何度も死んだ勇者
小坂真樹の「訓練」は全部で一週間続いた。彼女はその一週間でこの世界の情勢をみっちり教え込まれ、実戦訓練の過程で二千回死んだ。
そして最後の訓練を終えたその日、真樹は白い部屋に置かれたベッドに寝かされながら、一人の男と話し合っていた。
「どうでしょう。この世界についてご理解出来たでしょうか?」
「ごめんなさい。全然覚えてないです」
スキンヘッドの男からの問いかけに真樹は正直に答えた。彼女はこれまでに座学と戦闘の両方をこなしてきたのだが、この訓練が終わる頃には、それまで教え込まれた知識の大半を完全に忘れていた。
自分が不死の存在となったこと。そしてそれに驚き、恐怖する暇もなく殺され続けたことが、彼女の頭の中から「知識」というものを完全に消し飛ばした。知識欲よりも生存本能が優先されたのだ。
「戦うのに必死で、何を教えられたのか全然わからなくて」
「ああ、やっぱりそうですか。いや、実は我々もそうなるんじゃないかなと思っていたのです」
だが真樹の正直な告白に、その試験官は怒る素振りは見せなかった。七日間の訓練の中で真樹が座学を受けたのはその内の三日であり、その全てを彼が担当した。だが彼は自身の教え子がそのような情けない台詞を吐いた後も、菩薩のような柔和な表情を崩さなかった。
「我々も最初から、あなたに全てを把握してもらいたいとは思っておりませんし、強制も致しません。そもそも我々の方が貴女に無理強いをしているのですから、そこまで要求するのは酷というものでしょう」
「じゃあ、なんであんなことを?」
「頭の片隅に置いておいてほしいからです。今は覚えていなくても、いつかふとした拍子に思い出すかもしれませんからね」
真っ白な部屋の中、椅子に座った男が淡々と答える。真樹はそこで初めて身を起こし、男の顔を正面から見つめる。
褐色の肌と禿頭が特徴の、若い男だった。そして真樹は、この男に少なからず親近感を抱いていた。いきなり違う世界に放り込まれ、右も左もわからなかった自分に、この男はあれこれと良くしてくれたからだ。
「まあ、習うより慣れろです。前にも説明した通り、貴女にはこれから魔界に降りてもらいます。彼らと共に行動し、彼らの暴走を未然に防いでいただきたいのです」
その真樹の顔を見返しながら、男が静かに告げる。不思議なことに、真樹はそれについてはよく覚えていた。
暴走し、人間界で猛威を振るう魔物は、決まって魔界からやってきている。ならばそれらが人間界に来る前に鎮めてしまえばいい。だから不死身の勇者を魔界に送り、事が大きくなる前に沈静化させる。それが小坂真樹を魔界に送り込む理由である。
「どうか覚えておいていただきたいのは、我々は決して厄介払いのつもりで貴女を魔界に追いやるのでは無いということです。今人間と魔物の関係は、この暴走の件によって微妙な位置にあります。そしてこれ以上両者の関係を悪化させないためにも、荒れ狂う魔物を水際で鎮め、実被害を増やさないようにしなければならないのです」
男が念を押すように告げる。真樹はそれに関して特に不愉快に思ったりはしなかった。彼らの言う魔界がどのような場所なのか、全く見当がついていなかったからだ。
「そしてこれ以上の人的損害を出す訳にもいかないから、不死身の私を送ることにした。そういうことですよね?」
「……そうです」
真樹の問いかけに男が答える。その声はどこか苦々しげだった。自分達の都合で真樹を振り回している事を快く思っていないのだろう。
もちろん真樹は、自分がここの世界の住人から「体のいい消耗品」扱いをされている事を知っていた。そもそもそういう表現を使って、この世界での自分の立ち位置を簡潔に説明してくれたのは、目の前に座っているこの男だ。彼は口当たりのいい言葉で誤魔化すことはせず、直球に真樹の立場を説明したのであった。
「でも私、感謝してるんですよ? あなたがちゃんと本当の事を言ってくれたから、私も覚悟を決める事が出来たんです」
しかし真樹は、それについても過剰に弾劾したりはしなかった。確かに道具扱いされている事を知った時は少なからず苛立ちを覚えたが、それもすぐに引いていった。目の前でそれを告げた男が本気で苦悩し、そのことに対して良心の呵責に苛まれているのを知ったからだ。
「それにあなた、良い人そうですし。あなたの事なら信じられるかなって思ったりしましたし」
そんな「良い人」が困っている。放ってはおけない。
真樹はお人好しであった。
「そんなぼんやりな理由で? 私を信用すると?」
「ええ」
本当は死にすぎて脳味噌が腐って、正常な判断が出来なくなっているだけなのかもしれない。だが例えそうだとしても、真樹は困っている人間を無視することは出来なかった。
「ずいぶんとお人好しなのですね」
「言われ慣れてますから」
そしてそう言われたその男は、ただ困ったように笑うしかなかった。
真樹はその後、男から今後の予定について聞かされた。といっても、特別複雑なものは何も無かった。
「これから魔王に会って、その人と一緒に魔界に向かう。それでいいんでしたっけ?」
「はい。そんな感じです。それと魔王様も既にこちらに来ております。我々から出向く必要はありません」
それを聞いて、真樹は納得して頷いた。しかし彼女はすぐに一つの疑問を抱き、即座にそれを男に尋ねた。
「私はここから出なくていいんですか?」
「はい。この城から外に出る必要はありません」
「外の人達はここに勇者が来てるって事は知ってるんですか?」
「そうです。というよりも、こちらが公式に発表するずっと前から、もう情報が漏れていましたね」
「そうなんですか?」
「話したがりはどこにでもいるって事ですよ」
人の口に戸は立てられないと言うことか。真樹は妙に納得出来た。その真樹に向けて、続けて男が口を開く。
「変に騒がれたくない、というのが我々の正直な意見なのです。前にも話しましたが、一般大衆は魔物の存在を恐れている。ここで貴女を彼らの面前に出してしまえば、彼らは意気揚々と貴女に頼み事をしてくるでしょう」
「勇者なら何でもしてくれる。そういうことですか?」
「彼らはそう思っています。ですが我々は、この世界の問題全てを貴女に押しつけようとは思っておりません」
「つまり?」
「貴女にいらぬ負担はかけたくない。それが我々救世協会の総意なのです」
救世協会。今問題となっている魔物の暴走問題を解決するために組織された人魔合同機関。そして真樹をこの世界に召喚した張本人。
真樹は彼らに悪感情を抱いてはいなかった。なるようになれとしか思っていなかった。
「ですから貴女には、このまま魔王様に会っていただきます。大々的に民草に顔見せする事もありません。物足りないと思うかも知れませんが、どうかご容赦を」
椅子に座ったまま、男が軽く頭を下げる。真樹はすぐに「そんな事思ってませんよ」と否定し、そのまま男に話しかけた。
「それより、早くその魔王様に会いましょうよ。さっきの話が本当なら、待たせたらいけないと思います」
それから彼らは、白い通路を通って城内にある一番広い部屋へと向かった。どうやらここは件の救世協会の所持する建物であり、その証拠に真樹はその道中で色々な人や魔物と遭遇した。
しかし顔を合わせたとしても互いに軽く会釈をするだけであり、必要以上に注目を浴びる事は無かった。
「どうも」
「ど、どうも」
非常に淡々としたやりとりだった。取り囲まれてベタベタされない分、真樹は気が楽だった。しかしその一方で、彼女はどことなく物足りなさも感じていた。
「ここです。こちらに例の魔王様がお待ちしております」
やがて二人は一つの扉の前に到着し、男がその扉を押し開ける。中は非常に大きく、大理石で作られたかのように壁も床も天井も真っ白に染められていた。
ただしそこに入った真樹はまずそこの「広さ」に気を取られた。そして周りを見回しながら「体育館みたい」と率直な感想を漏らした。
「良く来たな」
そして彼らの眼前には、溶岩にまみれた四足歩行の獣が鎮座していた。その獣は巨大で、熱く煮えたぎる背中が天井に接触せんとしていた。
「ほう、貴様が勇者か。いきなりで困惑しているとは思うが、よろしく頼む」
体から溶岩と息の詰まる程の存在感を垂れ流しながら、獣が口を開いて真樹に話しかける。仰々しい見た目に反して口調は柔らかく、真樹はその外見と中身のギャップに軽く面食らった。
「こちらの方が、火の地を治める魔王様の一人です。これから貴女には、彼と共に魔界に降りてもらいます」
真樹の横にいたスキンヘッドの男が、その獣を手で指しながら軽く紹介する。色々な意味で驚いていた真樹は、それを聞いて思い出したように頭を下げた。
「よ、よろしくお願いします」
「うむ」
溶岩の獣も小さく頷いた。真樹は顔を上げ、その獣をじっと見つめた。
巨大な獣だった。そして見るからに恐ろしかった。件の訓練の一環で行われた「百回連続八つ裂き体験」で死ぬことにすっかり慣れた真樹も、恐怖という感情を完全に忘れ去る事は出来なかった。
「それで、この後はどうすれば?」
それから真樹は紹介された「火の魔王」を見つめたまま、横の男に話しかけた。男はそれには何も答えず、自分も魔王の方を向いて小さく頷いた。
魔王がそれを見て、何かを察したように頷き返す。それから脚を畳んで腹を床につけ、おもむろに口を大きく開いて見せた。
「さ、入って」
その耳まで裂ける程に大きく開かれた口を見ながら、男が平然と言ってのける。真樹は目を剥いて男を見返した。
「は?」
「魔界のゲートは強大な魔力によって構成されているのです。もしも魔術に精通していない普通の人間が潜ろうとすれば、そこを跨いだ瞬間消し炭になるでしょう」
「だから、こちらの人に助けてもらおうって事ですか?」
「そうです。大丈夫、ちょっと熱いだけですよ」
男は何でもない事のように言ってのけた。真樹は顔をしかめたが、男も魔王も真剣な眼差しを彼女に向けていた。
それから暫くは無言のやりとりが続けられた。しかし結局、真樹が先に折れた。
「わかりましたよ。入りますよ」
「そうですか。それは良かった」
男はとても嬉しそうに頬をほころばせた。それから真樹は男から視線を逸らし、なおも口を開けたままの獣の魔王へと意識を移した。
「じゃ、じゃあ、おじゃまします……」
そして真樹は躊躇いがちに、獣の口内へと進んでいった。口の中も外と同じように溶岩に満ちており、一歩近づく度に奥から吹く熱気が真樹の体を撫でていく。よく見れば煙も立っている。
魔王の口は煮えたぎっていた。
「これ本当に大丈夫なんですかね?」
真樹はだんだん不安になってきた。誰も何も言わず、真樹の不安はさらに高まっていった。
しかしここまで来て、足を止める訳にもいかない。真樹は意を決して歩を進め、やがて獣の口の一歩手前までやってきた。
口内に足を入れる。足が沈み込み、赤熱したマグマが足首まで包む。靴は履いていたが、熱さは微塵も感じられなかった。
「あれ? 結構平気かも?」
自分が不死身だからなのか。死にすぎて感覚が鈍くなってきているだけなのか。いずれにしろ、足を包むドロドロの溶岩から熱さや痛みは感じられなかった。
行けるかもしれない。気が楽になった真樹はすぐにもう片方の足も口内に移し、全身を口の中に進める。
痛くも痒くもない。これは驚きだ。
「すごい。こんな体験初めて……」
しかし喜ぶ真樹がそこまで言った所で、魔王は唐突に口を閉じた。真樹の声は聞こえなくなり、魔王は口を閉じたままゆっくりと立ち上がった。
「では、お願いしますね」
男が真顔で頼み込む。魔王は無言で頷き、体から落とした溶岩で足下の床を溶かし、その下へと沈んでいった。
彼が床に開けた大穴は、そのまま魔界へ繋がるゲートになっていたのだ。そして魔王が完全に姿を消した後、その穴も男の眼前で塞がっていき、数秒もしない内にそこはいつもの白い床へと戻っていた。
なおこの間、小坂真樹は魔王の口内で五回体を溶かされた。
熱くないと思ったのは最初だけだったのだ。




