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九色の鹿(くしきのしか)

作者: 屯田水鏡

九色の鹿くしきのしか


足を踏み外したと気付いた時、身体は宙に舞い、真っ逆さまに川の中に落ちて、飛沫を上げて水中に沈んで行きましたが、流れに揉みくちゃにされながらも何とか浮かび上がって、傾いた大木から川の中ほどに垂れ下がった蔦蔓を咄嗟に掴んで懸命にしがみ付いたのでございます。

「山神、樹神、天神、地神、竜神、我を助けたまえ」と、大声で叫び、祈ったのでありますが、男の声は無情にも木々を渡る風と激しく流れる水音に掻き消されるばかりでござりました。例え遥か彼方まで声が響き渡ったと致しましても、何人も滅多に足を踏み入れることの無い奥深い山中でありますから、声を聞きつけて駆け付ける者などがあろうはずがございません。もともとこの男、家に押し入っては殺して財物を奪うことを生業とする盗賊でありましたが、ある時、その所業が発覚して役人に追われ、命からがら山奥に逃げ込んできたばかりでありましたので、自分がどれほどの所に居るのか見当が付くはずもありません。そんな訳でありますので、誰かが助けに来ようなどは思いもよらぬことでございました。その内に男の腕はすっかり感覚が無くなるほど痺れてしまい、もうすぐ力尽きて流されると覚悟を決めた時でありました。流れの中で浮き沈みしている男の視界に入ったのは、岸辺でのんびりと草を食べている鹿の姿でございます。畜生なんぞにすがって頼んでも、それは無駄というものと分かってはおりましたが、そこは、藁にすがりついてでも生きたいという男の執念でございましょうか、あらん限りの声を振り絞って懸命に叫んだのでございます。

「助けてくれ、助けてくれ、そこな鹿よ、我を助けよ」

叫び声を聞きつけた鹿は驚いたように一度大きく飛び跳ねますと、身構えるように身を屈めて、男をじっと見ておりましたが、何度も叫ぶ男の声に、畜生ながら憐憫の情を覚えたのでありましょう、突然、土を蹴って大きく飛び上がると流れの中に飛び込み、上下にうねりながら瞬く間に男の側まで泳ぎ着いて呼びかけたのでした。

「汝、恐れること無かれ、さあ、我が背に乗りて、この角を捕えるが良い。我、汝を背中に負いて陸に付けん」

鹿は男を背負って懸命に急流を泳ぎ渡り、見事に岸にたどり着き、死の淵から男の命を引き上げたのでございます。

九死に一生を得た男は、嬉しさのあまり、涙を流し、手を合わせながら鹿に向かって言うのでした。

「もう、諦めようとした時、あなた様は私の命を長らえさせてくれました。ああ、有難や、この恩に報いるために、私はどうしたら良いのでありましょうか」

鹿はぶるぶると身体を揺すって水を弾き飛ばしましたが、その美しい毛並みは虹色に輝き、白い角は透き通った銀色の光を放ったのでございます。男はその神々しさに打たれたように、我を忘れて見入るばかりでございました。

鹿は厳かに申しました。

「汝が我が恩に報いるというなら、願いはただ一つ、汝は里に下りても、我がこの山に住むことを何人にも決して話さぬと誓うべし。我が身は虹よりも鮮やかな九色に輝き、我が角は雪よりも白く、南蛮より伝わる象牙というものよりも尊き光を放つ。それ故、人は我を見て、皆貪欲の心を起こし、我が毛皮と角を手に入れんと欲して必ず我を殺さんとする。これを恐れるが故に、我はかくのごとく山深く隠れ住むものなり。然るに、草を食む為、川岸に至ったところ、汝が助けを求める声を聞き、汝を憐れむ情、たちまち起こりて、これ神仏の御心ならんと我が身の危うきを厭わず汝を助けしものなり。ゆめゆめ我がことを里人に告げること無かれ」

この時初めて、男は、この鹿こそが遥かな昔から口伝えに語り継がれる、九色の光を放つ鹿であることを知ったのでございます。ですから、なおさら稀有のことと覚えて九色の鹿の前に跪いて手を擦り合わせ、神仏に祈るように何度も礼拝したのでありました。

「もちろんでございますとも、この命をお救い下さった尊きあなた様のことをどうして里人に告げることがありましょうか、天地神明に誓って約束を致しましょう、どうぞご安心ください。万が一契を違えることがあれば即座に天罰が下り、この身はきっと八つ裂きになることでありましょう」と合掌低頭する男の堅い契の言葉を聞いて安堵したのでしょうか「この川を伝って下れば必ずや人里に至るべし」と言い残すと、鹿は穏やかな足取りで森の中へ去って行ったのでございます。

命からがら里に辿り着いた男は、以前から用意していた隠れ家に引き篭ってひっそりと身を潜めて過ごしておりました。なぜと申しますと、これまで行った男の悪行を知っている里人に見つかることを恐れたからであります。ところが、世の人はいつかこの男のことを忘れ去っておりました。安堵した男は次第に大手を振って里を自由に闊歩するようになったのでございます。

やがて、若い女と懇ろになったのでございます。女が受領の館で端女として奉公していることを知ると、いや、如才無くまた抜け目のない男のことでございますから、受領のもとで働く女に狙いをつけたに違いありますまい、恐らく言葉巧みに女に働きかけことでありましょう。男もまた女の口利きで受領の館で下僕として働くことになったのでございます。男にとって受領の館はこの上ない隠れ家となったのであります。この男女、館の中で褥を一つにするようになりましたが、互いに贅沢が好きで、高価な衣をまとい、美味なるものを喰らって大酒を飲んで暮らすうちに、蓄えた男の財は瞬く間に消え失せたのでございます。贅沢の味を一度知ってしまいますと、慎ましい生活に戻ることなどできるものではございません。男の内に再び邪悪な心が芽生えたのであります。女も薄々男の素性に気が付いていたのでありましょう、あろうことか、男と女は手に手を取って盗みを働くようになったのでございます。殺しては盗み、危なくなると受領の館に逃げ込んで素知らぬ顔を決め込んで悪行を重ねたのでございます。財というものは不思議なもので、有り余っても邪魔にはならず、贅沢をすれば、すぐに羽が生えたように飛び去って行くものでございます。生まれつき貪欲な人間は限りなく財を貪りたくなるものでございます。

ある夜、もっとすべすべとした女の肌を弄びたいなどと思いながら、女と褥を重ねていた男は、九色の鹿の見事な毛並みと真白き角のことを思い出しておりましたが、「あの角と毛皮を手に入れたならば財は思うがまま我が手に得られるであろうに」と、つい、呟いてしまったのでございます。それを聞きつけた女は「おまえさん、このあたしに、何か隠し事をしてはいないかい」と攻め立てました。毎夜毎夜、女に激しくせがまれた男はある夜、とうとう鹿との固い契を破って山奥の川で九色の鹿に出会ったことを漏らしてしまったのでございます。約束というものは秘密という水を入れた革袋のようなものでございます。一度破れてしまいますと漏れ出る水の如く、秘密は留まることなど出来る筈もございません。それに、彼の女がどうして秘密を守ることが出来ましょうか、案の定、九色の鹿の話はすぐさま、受領の知る所となったのでございます。間もなく男は受領の前に引き出されて厳しく詮議されることになったのでございます。

「そなた、九色の鹿の居場所を知るというが、まことか」

受領の問いに、鹿との契を思い出して幾分後ろめたい気があったのでございましょう、「めっそうもござりませぬ、そのようなものをこの私めが知っている訳がありましょうか」と言うのでありました。

受領は烈火のごとく怒り、男に申すのでありました。

「ええい、このわしを謀るか、それに己が犯した過去の罪状も明らかであるぞ。この盗人めが、本当のことを申さねば、その首を刎ねてくれようぞ」

男は生きた心地もなく、ただ平伏すばかりでございました。その時でございます、どこからか彼の女が現れ、強欲の笑いを浮かべながら受領の前に進み出たのでございます。

「旦那様、私めは確かにこの男から聞いたのです。ねえ、お前さん、こうなったからには仕方ないじゃないか、何もかも旦那様に話して御仕舞な、旦那様はその鹿の皮と角をお前さんが手に入れたならば、たんまりお宝を下さるのだよ。有難いじゃないか、ねえお前さん、遠慮なくお宝を頂いて、面白おかしくこの世を生きて行こうじゃないか、どうだえ」と何度も促すように言うものですから致し方ありません、男は、とうとう、九色の鹿の様子を何もかも事細かに受領に言上したのでございます。

受領は大いに喜んで「九色の鹿の真白き角と虹のように輝く毛皮はこの世にまたとない珍宝、都に上りて帝に献上すれば、わしの出世は思いのままじゃぞ、公卿になることも出来よう、さすれば、そなたの罪は全て許して遣わそう。その上、都でこのわしの家来として仕えれば、女も金銀財宝も思いのままそなたに呉れてやるがどうじゃ、どうじゃ」

鹿との約束を違えたことに少し後悔を致しましたが、金銀財宝と出世の誘惑にすっかり目が眩んだ男は貪欲の情に身も心も囚われたのでございます。

それから暫くして、準備を整えた男は受領の手勢を率いて山深く分け入って行ったのでございます。

幾日も深い山の中で探索を重ねましたが、どうしても見つけることは出来ませんでした。そこで、男は一計を案じたのでございます。

「助けてくれ、そこな鹿よ、わが命を救いたまえ」

男は何度も声の限りに叫んだのでございます。畜生とはいえ、神仏を敬い、優しき心根を持つ鹿のこと、必ずやその姿を現すであろうと信じたからでありました。

清らかな美しき心に付け込むことが出来れば、欲しき物はいとも容易く手に入れることが出来る、それがこの世の理であるという男の信念は揺るぎの無いものでございました。

心正しき行いを実践しても神仏の加護などある筈も無い幻なのだ、この浮世は知恵を働かせて弱き者から掠め取り、心優しき者から憐憫の情を引き出し、神仏を信じる者を騙してこそ己が欲するものを得ることが出来るというのがこの男の堅く信ずる所でございました。

将に案の情でございました。男のもくろみ通り、森の中から九色の鹿が現れたのでございます。しかし、川の中に助けを求める者など居りません。鹿は流れの中をじっと見つめていましたが、その姿はまるで岸辺に咲く大輪の花のように神々しく輝いておりました。

「見つけたぞ」

男は手を打って我が策略が見事に的中したことに喜び勇み、すぐさま兵たちを集め、人の輪でもって遠巻きにして鹿の逃げ道を全て塞ぎ、その輪をゆっくりと狭め乍ら、じわじわと追い詰め遂に鹿を取り囲んだのでございます。

逃げ場を失って、悲しげに鳴く鹿の前にゆっくり進み出た男は弓に矢をつがえ、きりきりと満月のように引き絞ったのでございます。

九色の鹿は男をじっと睨み付けてこう申しました。

「汝はなぜに固き契りを破って我のことを里人に告げ、あまつさえ、我を殺さんとするか。汝が行い、人にあるまじきこと、畜生にも劣ることぞ」

涙を流して男を咎め、人の道を踏み外さぬように諭す鹿に、男は冷たく言い放ったのでございます。

「畜生のお前には分かるまい。人の世を生きるには、慈悲の心など何の役に立とうぞ。まして約束を信じる等は愚かなことよ。金銀財宝こそが何よりも尊きものなのだ。考えてもみるが良い、お前は我が身のことが里人に知られるという恐れがあることを顧みずこの俺を助けたが、それがどうだ、こうして仇となって帰って来たではないか、この俺に掛けた憐憫の情が一体何の役に立ったというのだ。お前の愚かな行いがお前自身を地獄へ導く行いとなってしまったのだ。そうしてこの俺は、お前を殺してその毛皮と角を手に入れ、金銀と尊い位を手に入れて一生を安楽に暮らすのだ、悪く思うなよ。恨むなら自分自身を恨むが良いぞ」

財物を手に入れて安楽に暮らす我が姿を思い浮かべて高らかに勝ち誇って言い放つ男の顔には貪欲の笑いが込み上げてくるのでございました。引き絞った弓からびゅんと放たれた矢は、九色の鹿目がけて真一文字に飛んでいったのでございます。鋭い矢の切っ先が鹿の眉間の真ん中にまさに至ろうとした時でございました。九色の鹿の眼から大粒の涙がこぼれ出したのでございます。それは恐れをなしているというよりも、悲しげにそして哀れんで見つめている様でございました。

その時、男は何やら胸苦しい心地を覚えたのでありました。それとともに、まるで日輪が厚き雲に隠れたかのように目の前が次第に暗くなったのでございます。

「何ごとか、これは、一体どうなっているのだ」

男の顔から、笑みはすっかりが消えてしまったのでございます。そして、愚かにもその時、自分が流れの中で蔦蔓につかまってもがいていることに漸く気が付いたのでございます。九色の鹿に助けられたことは、溺れて藁にもすがりたい者が気を失いかけた時に見る妄想であったのでございます。

慌てた男は「山神、樹神、天神、地神、竜神、我を助けたまえ」と、大声を上げて叫び且つ祈ったのですが、その声は無情にも木々を渡る風と激しく流れる水音に掻き消されるばかりでございました。その時、流れの中でもがく男の視界に、岸辺でのんびりと草を食べている鹿の姿が入ったのでございます。畜生なんぞにすがって頼んでも、それは無駄というものと分かってはおりましたが、そこは、何としても生きたいという、男の執念でございましょう、畜生にも心があるに違いないと祈り、あらん限りの力を振り絞って一心に叫んだのでございます。

「助けてくれ、助けてくれ、そこな鹿よ、この俺を助けてくれ」

幾度も叫び続けましたが、所詮は畜生のこと、人を助けるなど出来よう筈もございません。鹿は驚いたように一度大きく跳ねると、身構えるように体を屈めて、九色の神々しい光をその身から放ち、ただじっと男が溺れるのを眺めているだけでございました。

叫び声は空しく山々に響き渡り、疲れ切った腕から次第に感覚が失われて、男は底知れぬ恐怖に包まれ、泣き叫んだのでございますが、やがて、じわりと川底に引き込まれて行ったのでございます。


(参考)今昔物語集


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