一月目 其の二 今ここに俺が来なかった?③
「では第三問」
「二問目の時、後一問だけとか言ってなかったか?」
「そうだった。ではやめようかな」
「すまん悪かったよ。是非続けてくれ」
「意地悪してごめんなさいね。それでは歩きながら考えましょうか」
先に意地の悪いことを言ったのはこちらだが、慧乃は謝って再び登山道を歩き始める。
小さな家屋が幾つか並ぶ道にさしかかり、慧乃は「こっち」と山頂と示された標識の立つ道を示した。
いよいよ登山らしくなってきた。
坂道は石段で、舗装されてはいるが所々で土がむき出しになっており、高低差も出てきた。ここに来てようやくジーンズはまずかったかも知れないと考え始めた。
「では第三問。さっきの女の子は誰でしょう」
「そうきたか」
女の子は誰か。突拍子もない質問のようだが、今までこの山で起こった現象を鑑みると、この質問は無意味ではなさそうだ。
登山道を歩きつつ、黙って先程の女の子について思考を巡らせた。
「君のそのしかめっ面もだいぶ見飽きてきたよ」
唐突に慧乃が口を開く。
「どうしろって言うんだよ」
「折角二人いるのだから、一緒に考えましょうよ。答えなんて、私にも分からないのだから」
「答えが分からないって、どうやって答え合わせするつもりだったんだよ」
「答えなんて、合うときは合うものだよ。それよりねえ、何か私にききたいことはないかな? 是非いろいろきいて欲しいよ」
一緒に考えようとはそういうことか。何にせよいくつか気になることがあった。
論理を頭の中で組み立てようと慧乃への質問を吟味――しようとしたが、慧乃がキラキラと輝く鳶色の瞳で人の顔をせわしなくのぞき込んでくるので、仕方なく口を開いた。
「さっきの女の子、お前の呪いはカウントされたのか?」
「されなかったね」
待ってました! と言わんばかりの即答であった。
「以前会ったことは?」
「ないね」
次の質問にも即答される。
しかしそうなるとつまりどういうことだ? あの女の子と慧乃は初対面。しかし慧乃の呪いは女の子をカウントしない。そして女の子は――
「ねえねえ」
「何だよ」
袖を引かれ振り向くと、そこにはふくれっ面をした慧乃の顔があった。
「君はあれだね、とりあえず自分の中だけで考えてしまう癖があるね」
どうも黙って考え込んでいたことがお気に召さなかったらしい。
「悪いかよ」
「悪くはないよ。でもどうせなら気になったことを話して貰えると嬉しいな」
からかっているのだろう。慧乃は子供っぽく笑ってそう言った。
「じゃあ話そう」
「よろしくお願いするよ」
慧乃は耳を傾け話すのを待っている。あまり待たせるとうるさそうだ。まるで先は見えないが、とにかく気になったことを言葉にしてみよう。
「女の子の呪いは、予想した二人の男の呪いと一致していた」
「そうだね。そうなるねえ」
「慧乃は女の子との面識はないが、慧乃の呪いは女の子をカウントしなかった」
「簡単に言うとそうなるね」
「もし二人の男と女の子が同じ呪いだとしたら――あの三人が同一人物だとするのなら説明は付くのかも知れない」
「そうだね」
「――だが、あの三人が同一人物だとはとても思えない」
「一つ良いかい?」
「何でもきいてくれ」
慧乃が言葉を遮り指を一本ぴんっと立てて尋ねるので頷いた。どうせ行き詰まってこれ以上思考は進みそうになかったので、慧乃の質問はありがたかった。
「何故君は三人が同一人物ではないと思うのかな?」
「何故って……。一人目と二人目の男は、年も性格も違った。三人目の女の子に至ってはそもそも性別が違うんだ。どう考えたって同一人物じゃあないだろう」
「ふむ」
慧乃は頷き、考えを咀嚼しているらしく少し待ってねと口にすると、本当に短い間だけ目を閉じて、直ぐにぱっと開くと同時に言葉を発した。
「君は女の子になったことはないの?」
突拍子もない、質問の意味を理解するのさえ本能が拒絶するレベルのおぞましい質問が飛んできた。
こいつは何だ。一体何を考えているんだ。もしかして今まで話していたこの女は、相当頭の逝ったやばい奴だったのか!?
「君は時々、酷い目で人を見る癖があるね」
「お前が意味の分からないことを尋ねるからだ」
「あれ? そうかな? そんなにおかしな事をきいたかい?」
自覚がないのだろうか? こいつ、もしかしたら本物かも知れない。
「だからその目は酷いよ。傷つくなぁ……」
非難の目で睨み返してくるが、こちらは至って普通の対応をしただけだ。それは逆恨みという奴に他ならない。
「ならきくが、お前は男だったことがあるのか?」
そっくりそのまま返してやった。この質問に慧乃が何と答えるのか、少し楽しみでもあった。
「私は末っ子で、女の子は私だけだったからね。そりゃあ――」
途中で口を閉じ、慧乃は黙り込んでしまった。
「おい、何故途中でやめる」
「向こうの方を見てごらんよ。彼が来るまでにどうするのか、考えを決めるべきではないのかな?」
慧乃の視線を追いかけると、その先に一人の男がいた。
若い、黒髪の男だった。細い体で、学校の制服だろうか、半袖のワイシャツにスラックスと、とても登山をするとは思えない格好をしていた。
しかしそれより目を引いたのは、この男、先程出会った二人の男――特に最初にあった男とよく似ていたのだ。まるで、彼の数年前の姿をそのまま現しているような気さえした。
「ね、どうしようか」
「例の奴、頼めるか? カウントされないようなら教えてくれ」
「任せて」
男は俯いたまま、山道をゆっくりと下ってきた。
慧乃は大きな岩の上に立ち、胡散臭い決めポーズをとって男を待ち構える。
何も知らない男が慧乃の立つ岩の前に差し掛かったとき、慧乃が不敵な笑みを浮かべ奇妙な高笑いをしながら岩から飛び降りて男の目の前へ舞い降りると、またもやよく分からないポーズを決めて、叫んだ。
「ここを通りたければ、この私を倒してからにすることだな!」
開幕数秒でやられそうな、噛ませ犬的な雑魚キャラを演じきっていた。――っていうか台詞は微妙にアレンジしても大丈夫なんだな、それ。
それでも男の方は戸惑い、その場で足を止めてしまった。
決めポーズのまま静止していた慧乃が、こちらに片目を向けて合図を送ってくる。
それを見て、男へと歩み寄り声をかけた。
「連れが迷惑をかけてすまなかったな。見ての通り、こいつは頭がおかしいんだ」
「えー、酷いなー。傷つくなぁ」
「えーっと、通っても?」
びくびくとしながら尋ねる男に、もちろん、と返した上で付け加える。
「でもその前に、少し見て欲しいものがある」
「急いでるんだけどな」
「直ぐ終わるさ。あの木の上なんだが――」
近くにあった木を指差すと、男は顔を上げて木のてっぺんを見つめる。
「何も見えないけどっぁ――」
隙だらけの腹部に一発入れ、その場で無事卒倒させることに成功した。
倒れ込む体を支え、頭を打たないように柔らかい土の上へと体を寝かせる。
「――何てことするの! 犯罪だよ!」
「こいつのためさ」
横たわる男をつま先で示す。
「私がどうするべきか考えようって言ったのは、何をきくべきか考えようって意味だったの。それをまさかいきなり暴力沙汰だなんて」
「まあまあ、細かいことは良いじゃないか」
「細かいかなあ……。それで、その人をどうするつもり?」
「いや、次に来たこいつに渡してやろうかと。そしたらきっと、何かが起こるだろう」
「そういうことか。でも来るかな」
「何、たぶん来るだろ」
確証なんて何もないはずだが、絶対に次がやってくるという妙な自信があった。
そして少しすると、山の上の方から男が大股で登山道を下ってきた。
がたいの良い大男だ。がっしりとした体つきに迷彩服を着ていたので、どこぞの軍人か何かとも思ったが、やはりよく見るとその顔立ちには見覚えがあった。
「慧乃、一応頼む」
「任せといて」
慧乃は屈強な男相手でも尻込むことなく、登山道の真ん中で仁王立ちをして待ち構えた。
「ここを通りたければ、この私を倒してからにすることね!」
「おお、元気の良い嬢ちゃんだな」
老け顔の男は大きく口を開いて豪快に笑って見せた。慧乃も微笑んで、それはどうもと頭を下げる。慧乃の視線がこちらを向いたのを確認して、いよいよ男に声をかける。
「なああんた、自分とか探してないか?」
「よく分かったな。しばらく探してはいるんだが、どうにも見つからなくて困ってるところだ」
「そりゃあ大変だな。ところで、さっきこんなのを見つけたんだが、いるかい?」
地面に寝かしてあった男を視線で示すと、男は手を打って喜んだ。
「おお! 良く捕まえてくれたな! いや本当に助かったよ」
「いいってことよ」
男は黄色い歯を見せて笑ってから重ねて礼を述べ、倒れていた男を抱きかかえた。
すると不思議なことに、二人の男の境界に光が溢れ、新しい線が繋がったかと思うといつの間にやらそこには一人の男が佇んでいた。
その男は先程殴り倒した男とも、今し方やってきた迷彩服の男とも違う男だったが、服の柄は不自然に一つとなり、体つきも顔つきも、両者の中間くらいの至って普通な男となっていた。
この男は初めて見るが、しかしそれでも共通していた二人の特徴はしっかりと残していた。
「えーっと……」
想像を遙かに超える事象が目の前で繰り広げられたため、言葉を失い男の様子を頭の先から足の先まで観察する。
「ありがとう。おかげで助かったよ」
男が微笑んで丁寧に礼を述べるので、こちらとしても頭を下げない訳にもいかず、先程は悪いことをしたと深々と謝った。
「いえ、こうして自分が見つかったからいいんです」
「そう言って貰えるとありがたい。ああ、そういえばまだ何人か、同じように自分を探している人間と会っているんだ。もし会いたいのなら、急いで下山することを勧めるね」
「そうですね。何から何まで本当にありがとう。自分を探しに出発したいと思いますので、名残惜しいですがこれで失礼しますね」
またもや深く頭を下げると、男は足早に登山道を下っていった。
慧乃と二人、しばらくその場で男を見送っていたが、慧乃はどうも何か気がかりなことがある様子で、下唇に指を当て思案に暮れていた。
「どうした?」
声をかけると、笑顔を作り振り向く。
「いやね、気になることがあって」
「気になること? 今ので全部分かったじゃないか。さっきの――つまり山の中に何人かいる自分を探し出してああやって捕まえては合体していく。最終的に一人の自分が完成すれば無事に呪い解除。そういう呪いなんだろう」
「そうかなぁ……。そういう話とは違う気がするのだけれど」
「他に考えようがないじゃないか。何がそんなに気になるんだ?」
「うーん、そうだねぇ。君の案だと、例えば私たちの出会った三人目。あの可愛らしい女の子は一体どうなるのかな?」
慧乃の言葉で女の子の存在を思い出した。どうなるのか――どうなるんだ?
いや、出会った比率的に男四の女一だ。女があの子一人だけだとすれば、徐々に女の子の成分が薄まって――何てことがあるのだろうか。男一女一で合体してしまった日にはどんなことになってしまうのやら――――
「……考えない方が良いってこともあるさ」
これ以上、あの男の問題についてあれこれ考える事もないだろう。山の中に何人いるか分からない自分を探していくのは骨が折れるだろうが、それがあいつの呪いだとしたら結局は自分で何とかするしかないじゃないか。
「そうだ。第四問、いいかな?」
だが、慧乃は未だ納得していないようだ。
こちらの返答が「考えない方が良い」という答えにもならないものだったのだから仕方のないことなのかも知れないが、慧乃は一体何がそんなに気がかりなのだろうか。
何故慧乃があの男の呪いにこだわるのか。男の呪いより慧乃の興味の対象が気になって、慧乃の問いを自然と了承していた。
「どうせ暇だし、ここまで来たんだ。最後まで付き合ってやるよ」
「君ならそう言ってくれると信じていたよ。どうもありがとう」
「礼を言われるようなことじゃない」
「それでもありがとうさ。では第四問」
親指を折った、四本の真白な指をぴんっと立てた手が真っ直ぐ突き出された。
「ひとまず、さっきの人は男の人として話を進めるね」
「ああ、構わない」
一つそんな前置きをしてから、慧乃が第四の問いを口にした。
「本物の彼はどんな人でしょう」
――本物の彼……?
「申し訳ない。どういうことだ?」
尋ねると、慧乃は順を追って答えてくれた。
「そうだね。君の説だと、最初、というよりは呪いにかかる前、彼はもともと一人だった。だけれど呪いにかかってしまい何人かに分裂。それらを探し出すのが彼の目的――つまりは人成山の中での自分探し、ということになるのでしょう?」
「んー、そうなるな」
少し迷ったが概ね合っているだろうと肯定の意を示す。
「となると、自分を探す、主体の自分は何処にあるのかなって思ったの」
「主体の自分?」
「さっきの表現を借りるのであれば本物の彼だね。自分を捜し求める、彼という一人の人間は一体どんな人物なのだろう」
そこまで説明されてようやく見えてきた慧乃の質問の意味――ではなく、慧乃が質問を通して何が知りたかったのか――慧乃という人間がどういう存在なのかが、何となくつかめた気がした。
慧乃は、男の呪いに興味があったわけではなかったのだ。
こいつがずっと気にしていたのは、呪いの先、もしくは後。呪いにかかる前の、または解いた後の、一人の男の事だったのだ。
その男がどんな人物なのか。慧乃がひたすらに考えていたのは常にそれだった。だから男の呪いについてばかり考えていては話が時折噛み合わなくなってしまう。
思い返してみれば、慧乃の第一問はどちらがルパンか? だった。
この問いにどちらも違うと答えたら慧乃は正解を言い渡した。どちらも彼という男で有り、ルパンなどではない。これはきっと、彼が実在する人物であることを確認したかったのだろう。だから慧乃は正解を出した。
二問目はあの人の呪いは何か、だった。
この問いに対して、呪いを解くのにどうしたら良いのかという点を考えてしまった。
これは推測に過ぎないが、慧乃は恐らく、彼が今の状態をどうして条件を満たしてまで脱したいのかを考えていたのだろう。
三問目は、あの女の子は誰か――突拍子もない質問のように思えたが、今改めて考えてみるとどうだろうか。先程は明確な答えを出すことが出来なかったが、今考えてみたら答えを出せるのだろうか。
彼の分身、だけど女の子。――この矛盾は何を意味するのか。
……やはり少し考えた程度では見えてこない。男でもあり、女でもある。両性具有や女装癖、ニューハーフ等々の間の抜けた解答では慧乃は答えとして認めないだろう。
相反する二つの物が同時に存在する――これが意味するところを慧乃は問いたかった。
そしてその答えは、男の呪いに対して確かに大きな意味を持っていたのだろう。
この問題は保留して、今の第四問目。本物の彼はどんな人か――。
この問いに、何と答えたら慧乃は納得するのだろうか? そしてあるとしたらその答えは、今までの全ての問いに対する答えとなり得るのだろうか?
だとしても――いや、だからこそ、今の質問に対する答えを出すことは出来なかった。
「おーい」
気がつくと目と鼻の先に慧乃の顔があり、大きな鳶色の瞳でこちらを見つめていた。
慌てて後ずさりして、ようやく足を止めて考え込んでしまっていたことに気がついた。
「また君はそうやって一人で考える」
慧乃はむくれた表情を浮かべる。
「お前こそ、一人でいろいろ考えていたみたいじゃないか」
恐らく今の返答は、慧乃から見たらだいぶ機嫌が悪いように映っただろう。
事実、慧乃の質問の本質に今の今まで気がつけなかった自分に対して、少しばかり腹を立てていた。
慧乃はそんなことなど気づかなかったのか、気づいた上で気にしないことにしたのか定かではないが、いつもの調子で微笑んで、
「そんなことはないと思うけどな」
なんて言ってのけた。
「なあ慧乃。四問目にはどうも答えを出せそうもないんだが、お前は答えを出しているのか?」
登山を再開し、単刀直入にそう尋ねると、慧乃はほんのり顔を赤らめて答えた。
「言ったでしょう。私にも答えは分からないって」
「そういえば言ってたな……。だが――」
「だけれど、答えを出すお手伝いくらいなら出来るかも知れない」
お節介と思われるかも知れないけどね、なんて付け足して恥ずかしそうに笑う。
「そういう訳だから、君にいくつか質問しても良いかな? つまらない質問だから、あまり深く考えずにぱっと答えてくれると嬉しいのだけれど」
「……最善を尽くす」
今まで一人で考え込んでいたことを責められたような気がして、視線を逸らして答えたが、慧乃は満面の笑みを浮かべて小走りで木の階段を登っていった。
早歩きになって着いていくと、階段の先、開けた場所で切り株へとタオルを敷いて、そこへと腰を下ろして待っていた。
示されるがまま隣の切り株に座り、出題を待つ。
「えーっと、どうしようかな。こうして面と向かっていると話しづらいね」
「道の真ん中で仁王立ちして叫んでる奴の台詞じゃないぞそれ」
「言われてみればその通りだね。それではとりあえずきくけれど、君は自分探しの旅をしたことがあるかい?」
「ない」
要望通り深く考えず即答する。慧乃も満足したようで、直ぐに次の質問を口にした。
「それはどうして?」
「必要ないから」
本当に何も考えなかったが、慧乃は解答をいたく気に入ったらしく、それはそうだ! と手を打って笑った。
「なら、どんなときなら必要かな?」
笑いを飲み込んだ慧乃が次の質問をする。
――どんなとき?
ああ駄目だ。やはり考えてしまう。
「君の言葉で良いよ。ゆっくりで良いから答えて欲しいな」
考えを少しだけまとめ、とりあえず口に出し、後は喋りながら考えた。
「どんなとき――自分を見失う……例えばだな、自分が、やろうとしていること――いや自分がしていることが、なんだか分からなくなったとき、とか?」
「答えてくれてありがとう。それで、そんなとき、君はどうやって自分を探すのかな?」
どうやって……。自分を探す方法――自分探しの旅……。
多くの人が自分探しに向かう先は何処なのだろうか、何処へ行けば答えが――見失った自分が見つかるのだろうか。自分を見失ったとき、そのときの自分は、一体――――
「考えているねぇ」
俯いて考え込んでいると慧乃が人の顔をのぞき込むようにして声をかけてきた。鳶色の瞳が眼前に迫っていて、思わず顔を上げ視線を逸らす。
「ちょっとくらい解答に時間をくれても良いじゃないか」
「私は君の答えをしっかり受け取ったよ。確かに、君らしい良い答えだった」
「待て待て、まだ答えは出していない」
「そんなことはないと思うけどな」
慧乃は立ち上がり、敷いていたタオルを払うと丁寧に畳んでポーチへとしまい、それ以上の解答を許してはくれなかった。
仕方なく腰を上げ、しかしそれでもなお慧乃の質問が気になり、こちらから尋ねた。
「お前は自分を探したりするのか?」
慧乃が長い髪をふんわりと揺らして振り向く。
「あるよ。この山に来たばかりの頃かな。今まで私が経験したことないことばかりで、つい自分を見失ってしまってね」
ああそうだろうとも。たぶん今、そのときの慧乃と同じ気持ちをしているのだろう。
だからこそ、どうしても尋ねてみたいことがあった。
「それで、自分は見つかったのか?」
「うん。見つけたよ」
慧乃の答えに迷いはない。
その鳶色の美しい大きな瞳に、しかめっ面をした男の顔を大きく映して、しっかりとそう言ってのけた。
だけれどもすぐに顔を逸らして、照れた様子で髪の先を細長い指でいじりながら、「でもたまに、どこかに行ってしまうこともあるけどね」と付け足した。
何も言わずにいると、慧乃は続けて話し始めた。
「私はこの山に来て、本当に良かったって思うよ」
「呪われているのにか?」
皮肉のつもりだったが、慧乃はそんなこと気にも留めずに微笑んで見せた。
「呪われていてもだよ」
「ポジティブに考えれば良いってもんじゃないと思う」
「あはは、ポジティブとは違うよ。だいたい、呪いだなんて言葉を使うから嫌な物だと先入観を植え付けられてしまうのさ」
そうやって笑い飛ばした慧乃に、思わず呪いでないなら何なんだと尋ねると、
「――そうだね。私にとっては、私の事を思ってくれている人からの大切なお告げだよ」
なんて答えるのだ。
本気でそう思っているのだろうか? 十月十日の間人成山に登り続けなければ一生童貞――なんて呪いが誰かからのお告げだとしたならば、そいつはこの苦行を通すことで一体何を期待しているのだろうか。嫌がらせ以外の何物にも思えないし、もし呪いをかけた奴を見つけられたのならば、地獄の果てまで追いかけて七、八〇発ほど殴ってやりたい。
「さあ、行こうか」