一月目 其の二 今ここに俺が来なかった?①
「さっきのは一体どういった仕組みなのかな?」
「そんなのこっちが教えて欲しい」
興味津々に尋ねてくる慧乃に対して不機嫌そうに見えるよう精一杯顔をしかめて返したものの、その程度では慧乃の好奇心が削がれるはずもなく、並んで歩きながら再び話しかけてきた。
「ということは君の呪いと関係があるわけだね。確かドウテーが卒業できない呪いだったね。つまり、君はそのドウテーを卒業してしまいそうな行いをしたということだろう? しかし妙だね。卒業するというのはどういう意味なのだろう。ドウテーというのは修まったり卒業したり出来るものなのかな?」
「一つだけ言っておくが表で口にしていい単語じゃないからな」
釘を刺しておくと、慧乃は瞳を見開いて、真直ぐにこちらの顔を見つめた。
「それはどういう意味かな?」
答えたくない。
とにかくもう一度釘を刺して、この女が馬鹿な考えを起こさないよう祈ることにした。
「とにかく余所でその話をするんじゃない。軽々しく口にしていい言葉じゃないんだ」
「なんだか答えづらいことをきいてしまったようだね。悪かったよ」
分かれば良いんだ、と小さく呟いて、隣を歩く慧乃の女性らしい魅力の欠片もない胸を凝視する。当然目の奥が痛むこともないし、視力も低下しない。今のところ、こいつに対して呪いは発動しなくなっているようだ。
「そう言って貰えると安心だよ。では遠慮なく山頂までお供させて貰おうかな」
「ああ、是非頼むよ」
初めて訪れる呪いの山で、山に詳しい人間がいるのは心強い。
そんな縁で慧乃と二人山頂を目指すことになった。
慧乃の後ろに続いて、石畳の敷かれた緩やかな傾斜の道を歩く。新緑の合間から差す、暖かく柔らかい光に照らされて、前を行く慧乃の髪が優しく輝いていた。
しかしどうもただ歩くだけというのも退屈だ。
ふと思い出したことがあり、慧乃の背中に声をかけた。
「なあ慧乃。お前、姉妹はいるか?」
「姉妹はいないなぁ。兄ならいるのだけれど」
「じゃあお前によく似た親戚とかはどうだ?」
「どうかな。従姉妹の子とよく似ていると言われていたけれど、あの子はまだ小学生だからね」
「ふーん。そうか」
分かっちゃいたことだが慧乃と病院の女はまるで関係がないようだ。
「何か気になることがあったのかな?」
「些細なことだ。この呪いをかけた女が、お前に似ていたんだ」
「へえ。そんなこともあるのだねえ。ところで私に似ているというのは、具体的にどれくらい似ていたのかな?」
興味をひかれたらしく、歩幅を落とし並んで歩きながら尋ねてきた。
「見た目だけなら本当に瓜二つだと思う。性格の方はあまりに違いすぎるが」
「性格かあ。どんな子だったの?」
「引っ込み思案で大人しい奴だった」
「あら、私とそっくりじゃない」
「何だって?」
一瞬耳がおかしくなったのかと疑ったがそうではないらしい。
しかし一体どの口がそんな出任せを言うのか――いやどうも本気のようだ。表情がそう語っている。だとしたら今一度、自分という人間がどんな人間なのかをしっかり見つめ直して知った方が良いと思う。
「うちは女の子が私だけだったからね。妙に大切に扱われたもので、外出すらなかなかさせてもらえなかったの」
「へー」
何やら語り始めた慧乃に空返事をすると、それを続けても構わないと慧乃は受け取ったようでそのまま話を続けた。
「父が亡くなったときに呪いをかけられたって話したでしょう? そのときに家を出ようって決意して人成山に来たの。家族からは反対されたけれど、今は来て良かったって思ってる。いろいろな経験が出来たからね」
話し終えると実に満足そうな表情でこちらを見つめてくる。
「で、その話とお前が引っ込み思案で大人しいなんていう妄言と一体どんな関係があるって言うんだ? 是非教えて欲しいものだね」
「妄言とは、酷い言われようだね」
言葉とは裏腹に、相変わらずその表情はどこか嬉しそうだった。
「短い期間だけれどね、この山に来てから変わったの。信じられないかも知れないけれど、来たばかりの頃はあの台詞を口にすることはおろか、人前に出ることさえ難しかったのだから」
「まるで信じられない」
素直に思ったままの感想を述べると、慧乃は小さく笑って「そういう顔してる」と返した。全く悪意のない笑みに、どうしてこんな表情が出来るのかと不思議に思う。
「あら」
突然、慧乃が左手で行く手を遮るとその場で立ち止まった。
どうした? と尋ねようとしたが、慧乃の視線の先を追いかけると直ぐに理解できた。
前方――山の上の方から男が一人、こちらへ向かって来ていたのだ。
目を凝らし、遠目に男の様子を確認する。
若干年上だろうか。黒髪に黒縁の眼鏡。ワイシャツにスラックスという服装で足下は革靴と、とても山登りに来たとは思えない格好だ。まああまり他人のことをとやかく言える格好でもないんだが……。
「あれ、やるんだろうな」
「ええもちろん。私の呪い、一度やった人相手だとカウントされないから初対面の人は積極的に狙っていかないと」
カウント? 気になったが、慧乃が道の真ん中で杖をつき、もう片方の手を腰に当て、すっかり道中の中ボスに成り切っていたので下がって距離をとった。
何も知らない男が近づいてくる。男の視線は自らの足下へ向いているため、道のど真ん中に立つ慧乃に気がついていない。
男はそのまま、慧乃の間近まで迫った。
慧乃が口元に、鋭い笑みを浮かべたのが見えた。
「ここを通りたければ、この私を倒してからにすることね!」
胸を一杯に張り、声を響かせた慧乃。
背筋をピンと伸ばし、斜め上から見下ろすような視線を男に対して向けているつもりなのであろうが、実際斜面の上の方に立つ男の方が視線は高いし、そもそも男の方が身長は高い。――なんてことを指摘するのは野暮って話なのだろう。慧乃は実際中ボスに成り切っているわけだし。
何にしても、叫ばれた男の方は相当に驚いたようで、後ずさりして顔にはどうしたら良いのか分からないという不安の色を浮かべていた。
普通こうなるよな、と慧乃と初めて出会ったときのことを思い出す。
「えーっと……」
人が嫌いそうな、おどおどとした眼で突然現れた変な女を見る男。気持ちは分かる。どう考えてもこの女は危ないと考えているのだろう。
慧乃も凍り付いてしまった場の空気に感づいたのか道の脇にどいて立ち尽くす男に声をかけた。
「ごめんなさいね。ご協力どうもありがとう。通っても良いよ」
男はそれで慧乃が真性の変人ではないと理解できたようだが、それでも恐る恐る慧乃の脇を通り過ぎた。
通りすがりに男が「そういう呪いか」と小さく口にしたのがきこえた。
下山していく男の背中を見送って、小走りで慧乃の元へと駆け寄る。
「幸先良いわ。午前中に二人だなんて」
「さっきカウントとか言ってたが、あれは一体どういう意味なんだ?」
「ああ、私みたいな回数をこなすタイプの呪いはね、条件が満たされると教えてくれるの」
「教えてくれるって、誰がだ?」
「誰だと思う?」
「分からないからきいているんだ」
「そうでしょうけれど、その問いに私は答えを出せない――出せたとしても、君の求める答えにはならないでしょうね」
一体どういうことか、重ねて尋ねようとしたが、きっと慧乃にも分からないことはあるのだろうと勝手に納得することにした。
「ともかく条件を満たすたび、何らかの方法でそれを教えてくれるって認識で良いと思う。私の場合は、この辺りにぴこーんって数字が出るの」
手を空で回して『この辺り』を示す。随分と便利な機能がついた呪いもあるもんだ。この呪いを考えた奴は相当な暇人に違いない。
「確か千人だったか? 今何人目なんだ?」
「今の人で七〇一人目ね。知らなかっただろうけれど実は君、記念すべき七〇〇人目だったの」
「知りたくもなかったよ。にしても結構進んでるんだな。一月くらいしかたってないんだろう?」
「うん。一月と少しって所だね。でも数だけ見れば進んでいても大変なのはこれからかも。なにしろ同じ人は駄目だから、六〇〇人越えてからは随分とゆっくりになったものだわ」
「ああそうか。そうなるのか」
確かに一度やった人間が駄目となると、後半になればなるほど面倒くさくなるだろう。
というかそもそもこの山、千人も人がいるのか? そうは思えないんだが……。いや気にしないでおこう。
「にしても、さっきの男、ずっと下向いてるしお前に対して何も言わないし、目つきも悪いし人見知りかね。単に根暗なのかね」
「人を見た目で判断したら駄目だよ」
そうは言うが、慧乃自身が一体どれだけその見た目に助けられているのか理解出来ないのだろうか。慧乃が美人――というのは大げさとしてもそこそこ可愛い見た目だから今までこうして無事なんじゃないか。だってそうだろう? とんでもない不細工が道の真ん中で「ここを通りたければ――」なんて言い出したらノータイムではっ倒すぞ。
「それにね、いきなり殴ってくる相手よりずっと良いわ」
「違いない」
そこに言及されるとなにも言い返せない。
慧乃が本気で怒っているわけではなく、からかっていると分かっているからこちらもふざけていられるが、そうでなかったら今頃どうなっていたことだろうか。
と、顔を上げて遠くに目をやると、またもや男が一人下山してきていた。
少し年上、それか同い年くらいだろうか。二十代前半くらいのその長身の男は、短い髪を茶色に染めていた。
登山ウェアを着て、背中には大きなザックを担ぎ手にはステッキと、ああ登山をしに来たんだろうなと思う格好だった。
しかしどうだろう。その男、顔立ちや体格が先程の男とよく似ている気がした。
慧乃はこちらに目配せし、再び山道の真ん中に立ちはだかって、例の台詞を口にする準備に入った。無言で後ずさり、慧乃から距離をとる。
今度の男は既に慧乃の存在に気がついているようだ。遠くから慧乃に向かって微笑みかけて、そのままゆっくりと下山してくる。
慧乃も男に対して小さく笑みを返す。
だがいよいよ近づいて、男が慧乃へ声をかけようとした瞬間、慧乃が例の台詞を言い放った。
「ここを通りたければ、この私を倒してからにすることね!」
男は笑いながら、慧乃へ話しかける。
「それは困ったな。どうしても通りたいんだが、お嬢ちゃんを倒さないといけないのかい? 君みたいな美人を倒すのは可能なら御免被りたいね」
爽やかにそんな台詞を口にする男。きざったらしいその台詞は、きいているだけで口元が引きつる。こういう男は嫌いなんだ。
それにしてもどうだろう。こんなにも態度が違うというのに、やはり先程の男とよく似ていると思えて仕方がなかった。
「……」
慧乃は男の台詞に全く反応を示さず、道の真ん中で立ち尽くしていた。
一体どうしたのだろうかと、近寄って声をかける。
「慧乃?」
「あ、あー、通っても良いわ。ごめんなさいね」
慧乃が慌てて対応すると、男は「構いやしないさ」とこれまた爽やかに答えた。
「ねえお嬢さん。一つ尋ねても良いかな?」
「ええ、何でもきいてちょうだい」
慧乃の返答を受けて、男は少し何かを考えるそぶりを見せ、もったいぶらせてから質問を口にした。
「――今ここに俺が来なかった?」