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気がつけば、彼女のことをひたすらに考えていた。勉強しようと、体を動かそうと、思考が自ずと彼女へと向かうのだ。こんな経験、今までになかった。
どうして彼女はあんな時間にあんなところにいるのだろう。ただ単に、雪が見たいだけなのだろうか。それにしても、動機がやや不純であるよう思えた。同じ動機で屋上に赴いた自分が思える柄ではないのだが。
「――ろ」
そしてもう一つ。彼女はどうしてあんなにも哀愁に満ちた表情を浮かべているのだろう。儚げな表情を常に浮かべているのだろう。寂しげな表情も絵にはなってはいるのだが、昨日の嬉しそうな微笑を前にすれば、彼女には少しでも笑っていてほしかった。
白銀の少女。滅多に姿を現さない、全てが白く透き通った美しい少女――。幽霊だと、もっぱら噂されている少女。
いや、違う。噂なんかじゃない。彼女は確かにそこにいた。幽霊なわけがない。信じがたいほどの容姿や雰囲気に身を包んではいたが、確かに彼女は生きているのだ。十分ではないが、しっかりと言葉も交わした。今もまだ、彼女との時間は覚えている。
今夜も、彼女は屋上にいるのだろうか。いや、何故彼女はあの場所にいるのだろうか。
「――しろ」
考えれば考えるほど、彼女は謎に包まれていた。
そう一つだけ、一つだけわかったことがある。名前だ。彼女の名前。
雪野ソナタ。冬を連想させる綺麗ながらも切ない響きをした名前。
彼女は今、何をしているのだろう。こうしてゆっくりと進んでいくこの瞬間も、彼女はあの場所に佇んで――
「真白!」
電流が走ったかのように体がびくん、と跳ねた。指先でくるくると回していたペンが、ポトリとノートの上に落ちた。
恐る恐る教壇に目をやると、数学担当教師の井上が怪訝そうな表情を浮かべていた。黒板には見ているだけで頭が痛くなりそうな数式や方程式が描かれていた。
「あ――はい」
「どうした。体調でも悪いのか?」
「あ、いえ。大丈夫です。すみません、少しぼ~っとしていました」
「全く、しっかりしてくれよ。なら、この問題に答えるのは無理だな」
すみません、ともう一度謝る。比較的温厚な教師で助かった。これがもし、厳格で知れ渡っている古典担当教師だったのならば、今頃莫大なペナルティを課されていたところだろう。
「じゃあ、代わりに――そうだな。今日から十一月だから、出席番号の――」
「先生! ちょっとお腹が痛いんでトイレに行ってきていいですか!」
天を突きさすように右手を上げた冬里の声が教室中に響いた。視線は安定しておらず、動揺しているのは明白だった。
ふん、と教師は嘲笑うように鼻を鳴らした。
「そうかそうか。銀、そんな勢いよく手をあげるなんて、本当に目立ちたがり屋さんだな。出席番号も十一番だし、ちょうどよかったな」
「違いますよね! 最初から俺を当てようとしましたよね!」
「うぬぼれるな。十一月一日だから、十一と一を足して、十二番を当てようと考えてたぞ。自意識過剰者め」
「と、ともかく! 本当なんです! 信じてください! さっきからずっとお腹が痛くて俯いていたんですよ! 先生なら見てましたよね?」
「ああ、俯いてケータイをいじっているのがよく見えていたぞ」
「完全にばれてた!?」
「ばれとるわ、このうつけ者が!」
意地の悪そうな表情を浮かべ、井上は冬里に向かってチョークを投擲。ダーツのように、一直線に飛んだチョークは、見事冬里の額に直撃した。
授業中だとは思えない光景に、クラスの雰囲気は和んでいた。誰しもが爆笑、苦笑を浮かべていた。
だが、睦月はその光景に目も耳も向けず、再び思考の海に潜っていた。
頭から離れてくれなかったのだ。彼女の声が、存在が。
彼女に会いたかった。雪が見たかった。
「そんで? どうしたんだ、むっつん」
リスのようにもぐもぐ、と弁当のおかずを貪った冬里が不意に尋ねてきた。
「どうしたって、何が?」
視線は弁当箱に向けたまま、問いを投げ返す。
「さっきの授業だよ。随分とぼ~っとしていたじゃないか。俺も何度も隣から声掛けたんだぜ? なのに、遠い目をして、我ここにあらず、って感じだったぞ」
「え、そうだったんだ。ごめん、全然気がつかなかったよ」
「私からすれば、あんたと井上先生のコントのほうがどうかしてる、って感じだったけどね。あれは一般的な高校の授業とはかけ離れた光景よ」
「まあ、いのっちはノリのいい、はっちゃけた先生だからな。でも、教師としての面目のためか、ケータイは放課後まで没収されちまったけどな」
「それだけで済んだことに感謝しなさいよね。井上先生以外の先生だったら、今頃担任にも全部伝わっているわよ」
「そだな。ホント、いのっちでよかったよ。むっつんと二人して説教食らってたところさ。なあ、むっつ――むっつん?」
「え? なに?」
「いや、さっきから箸を口に運んでいるけど、ずっと飯を掴めてないぜ? 箸でも食べているのか?」
「え? あ、ああ……」
冬里の言うとおり、睦月の弁当箱は開封した直後とほとんど変わらない食べ物が残っていた。三人が昼食を摂り始めて十分ほど経過したため、冬里と御節の弁当箱はほぼ空に近かった。
「睦月。あんた今日変よ。朝からぼ~っとしてることが多いし。何か考え事でもあるの?」
「考え事、って言うほどでもないんだけどさ――」
この落ちつかないもやもやとした気持ちを、睦月は二人に話した。前日に出会った「白銀の少女」と再び出会ったこと、話したこと、そして、気がつけば彼女のことばかりを考えていることを。
「また会ったのか。それはもう、前例のないことだろうな」
そう、話を聞く限り前例はないのだ。噂を鵜呑みにするのであれば、彼女と二度も出会ったのは睦月一人だけなのだ。そう考えると、優越感に浸れて気分がよかった。
まるで、彼女を独り占めしているかのようだから。
「むっつん的には、彼女のことをどう思ってるんだ? 噂では幽霊やらなんやら言われているけど、実際に二度会ってみてどう思った?」
「幽霊なんかじゃないと思う。昨日までは記憶があやふやで整理ができなかったけど、彼女はいる。ちゃんと生きてるよ。覚えてるんだ、彼女の声も、姿を」
そして、寂しそうな、雪のように儚げない微笑みを。
「そうか。じゃあきっとそうなのさ。むっつんがそう思うんなら、それで間違いないさ。自分の気持ちを曲げずに、彼女と接してあげな」
にかっ、と綺麗な白い歯を見せて、冬里は笑った。
相変わらず、ふざけているようにも見えて、気配りのうまい冬里に感謝をした。
「しかし、むっつん。ずっとその人のことを考えてるんだな。授業中にすら物思いにふけるなんてよっぽどなことだな」
「うん、なんかね。ふと気がつくと、あの人について考えてるんだ。何でだろうね」
母自慢の甘い卵焼きを箸で掴んだまま、睦月は呟いた。
「いや、そりゃもちろん……」
冬里はちらっと、口を一切開かず、二人の会話に耳を傾け続けている御節を一瞥して、
「いや、なんでもねえや。むっつんはそこのところ、鈍いだろうからな。自分のことも、もちろん他人のことも」
呆れたかのように、面白おかしそうな笑みを浮かべた。
対した御節は、寂しそうに視線を落としていた。口元には小さな笑みが浮かんでいた。
「ま、俺はむっつんの友人だから、むっつんがどんな答えを出そうと応援してやる。もちろん御節もだ。二人の答えはいつだって応援してやる。だから、出した答えは必ず貫き通してくれよ」
な、と冬里は二人の肩にぽん、と手を置いた。運動系の部活に所属しているためか、大きく、力強い手だった。
「そうね、私もまだ様子を見てみるわ。決断するのにはまだ早すぎるものね」
頬杖をつき、外の景色に目を向けた御節が呟き終わると同時に、昼休憩終了五分前のチャイムが教室に鳴り響いた。
部活、生徒会の仕事でそれぞれ学校に残った冬里と御節に先んじて、睦月は一人、帰路についていた。
氷柱の退院した今、病院の最寄り駅で降車する理由はなくなった。よって、二日ぶりの我が家ということになる。
真白と記された、星型のファンシーな表札が掲げられた門を通り、家の扉を開く。玄関に並べられた靴を見る限り、今現在、家に滞在しているのは氷柱だけのようだ。
「あ、兄ちゃん。おかえり」
リビングに入ると、ソファに横たわり、ファッション雑誌を読んでいた氷柱が上体を起こした。頬には赤みはさしておらず、生気を感じさせる表情が睦月を安心させた。
「元気そうだね。来週からは学校に行けそうだね」
「うん! 兄ちゃんの看病のおかげだよ。二日も何もない病院に留めさせてごめんね」
「大丈夫だよ。氷柱のためなら、あそこにどれだけいようと構わないからね。それに――」
何もないなんてことはなかった。あそこには、彼女がいたのだ。ずっとあの場所に留まってもいいと思えるほどに、睦月は彼女に惹かれていた。
だが、今日で、一時の間あの病院に行く理由はなくなってしまった。氷柱はこうして生き生きとしているし、友人や家族が入院しているわけでもない。もちろん、自分もこうして何不自由のない体を保っている。両親に感謝しなければならない。
もう少し、あの病院に滞在する理由が欲しかった。そんな不躾なことを頭によぎらせた自分を恥じた。氷柱に対しても失礼でもあるし、他の患者にも失礼極まりのないことだった。もちろん、一患者である彼女に対してもだ。
「……? 兄ちゃん、どうかしたの?」
「ん? 何が?」
「なんか、ぼんやりとしてたよ。体はここにあるけど、心はいずこへ~って感じ」
「なんだそりゃ、また相変わらず漠然とした言い方だな」
「しょうがないよ、まだ中学三年生なんだから。ここ数日の兄ちゃん、ぼけ~っとしていることが多いから、ちょっと心配」
「本当に大丈夫だよ。ありがとな、氷柱」
ぽん、と触り心地のいい艶やかな氷柱の髪をくしゃくしゃとしてやる。
やめ~い! と叫ぶ氷柱ではあったが、その声には明るい音色が帯びていた。
そう、大丈夫。大丈夫なのだ。
と、氷柱と自分に言い聞かせるようにそう言ったものの、こうして日が変わり、外も真っ暗となった今も、睦月は寝付けずにいた。
答えは実に単純。彼女の存在がちっとも頭から離れなかったからだ。夕食をとっている間も、氷柱と仲良くテレビゲームをしている間も、好きな漫画に目を通していても、必ずどこかで彼女を思い出してしまうのだ。
そして、こうして二日ぶりのベッドに横っている間も、彼女のことを思い返していた。もう、自分では制御できなかった。
多くの人々が寝静まるであろうこの時間、彼女は何をしているのだろう。病室ですやすやと寝ているのだろうか。それとも、ここ数日のように、屋上に佇んでいるのだろうか。
電気の灯りから逃げ出すように、目を瞑った。頭の中に、彼女の姿が映った。
誰もいない屋上で、一人佇む彼女――雪野ソナタ。
彼女の目には今、どんな景色が映っているのだろう。どんな表情で、どんな気持ちを抱いているのだろう。
「全然知らないな、ソナタさんのことを……」
そう、知らないのだ。彼女のことを、何も知らないのだ。
だが、彼女は幽霊でも噂でもなく、実在しているのだ。あの病院に入院しているであろう、患者なのだ。
そう、入院しているのだ。ならば、何故入院している? 何かを抱えているのか?
彼女の年齢は? 趣味は? 生い立ちは?
考えれば考えるほど、彼女に対しての疑問が浮き出てきた。自分は、彼女の名前以外のことを一切知らないのだ。
知りたい。彼女のことをもっと知りたい。噂なんかじゃなく、彼女の実態ついて知りたい。
目を見開き、ふん、とベッドから飛び降りる。
じっとしてなんていられなかった。一刻も早く、彼女に会いたかった。
一日会わないだけで、こんなにも焦燥感に駆られることになろうとは思いもしなかった。こんな感情を抱いたのは初めてだった。どうしてこうも、彼女の存在が頭から離れてくれないのだろうか。
「むっつんはそこのところ、鈍いだろうからな。自分のことも、もちろん他人のことも――」
まさか――
ふとした予感が、心の中によぎる。
本当にそうなのだろうか。そんな感情を彼女に抱いているのだろうか。たったの二日、それも、数時間程度しか言葉を交わしたことのない彼女に、そんな感情を抱くなんていう話があっていいのだろうか。
沈黙に包まれた部屋に、睦月は一人佇み、熟考した。
だが、どれだけ考えても答えはでない。むしろ、新たな疑問や葛藤が生まれるだけだ。
考えていても仕方がない。答えは、彼女に出会ってから確かめよう。
前日にクリーニングにかけたコートを羽織り、睦月は足早に自室を後にした。家族に気づかれないよう、足音に気をつけた。こんな時間に外出するということが父親に露見してしまえば、口うるさく言われること間違いないからだ。
電気はつけず、携帯電話の明かりを用い、手探り――足探りで自分の靴を履いた。
ゆっくりと、音を立てないように扉を開け、外に出る。ひんやりとした風が、出迎えるように首筋を撫でた。
深夜。病院。屋上。そして、雪。
これから連想されるものと言えば、今となっては彼女しか想像ができない。
当たり前のように、彼女はそこにいた。もう驚きはしなかった。三日目でしかないが、これらの条件がそろって彼女がいないというのはあり得ないように思えた。
「どうして君がここにいるのかな? 妹さんの体調がまだ芳しくないのかい?」
睦月には目をくれないまま、彼女が聞いてきた。来訪者が誰であるかなど、既にわかりきっていたようだ。
「いえ、そんなことはありません。今日の朝をもって、妹は退院しました。とても元気です」
「そうかい。それは本当によかった。妹さんにお大事にと伝えておいてくれ。だけど――それなら、なんで君がここにいるんだい?」
睦月に顔を向け、心底不思議そうに彼女は尋ねた。いつも儚げのない表情はなく、どことなくいつもより顔に生気があるように感じた。
「えと、その――あなたに会いたくて、来ました」
尻込みしそうになる自分を必死に後押しし、はっきりと趣旨を伝えた。
「私にかい? 雪を見に来た、とかじゃないのかい?」
「違います。雪を見るのなら、家でも見ることはできますから。それに、俺が家を出た時には雪は降っていませんでしたし」
逆に言えば、彼女と会うときは必ずと言ってもいいほど、雪が降っているということになるのだ。偶然か、はたまた必然なのかはわからない。
「そうかい。本当に、君は不思議な人だ、真白くん」
はっ、と睦月は目を見開いた。胸が小さく鼓動する。名前を覚えてくれていただけで、こんなにも嬉しいと感じたことなどなかった。
「しかし、どうして私なんかに会いにきたんだい? ここまで来るのも楽ではないだろう。守衛さんに断りをいれないといけないだろうし、面倒じゃないか」
氷柱の体の事情もあって、何度か病院には来ることもあってか、顔見知りなのだ。そのため、制限こそされるが、深夜の病棟に入るのは大して苦ではなかった。
何故、彼女に会いに来たのか。何故かはわからない。どうしてこんなにも心が不安定なのか。だが、こうして彼女を目の前にして確信した。
「あなたともっと話をしたい。ただ、そう思ったからです」
率直な想いを伝えた。自分の意見を飾らず伝えることができる。これが、睦月の最大の持ち味だから。
「それに、昨日言いました。また会いましょうと。だから、会いに来たんです」
彼女の青白い瞳が小さく揺れた。不安そうに、だが、どこか嬉しそうに、彼女は唇を噛みしめた。
「全く君は――私に過度な期待をさせないでほしいよ。でも――ありがとう。そう言われて、嬉しくないわけがないよ」
言葉どおりに、彼女は嬉しそうに笑った。三日目にして、初めて見た笑顔だった。誰もが魅了されるであろう、雪のように美しい笑顔だった。
「わざわざここまで来てくれたんだ。無碍にはできない。楽しく談笑といこうじゃないか」
昨夜のように、こっちにおいでと、睦月を手招きした。
睦月は内心に湧き出る喜びをひた隠し、彼女の隣へ移動した。
昨日と同じく、体一つ分ほど離れてはいたが、昨日よりも幾分と距離感は近くなっていたような気がした。
「しかし、君はよくこんな時間に家を抜け出すことができるね。これまでは妹さんの看病に付き合っていたのだから特に不思議には思わなかったけど。年はいくつなんだい?」
「来年の一月で十七を迎える高校生です。家は、まぁ、抜け出すのには苦労しますが、物音さえ立てなければ問題はなかったので」
「とんだドラ息子だね。意思があるのはいいけど、親御さんには迷惑をかけないようにしないとダメだよ。でも、こうして私のために抜け出してくれたらしいから、ケチをつけることなんてできないけどね」
いつも――とは言っても、今を合わせて三日ほどしか言葉を交わしてはいないのだが、今日の彼女は饒舌に感じた。もちろん、嫌なわけなどないし、むしろ、掴みどころのない彼女が歩み寄ってくれているような気がして嬉しかった。
「ソナ――雪野さんは、いくつなんですか?」
「ふふ、ソナタでいいよ。ここまで来て、他人行儀というのは少し心苦しいからね。私は十八さ。クリスマスに十九歳を迎えるおばさんさ」
「お、おばさんなわけないです」
あるわけがなかった。その容姿でそんなことを言ってしまえば、全国の女性から大反感を買うのは間違いない。
しかし、彼女の年齢は予想外なものだった。言動や雰囲気からして、年下だとは考えてはいなかったのだが、二歳も離れていたとは思ってはいなかったからだ。
「そういうこと。君よりも年上さ、睦月」
年上であることをアピールするように、睦月の名を呼び、ソナタは小さく含み笑いをした。
睦月も名を呼ばれたことが素直に嬉しく、照れ隠しを含めて笑顔を見せた
「しかし、君はそんなに若かったのか。物腰は柔らかいし、落ちついた雰囲気を醸し出しているから、私と同じくらい、または年上かと思っていたよ。背もけっこう高いしね」
「落ちついているだなんてそんな。というか、その言い方じゃ俺が年をとっているみたいな言い方じゃないですか」
それに、背は高いほうではない。平均より高い程度で、見張るほどの高さではないはずだ。それもこれも、おそらく彼女自身の身長基準で言っているのだろう。
「ふふ、それは失礼。でも、別に悪く言ったつもりはないんだ。その年で、そこまで落ちついているのはすごいことだと純粋に思ったのさ。しかし、なるほど。高校生か。うんうん、若いね。私も普通だったのなら、そんな時代があったのかな」
夢を見るように、彼女は漆黒の空を見上げた。
今日初めて見せる、今にも消えてしまいそうな儚げな彼女の表情を前にし、睦月の心の中に不安が広がった。彼女はここにいるはずなのに、本当はいないのではないか。一部に流れている、「白銀の少女」の噂が心を埋め尽くしていく。
「あの、ソナタさん。ソナタさんは、その――ここにいますよね?」
「うん? どういうことだい? 話が見えないよ?」
「いや、その――実はですね」
睦月はかいつまんで、「白銀の少女」の噂をソナタに話した。
神妙な面持ちのまま睦月の話を聞き終えたソナタは、愉快そうに笑った。
「ふふ、幽霊か。その噂はあながち間違いではないかもしれないね。噂というのはある程度の事実を脚色した虚構のようなものだと思っていたけど、存外的外れもないね。うん、まさにその通りだ」
もう一度、自嘲するように彼女は笑った。
否定とは言い切れない彼女の答えに、睦月の心はさらにざわめいた。
「で――でも、ソナタさんはいますよね。ここにこうして、俺と話しているんですから」
「うん、そうだね。私は息もしている。君と、話をすることだってできる。こうして、雪に触れることもできる」
掌に舞い降りた雪を慈しむような目で見つめた。
「だけどね、その話はやっぱり正しいのかもしれないね。私は、誰と過ごすでもなく、ただ生きてきた、亡者のようなものだから」
彼女の言葉に呼応するように、掌に落ちた雪は溶けていく。跡形もなく。存在自体がなかったかのように。
そんなことはない。彼女は生きている。亡者のはずがない。死んでしまったものが、こんなにも美しいはずがないのだ。
そんなに寂しい、悲しい顔をしないでほしかった。その表情が無意識的なものなら、あの魅力的な笑みを引き出してやる。だから――
「俺が――」
彼女の憂いに満ちた表情が、睦月の心を駆り立てた。
「俺が、あなたと過ごします! ご、ご迷惑でなければですけど。俺はもっと、あなたと話したい、過ごしたいんです!」
溜まりに溜まった心の声が、真っ暗な虚空に響き渡った。
呆れたように、ソナタは小さな息を吐き、
「君はつくづく愚かだね。その優しさで、いつか損をする破目になるかもしれないよ。だけど、その優しさを振り切ることはできない私も、きっと愚かなんだろうね」
小さな笑みを浮かべた。その表情はどこか嬉しそうに見えた。儚げのない笑みは、そこにはなかった。
ソナタは俯く。横顔からは感情が読み取れず、暗い影を落としている。
どうしたのだろうかと不思議に思っていると、彼女は顔を上げ、
「四○四号室」
ポツリと、零れおちるようなか細い声で呟いた。
「え?」
「私の病室だよ。もし、君が私の事実を受け入れられるのなら、一度来てくれ。面倒だと思うのなら、来なくても大丈夫だから」
どこか焦ったように早口でそう言い、ソナタは病棟へと続く扉へと、逃げるように足早に歩いていった。
「行きます! 明日の昼に行きますから! 待っていてください!」
逃がさないように、睦月は彼女の背中に向けて誓いを立てた。
ソナタは睦月の必死な叫びに立ち止まり、くるりと振り返って、
「うん。待ってるよ、睦月」
照れくさそうな笑みを浮かべて、屋上から消えていった。