙を流させろと命じられてやって来たが、人形みてえな女を相手にして何が楽しいってんだ。不愉快だ」


 やにわに男の無骨な手が眼前に伸び、乱暴に前髪をつかまれ無理矢理、身体を起こされる。

 さらにもう片方の手で強くあごをつかまれた。


「泣きもしない。声ひとつあげやしない」


 月華の黒い瞳はただ虚ろに天井に据えられたまま。

 息を飲むほどの美しい顔には感情ひとつ表れていない。

 それが男の怒りをさらに駆り立ててしまったのか、男は月華の頬を二度三度と張った。


「おまえのせいで、この国に雨が降らなくなってしまった。おまえが涙のひとつでも流せば国は救われるというのに!」


 頬を張られても、それでも月華は声ひとつ、表情ひとつ変えることはなかった。

 髪をつかむ男の手が離れた。

 肩を強く突き飛ばされ、月華の身体が再び寝台へと投げ出される。


 男はもう一度忌々しげに舌を鳴らすと、床に散乱した服を手早く身につけ、肩を揺らし、大股で部屋を出て行ってしまった。


 部屋に静けさが満ちる。

 窓から涼とした風が流れ、部屋に停滞していた息苦しいほどの熱気を拡散する。

 月華はゆっくりと身を起こし、床に投げ捨てられていた夜着を拾って肩に羽織ると、窓辺に腰をかけ夜空の月を見上げた。


「雨が降らないのは私のせい……」



 朱珂の国には二人の姫がいる。

 一人は陽の姫。

 多くの男たちにかしずかれ常に太陽のように笑う姫。

 陽の姫が笑えば朱珂の国には暖かい陽射しが降り注ぐ。


 もう一人は陰の姫。

 ほとんど人目に触れることなく王宮深くに囚われ、男たちの慰みものとなる姫。

 陰の姫が涙を流せば、朱珂の国に恵みの雨を降らせ大地を潤すといわれていた。


 しかし、いつしか陰の姫である月華が涙を流さなくなり、徐々に朱珂の国に降る雨が減ってしまった。

 このままでは作物は枯れ、国が危機的状況に陥ってしまうと危惧した朱珂の王は、毎夜のごとく月華の元に男を送った。


 月華に涙を。

 その手段は問わないと、男たちに命じて。


「私が涙を流さないから」


 呟いて月華は窓の縁に身をもたれ、ゆっくりとまぶたを閉じた。




 ◇




 ころころと軽やかに笑うその声に、月華は顔をあげ眩しさに目をすがめた。

 いつの間にか窓辺にもたれたまま眠ってしまったらしい。すでに太陽は空高くへと昇り、明るい陽射しが月華の顔を照らす。


 鉄格子の向こう、色鮮やかに咲く季節の花が植えられた庭園に、一人の少女が無邪気に蝶を追いかけ、はしゃぐ姿が目に飛び込んだ。

 毎日のように離れの庭園にやって来る少女。

 彼女こそ朱珂の国のもう一人の姫、陽の姫であった。

 さらに、彼女の背後に従う、数十人の見目麗しい男たちの姿。

 目を奪われるほどの華やかな集団だ。


「陽の姫様、あまりはしゃいでは転んでお怪我をなさいますよ」


「陽火様、足下にお気をつけくださいませ」


 彼女をとりまく男たちが口々に陽の姫に気遣いの言葉をかけ、如才なく立ち回る。

 蝶を追いかけていた陽の姫は、裾のひろがった着物をふわりとひるがえし、ふふ、と笑って男たちをかえりみる。


「ねえ、おまえたちは月蒼蝶(げっそうちょう)を見たことがあって?」


 陽の姫の唐突な問いかけに、男たちは互いに顔を見合わせ、いいえ、と首を振る。


「月蒼蝶はそう簡単に目にすることのできない、幻の蝶ですゆえ」


「特別な条件が揃って、初めてその姿を見せるとか」


「それどころか、月蒼蝶はこの世の蝶ではなく、死神の遣いの魔蝶と呼ばれているとも……」


 などと、男たちのいうことは様々であった。


「私、一度でいいからその幻の蝶が見てみたいわ。それに、月蒼蝶を見た者は、何でもひとつだけ願いごとが叶うのでしょう?」


「そうとも、言われておりますが」


 それはあくまで言い伝えだ。

 陽の姫はふと、よいことを思いついたというように瞳を輝かせ手を叩いた。


「そうだわ。月蒼蝶を捕まえてきた者には褒美をとらすわ。望むもの何でもあげる」


 褒美という言葉に男たちの間に静かなどよめきが走った。

 彼らの瞳の奥深くに、鈍く、貪欲に揺らぐ光が過ぎる。


「褒美とはまことでございますか?」


「望むもの何でも、と……?」


 ええ、と手にした扇を口許にあてて笑う陽の姫の視線が、一瞬だけ月華に向けられた。

 その目に浮かぶは憐れみ。

 口許には嘲笑。


「そう。何でもよ。だって、私は陽の姫。この朱珂の国に必要とされている存在だもの」


 上機嫌に笑い、陽の姫は軽やかな足取りで去って行く。

 そんな陽の姫の後を、男たちは慌てて追いかけた。


「月蒼蝶……」


 月華は小声でその蝶の名を口にのせる。

 月の光のように美しく蒼白い光を放ち、優雅に夜の虚空を舞う幻の蝶。


 私も見てみたい。


 しかし、月華はその望みをすぐに振り払う。

 望んだところで、この部屋に囚われ、一人では自由に外へ出ることも許されない陰の身である自分にとって、それは叶わぬ夢。抱いてはいけない願い。


 再び視線を窓の外へと移すと、鉄格子のすぐ向こうで蝶がひらひらと舞っている。

 月華は鉄格子の隙間から手を伸ばした。


 すぐに逃げてしまうと思ったのに、驚いたことに蝶は月華の指先を触れるか触れないか程度に飛び回り、やがてその羽でもって、眩しい蒼穹へと舞い上がっていく。

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