下働きの勇者
小坂真樹の平時の仕事は、簡単に言ってお手伝いだった。掃除、洗濯、調理。そういった雑事の大半である。
彼女は「火の魔王」デルネスの居城に厄介になり、そこで寝食の世話になる代わりに家事の一切を行う事になったのだった。
「マキ、こっちもお願いね」
「マキ、それが終わったら隣の部屋の掃除を頼むわね。メサにもやらせるから、二人で協力して」
「はい。わかりました」
その城の女中は真樹の他に大勢いた。人間もいれば、人間でない者もいた。
そしてその全員が、真樹の事を高く評価していた。前向きで飲み込みが早く、そして決してサボらなかったからだ。
「マキさん、その部屋が終わったら、次は二階の廊下を頼めるかしら? リリオンが頑張ってるんだけど、どうにも難儀してるみたいだから」
「わかりました。そっちもやっておきますね」
勇者という地位にふんぞり返らない謙虚な姿勢もまた、彼女達から好感を得る一員にもなっていた。そんなマキはそれまで自分が担当していた廊下の掃き掃除を済ませ、次に頼まれた部屋の掃除へ向かった。
「ねえマキ、ちょっと休んでかない? ここが終わったら二人でさ」
そしてそこに入るなり、真樹の同僚でメイドの一人、吸血鬼のメサが真樹に話しかける。彼女は真樹とは正反対に仕事熱心とは言い難く、隙を見つけてはサボり始めるという欠点を持っていた。そして性質の悪いことに、彼女は他のメイド仲間にもサボりを提案し、道連れを増やそうとしてくるのであった。
当然その毒牙は真樹にも向けられた。
「部屋の掃除なんていつでも出来るし、どうよ? 一休みしたってバチは当たらないと思うんだけど?」
「ごめんなさい。ここが終わったら、次は二階の方に行くことになってるんです。サボるなんて出来ないわ」
しかし真樹はその誘惑にかかることは無かった。メサは口を尖らせて頬を膨らませ、拗ねた表情を浮かべるが、それでも真樹は折れなかった。
「そんな顔してもダメ。お仕事は他にもまだ残ってるんですから」
「やーだー! 一人で抜け駆けなんてつまんないー! マキとサボるのー!」
「駄々こねないの。もう子供じゃないんだから」
「ぶー! ぶー!」
「メサ、いい加減になさい。ノルマはしっかりこなさないと駄目でしょ?」
そう注意する真樹の顔は、しかし本気で怒ってはいなかった。メサは既に数百年は生きているというのにどこか子供っぽく、その憎めない無邪気さが他のメイド達に愛される理由でもあった。
なお、メサは真樹より一回りほど大きかった。しかし精神面では真樹の方がずっと大人びており、真樹はこの大きな吸血鬼を自分の妹のように思っていた。
「ああもう、マキのわからずや! もういいもん、自分だけでサボっちゃうからね!」
メサが完全にヘソを曲げる。真樹は苦笑しながら、それでも必要以上に注意しようとはしなかった。それからどうなろうと知った事ではない。後は彼女の責任だ。
可愛がってはいたが、過保護にはならなかった。懲りないメサが悪いのだ。
「はいはい。どうぞご自由に。でもその前に、まずはこの部屋を片づけましょう?」
「でもここ、誰も使ってない所でしょ? 念入りに掃除する必要ある?」
メサの言うとおり、ここはいわゆる「空き部屋」であった。客人が殆ど来ない上にこの城自体が無駄に大きかったので、こうした無人のスペースは大量に存在していた。
「それでもするんですよ。いつ何が起きてもいいようにね」
「マキは真面目だなあ。たまには肩の力も抜かないと」
「はいはい。考えておきますよ」
メサの言葉に、気持ち半分に真樹が答える。メサはそんな適当気味な真樹の回答に不満気な表情を見せるが、それでも真樹にならって部屋の掃除を始めた。
「ほらメサ、始めますよ?」
「はーい。ちゃっちゃと終わらせちゃおう?」
「ええ、そうですね」
部屋自体は大して広くなく、備品の類も少なかった。なので掃除は簡単に進み、これといった問題も無く完了した。
「これくらいでいいかな。メサ、もうそろそろ終わりにしましょうか?」
しかし終了直後、別の問題が発生した。
「メサ? どうしたの?」
メサからの反応がない。自分と反対側で掃除をしていたメサは、真樹の二度の呼びかけにも答えずにその場に立ち尽くしていた。
真樹がそちらに向き直る。それに反応するようにメサが箒を取り落とし、ゆっくりと首をこちらに回す。
「マキ……」
その目からは血が流れ落ちていた。赤黒い血が、滝のように両目から溢れ出していた。
真樹の背筋が凍り付く。
「体が、熱いの」
全身で真樹の方を向く。その間も血の涙は止まる事を知らなかった。
メサが苦しげな声を漏らす。
「助けて、マキ。これ、ひょっとして」
口の端からも血がこぼれ始める。名を呼ばれた真樹は顔を強ばらせた。
真樹はメサがこうなった原因を知っていた。そしてこれに対処できるのは自分だけだということも。
「ねえマキ、どうしよう。これって」
「じっとしててください。今何とかしますから」
恐怖にひきつった顔を見せるメサに、真樹が力強く言い返す。それから彼女は持っていた雑巾を足下に落とし、メサの腹に狙いをつける。
「あ、やばい。もう駄目」
メサの瞳から光が消えていく。感情が息を潜め、破壊衝動が表に現れていく。メサが一歩詰め寄る度に、部屋の空気が張りつめていく。
お願いだから暴れないで。眉間に力を込めながら、真樹が心の中で祈る。
「真樹、お願いだから、優しくしてね?」
唐突にメサが口を開く。
次の瞬間、メサが真樹に飛びかかった。
「!?」
吸血鬼の巨躯が宙を跳ぶ。一瞬で距離が詰まり、着地ど同時にメサの右腕が真樹の左腕を掴む。
真樹の左腕が肩口からもぎ取られる。負けじと真樹の右腕がメサの腹に突き刺さる。
「うああ……っ!」
激痛に顔をしかめながら、真樹が右手に力を込める。メサの腹から無理矢理手を抜き出し、続けざまに穴の開いたメサの腹を蹴り飛ばす。
「どいて!」
メサの体が背中から壁に激突する。
「ギィィッ!?」
メサは目を回し、その場に崩れ落ちる。意識を失う直前、メサの口から獣のような甲高い呻き声が漏れ出す。一方で真樹もまた膝をつき、その体勢のまま右手にあるものに意識を向ける。
「やった……!」
その手には血に塗れた、白い石のような物体が握られていた。血石。魔物の体内に出現し、その者を狂わせる謎の物体である。
良くある事である。血石は魔族であるのなら誰にでも発生する。ここで働いているメイドも例外ではない。どれだけ力の弱い魔族であろうと、血石は出てくるものなのだ。
真樹はそれを、メサの体内から直接摘出したのだった。
「どうしたの! 何があったの!?」
そうして真樹が達成感を味わっていると、不意にドアが開いて大勢のメイド達が部屋に入ってきた。彼女達はそこで真樹とメサの惨状を知り、即座にここで何が起きたのかを悟った。
「マキ! 大丈夫ですか!?」
馬の下半身と人の上半身を持ったメイド長が真樹に駆け寄る。蹄の音から近づいてくるのが誰なのかを察した真樹は、すぐにそちらに顔を向けて笑みを浮かべた。
「ご心配なく。こっちは無事です」
「無事って、あなた腕が無くなってるじゃないですか。そんなのは無事とは言いません」
「死んでないだけ全然マシですよ」
真樹の渾身のギャグは、彼女以上に生真面目なメイド長の機嫌を損ねるだけだった。彼女は「とぼけてる場合じゃ無いでしょうに」とため息をつきながら器用に立ち上がり、それから真樹が右手に持っている物を見つめて言った。
「摘出は完了したのですね?」
「はい。多分大丈夫だと思います」
「そうですか。あなたには苦労をかけます」
「いいんですよ。私にしか出来ない事なんですから」
そう言って真樹が立ち上がる。それと同時にメサから真樹の左腕を取り返したメイド達が真樹の元までやってきて、彼女にその腕を差し出した。
「大丈夫? ちゃんとくっつくの?」
「平気ですよ。これくらいなら簡単です」
同僚の言葉に答えながら真樹は自分の腕を受け取り、肩口にくっつける。それから五秒もしない内に傷口が完全に塞がり、真樹は感触を確かめるように左腕を軽く回してみせた。
「ほら、平気でしょう?」
「相変わらず早いのですね。魔族でもそこまで早く回復はしませんよ」
それを見ながら、メイド長が感心した声を上げる。真樹はいたずらっぽく笑って「勇者の特権ですよ」と言ってのけた。
「う、うう……」
メサが意識を取り戻したのは、まさにその時だった。彼女の目にはいつも通りの生気が宿っており、それを見た同僚達は安堵のため息を漏らした。
「私、気を失って……?」
「大丈夫。マキが全部解決してくれたから」
メサの横にメイドの一人が腰を下ろし、困惑する彼女に声をかける。それを言われたメサはすぐに真樹の方を見つめ、疲れの滲み出た笑みを彼女に見せた。
「ありがと。迷惑かけてごめんね」
「これくらいどうってこと無いですよ。あなたが無事で良かった」
「そういうこと真顔で言うの禁止」
恥ずかしがりながらメサが顔を逸らす。それからメサは同僚の肩を借りて立ち上がり、救護室の方へ向かっていった。その姿を見送った後、メイド長は真樹の方へ視線を移して彼女に問いかけた。
「あなたも行った方がいいのでは? 傷は癒えたでしょうが、それなりに消耗しているはずです」
「大丈夫ですよ。私はすぐに回復できますから」
しかし真樹は笑みを浮かべてそう返した。それから真樹は手にしていた血石を口元に運び、躊躇うことなく食べ始めた。
血石の中には大量の血が詰まっていた。真樹が一口かじる度に、中の血が勢いよく噴き出していく。真樹はお構いなしに血石を食べ続け、中の血も出来る限り吸い取っていった。
血石にはそれを宿した魔物の力が込められている。真樹はそれを取り込むことで、その力を己のものとする事が出来るのだ。
「へえ、ああやって食べるんだ」
「いつ見ても凄いなあ……」
部屋に残っていた周りのメイド達は、興味深そうにそれを見つめていた。真樹は周りの視線を無視して血石を平らげ、手に着いた血を舐めとっていた。
その内メイド長が手を叩き、取り巻きに「ほら、早く持ち場に戻りなさい」と促した。
「皆ももう何度も見てるでしょうに。さ、戻った戻った」
メイド達は不満を露わにしたが、それでもメイド長の指示に従って部屋の外に出て行った。そしてその部屋には彼女と真樹だけが残り、そのメイド長もまた真樹を残してドアへと歩いていった。
「それでは、私も仕事に戻りますね。何かあったらすぐに言うのですよ?」
「はい。私も少し休んだら、二階の方に向かいますので」
「あまり根を詰めないように。いいですね?」
重傷を負ってなおも働こうとする真樹に釘を刺した後、メイド長は部屋から出ていった。一人残された真樹はそんな半人半馬のメイド長の優しさに感謝し、しかし休む事は考えずに立ち上がった。
「さて、仕事しますか」
勇者はどこまでも真面目だった。