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「白銀の少女?」
「ああ、けっこう有名な話だぜ。あの病院には昔から目を疑うくらい美しい少女が住みついているって話だ。容姿だけじゃなく、信じられないくらいに透き通った白い肌に、とても日本人とは思えない美しい銀色の髪を携えているから、まあ、なかなか鮮烈な姿であることは間違いないからな」
椅子にあぐらをかくという、なんとも行儀の悪い座り方をした冬里が言った。
昨晩、否、今日の深夜といったほうが明確だろうか。睦月はその際の出来事をすぐにでも誰かに話さなければ気が気でなかったため、朝礼が始まる前に冬里と御節の二人に話した。
睦月としては面白半分に話したつもりではあったし、二人の冷ややかな反応を覚悟していたのだが、二人の反応は睦月の予想を裏切るものだった。
「その話聞いたことあるわ。私も直接見たことあるわけじゃないけど、夏樹が一度だけ見たことあるって言ったわね。どこか儚げで、寂しそうな微笑みを浮かべている、自分が女をやっているのが恥ずかしいくらいに綺麗な少女だって言ってたわ。だけど、それっきり一度も見たことがないんだって」
睦月の机に寄りかかっていた御節が言った。
「そういうこと。ごく稀にその姿を確認することができるけど、同じ人間には二度と姿を見せないくらい、公に姿を出すことがないらしい。それで、その容姿、肌の白さ、病院に姿を現すということも相まって、幽霊なんじゃないかっていう面白半分の憶測ができあがる。そうした憶測から、白銀の少女の霊だって言われているわけさ」
にわかには信じられない話ではあったが、どことなく二人の話には説得力があるようにも思えた。この国に、あんな幻想的な容姿の持ち主がいるだなんて、思いもしないからだ。もちろん、外国から移住している人々もいるではあろうが、それでも目を疑わずにはいられなかった。容貌に加え、闇夜をバックに雪を眺めている少女だ。下手なB級映画を見ているよりも印象的であることには違いない。
「しかし、むっつんも随分とレアな現場に遭遇しちゃったんだな。その子の話、姿を現した際には絶対に話題にあがるけど、本当に姿を見せないから、常時賑わうことはないんだぜ」
「しかも、その子と話したなんて稀有そのものでしょうね。姿を見られたら、溶けるかのように消えていくって話だもの。もちろん、脚色されている部分もあるかもしれないけど」
現場に立ち会ったことのない二人からすれば、信憑性のない噂かもしれないが、目の当たりにした睦月からすれば、その噂はかなり的を射ていると言ってもいいくらいに、「白銀の少女」を表していると言えた。
「それでそれで? むっつん、どうだったのさ?」
「どうだったって、何がさ?」
ニヤニヤと笑みを浮かべながら問いかけてくる冬里の意図がわからず、睦月は疑問を投げ返す。
「そりゃ、決まっているじゃないか。その子はすんげえ美人だとか、可愛いだとか噂になってるんだけど、むっつんから見た彼女はどんな印象だった?」
「そういうことか。そうだね。すごく、綺麗な人だったよ。でも、なんというか――どこか、寂そうで、儚げな人だったよ」
包み隠さず、忌憚のない感想を述べた。
今でも鮮明に思い出すことができる。寂しげに微笑む彼女の表情を。どことなく冷めきった双眸を。今にも消えてしまいそうな、儚げな後ろ姿を。
「何よ。デレデレしちゃって」
どことなく不快そうに、御節は口を尖らせた。
「デレデレはしてないけど、本当に綺麗な人だったんだ。テレビにでている芸能人よりも、よっぽど容姿端麗と言えるかもしれない」
「そんなにか。一度見てみたいな。御節とどっちが可愛かった?」
「んなっ――」
冬里の問いに、睦月はう~ん、と小さく唸り、
「タイプが違うかもしれないね。綺麗って言っているけど、小さな人だったから、どっちかと言えば可愛いタイプといったほうがいいかもしれない。外見はすごく綺麗なんだけどね。御節は可愛いタイプっていうより、美人さんタイプだから比べるのはちょっと難しいんじゃないかな」
今一度、包み隠さず、忌憚のない意見を真顔で返した。
ハハ、と冬里は苦笑した。
「むっつんって、本当に自分の意見は率直に言うよな。尊敬するぜ。でもさ、むっつん。物事をはっきり言えるのはすんごく立派なことかもしれないけど、たまには嘘や場に合わせた言葉を選んだほうがいいこともあるんだぜ?例えば――」
ほら、と冬里は指を差した。
「こんな風に、事実を突き付けられた人間がそれを受けとめられるとは限らないからな」
冬里の指差す先に視線を移すと、睦月の机に寄りかかった御節が、顔を真っ赤にして俯いていた。
「あれ? 御節? そんなに顔を赤くしてどうしたの? ハッ――! まさか、御節まで熱を?」
病弱である氷柱が家族としているせいか、睦月は知人の体調には人一倍敏感な部分があった。
そのためか、御節の熱を測るため、睦月は真っ先に御節の額へと手を伸ばすが――
「うわああああ! 大丈夫! 大丈夫だから!」
触られては困ると言わんばかりに、御節は慌てふためきながら、額へと伸びる睦月の腕を遮った。
「それならいいんだけど。でもさ、御節の手、すごく熱いけど本当に大丈夫なの?」
御節の手に掴まれた腕には、嫌というほど熱が伝わってきていた。
「だ、だから大丈夫だから!」
狼狽しながら、頭を振った。
「わ、わかったよ……。それじゃあさ、御節。そろそろ腕が痛いから、手を離してくれるかな?さっきから込める力が強くなっているよ」
「――!? 私のせいじゃないでしょうがっ!」
顔を真っ赤にしながら、御節は乱暴に睦月の腕を離した。
何が何だかわからないと、睦月は冬里に助けを求めようと視線を向けるも、冬里はニヤニヤしながら、「さあね」と言った。
「なるほどね~。やっぱ幽霊なんかね?」
その代わりと言ったところだろうか、冬里は話題を再度「白銀の少女」に戻した。
「どうなのかな。そう言われるとそうなのかもしれない。実際、彼女と話終わった後のことは、何にも覚えてないんだ。夢かもしれないと思えるくらいだし」
だが、彼女と言葉を交えた際の出来事は明確に覚えているし、今にも消えてしまいそうな彼女ではあったが、確かに目の前にいたという確信もあった。
「まあ、噂の可能性も高いわけだし、深く考えてもしょうがないか。それより、氷柱ちゃんの容態はどう?」
「朝起きた時には随分とよくなっていたみたいだよ。俺が起こされてしまったくらいだしね。でも、恐らくは今日も入院じゃないかな。明日には退院できると思うよ」
睦月の報告に、二人はほっと安堵の表情を浮かべた。
「今日も見舞いに行きたいんだが、さすがに二日連続でキャプテンが休みわけにはいかねえしなぁ……」
くそ~と、苦悩するかのように冬里は頭を掻き毟った。
「私も今日はいけそうにないわ。今日は生徒会で重要な会議があるから……。ごめんなさい」
心底すまなそうに、御節は頭を下げた。
「大丈夫だよ。もう容態は落ちついているからね。今度は病院以外で会ってやってくれ。二人と外で遊びたいだろうからね。今日は一人で行くよ。今日は氷柱の友達も見舞いに来るらしいからね」
二人を安心させるように、睦月は笑って見せた。
「わりぃな。代わりに、俺からの熱いメッセージを氷柱ちゃんに伝えておいてくれないか?」
「断る。無理、絶対」
「君を見てると、いつもハートドキドキ」
「断るって言葉完全に無視してるんだけど! しかも、すごく気持ち悪いうえに、どこかで聞いたことのある歌詞だ!」
「ということで、頼むよ」
「頼まれないよ! どうしてドヤ顔で肩に手を置いているんだよ! 伝えない――伝えないからな! 絶対だからな!」
「その言いかた、すごく伝えたそうだぜ、むっつん」
「あんたたち、仲いいわねぇ……」
呆れ顔ではあったが、面白おかしそうに御節が言った。
「朝礼始めるぞ~。席につけ~」
気だるそうに、担任があくびをしながら入ってきたのを機に、三人はそれぞれの席へと戻っていった。
ふと、目が覚めた。ここのところ、あまり寝付きがよくないようだ。眠気はあるし、不眠症でもないのだが、こうして二日連続で目が覚めてしまった。
やはり、環境の違いが大きな原因なのだろう。普段過ごしている場所ではない、殺風景な病室。寝具代わりにしているソファも、もともとは眠るために作られたものではないため、寝心地がいいはずもなかった。慣れきった寝具でないと熟睡できないタイプの人間がいるらしいが、もしかしたら自分もそのタイプなのかもしれない。
不満こそあるが、これも氷柱のためだ。護るべき対象である氷柱は、もっと辛い目にあっているのだ。愛する妹のためならば、例え地べたで寝ることも厭わない。
今日の氷柱は今朝から兆候があったように、昨日にも増して容体がよくなっていた。様子を見に来た際には、数名の友人と談笑を交わしていた。僅かに微熱がある程度で、安静していれば明日には退院できるとのことだ。
しかし――と、睦月は暗闇と静寂に包まれた病室を見渡した。
昨日のように、目の前が真っ暗だということは、またもや深夜なのだろう。とりあえずと、時間を確認するため、睦月はポケットの中にいれたケータイを開いた。
真っ暗な部屋に、ケータイのディスプレイの光がわずかに灯った。きっと、第三者からしてみれば、幽霊のように睦月の顔だけ光っているのだろう。
時刻は三時を過ぎたあたりだった。昨日目が覚めた時間とほとんど変わらない。とんだ時間に起きてしまったものだ。
ちらりと、ベッドに眠る氷柱の様子をうかがった。暗くて顔を確認することはできないが、可愛らしい小さな寝息が聞こえるあたり、よく眠れているのだろう。頭を撫でてやりたかったが、起してはいけないし、何より暗闇に目が慣れていないため、叶わない願いだった。
さて、と一旦睦月はソファに身を預けた。このまま眠ってしまってもいいのだが――如何せん、眠気は無くなってしまっていた。
自然と、睦月は昨日の出来事を思い出していた。昨日の今頃、屋上で出会った少女。「白銀の少女」と呼ばれているらしい、目を疑うような美しい少女。
今日も彼女は屋上にいるのだろうか。いや、昨日の今日だ。十月後半とはいえ、夜は冷えた日が続いている。しかも彼女の服を見る限り、患者なのだ。さすがに今日はいないだろう。それに、そう何度も出会えたのなら、噂にはなるはずがないのだから。
そう自分に言い聞かせる睦月ではあったが、気がつけば、自然と足は屋上へと向かっていた。
特に理由はなかった。そう。これは、眠気が来るまでの暇つぶしなのだ。決して、彼女に会いたいがために屋上へ向かっているわけではない。ただの気晴らしだ。
誰かに言い訳するかのように理由を作りつつ、睦月は屋上へと続く階段を上った。
雪が降っていた。昨日と変わらず、真っ暗な闇に抗うかのように、白い雪がふわふわと宙を舞っていた。昼間は全くと言っていいほど降ってはいないというのに、夜中に至っては連日の降雪だった。きっと、連日の雪を見た人は少ないだろう。
いや、それよりも――睦月は目を見開いた。
昨日と同じように、銀色の髪を靡かせた彼女が屋上の中央部に佇んでいたからだ。
いかにも寒そうな患者衣に身を包み、ぼんやりと雪を眺めていた。
またいるのかと、驚きも呆れもしたのだが、彼女の後姿を見た瞬間に心が浮き立ったことは否めなかった。
気配を察してか、彼女はゆっくりと睦月に振り返った。彼女もまさか、といったかのように目を見開き、
「おや、誰かと思えば、昨日の泥棒もどきさんじゃないか」
冗談めかし、儚げに微笑んだ。
「まさか、今日も顔を合わせることになるとはね」
「そうですね。偶然、ですね」
確かに彼女がここにいたのは偶然だ。だが、彼女はまたここにいるのではないかと、淡い希望を抱いてここに来たということは、もはや否定できなかった。
彼女は一度雪を眺めるように空を見上げ、もう一度視線を睦月に戻した
。
「しかし、君も物好きだね。こんな時間に、こんな場所にくるなんて」
「また目が覚めてしまったんで。でも、それを言うならあなたもじゃないですか」
「ふふ、違いない。なら、お互い変人ということだね」
変人という言葉には少し抵抗はあったが、愉快そうに微笑む彼女を前にすると、そんなことは些細なことに思えた。
彼女は再び視線を空中へと戻した。彼女の銀色に輝く艶やかな髪に、ほんのりと雪が乗っていた。
扉付近に棒立ちしている睦月に、彼女は不思議そうな表情を向けた。
「昨日もそうだったけど、そんなところじゃなくて、こっちまで来たらどうだい? そこからでも見えるかもしれないけど、ここからなら街を望むことができるよ」
彼女は睦月に、「こっちにおいで」と手招きした。
はい、と反射的に返事をして、彼女から体一つ分離れた場所に移動した。彼女に招かれたのが嬉しくて、頬が自然と緩んでいた。並びに、昨夜とは違う彼女との距離感に、睦月の鼓動は小さく高鳴っていた。悟られないよう、必死に平常心を保とうと、彼女に倣って雪を眺めた。
暗闇に舞う雪は本当に綺麗だった。冬が訪れればありふれた光景なのかもしれないが、それでも睦月にとっては絶景だった。
だが、それよりも――睦月はちらりと、彼女を一瞥した。
並んでみると、彼女の小ささがよくわかる。同世代の女子よりも比較的小さい氷柱よりも、彼女は小さかった。背丈から推測すれば、自分よりも年下だろうか。だが、その独特な雰囲気や、大人びた言動を思い返すと、一概にはそうは思えなかった。
こうして近くで見ると、彼女の艶やかさがよくわかった。彼女の綺麗にまとめられた銀髪は、本当に人間のそれかと思うほどに眩く、幽霊だと比喩されることや、噂されることが少し理解できるほどに肌は白かった。
こんなにも麗しい少女が同じ人間だとは思えなかった。昨今の芸能界を否定するわけではないが、人気の芸能人や女優よりも、彼女のほうがよっぽど美しく感じた。
いや、そもそも本当に同じ人間なのか。それすらも疑わしい。こんなにも芸術的と思えるほどの少女は、本当にこの世に存在しているのか。おとぎ話から出てきた、お姫様なのではないか。
不意に、彼女と目があった。一瞥するだけだったはずなのだが、気がつけば彼女を凝視していた。
彼女は一瞬戸惑ったような表情を浮かべたが、すぐに寂しげな笑みを浮かべた。
その青白い水晶のような双眸に見つめられたことが何故か恥ずかしく、睦月は目を逸らした。顔が少し熱い。きっと、ここ最近の氷柱や御節のように赤くなっているかもしれない。
「妹さんの容態はどうだい?」
睦月に視線を向けたまま、彼女が聞いてきた。
「良好です。明日には退院できるかと思います」
「そうか。それはよかった。妹さんも、そして君も、ここの病院に通うことが一時はなくなるわけだね。いいことだよ」
氷柱の回復を心底喜ぶように彼女は微笑した。だが、その微笑にはどこか影があった。喜んでくれているのは伝わってくるのだが、寂しさもひしひしと伝わってきたからだ。
「出来ることならば、こんな寂しいところにはいないほうがいいに決まっているんだ。こんな、いつ誰がいなくなるかもわからないところにはね」
吐き捨てるように、心境を吐露するかのように、彼女は呟いた。
昨夜から気になっていたのだが、どうして彼女はこんなにも切なげな、寂しげな笑みを浮かべるのだろう。そんな笑みを浮かべてほしくなかった。そんな、今にも消えてしまいそうな表情を見たくはなかった。
再び、無言――。
雪が目の前から地に降り立つまでが、やけにスローモーションに感じられた。それほど、無言の時間が永遠だと思えるほどに長く感じたのだ。
「冬が、お好きなんですか?」
沈黙に耐えられなくなったわけではなく、純粋な疑問を睦月は尋ねた。
「ああ、好きだ。一番、季節らしさを感じるからね。どんな場所から見たって、こうした景色を堪能できる季節というのは、冬のほかにはないよ」
冬の風物詩である雪に目を向けたまま、彼女が言った。雪は冬にしか降らない上に、現象の一つであるため、場所は問わないということだろう。
「君は、雪が好きだって言っていたね。どうしてだい?」
「それは、その。単に、冬が好きだからです」
「冬が好き、か。なるほどね。スキーみたいなウィンタースポーツが好きなのかな?」
「ああ、いえ。そういうわけじゃないんです。少しおかしいかもしれませんが、暑いのが嫌いなんです。だから、いつの間にか冬が好きになっていた、といったところです」
「ふふ、君は変わっているね。暑いのが苦手だから、寒い季節が好きか。ふふ、面白いね」
何度もおかしそうに微笑む彼女に、睦月も頬が緩んだ。そんな笑顔を作ることもできるのかと、安心した。
「あと、降り積もった雪の絨毯に足跡をつけるのが好きなんです。自分の歩いた道が、くっきりと残るのが好きですから」
「足跡をつける、か。なるほど。それは確かに面白そうだ。冬になればここにもある程度の雪は積もるけど、道に足跡をつけるというのはとても面白そうだね」
足跡をつけたがるように、彼女はその場で足踏みをした。だが、雪は降っているとはいえ、積もってはいないため、コンクリートの音が虚しく響くだけだった。
一陣の、つんとした風が吹いた。風によってざわめく髪を彼女は右手で抑えた。その動作ですら絵になっているのだが、睦月は昨夜と変わらない彼女の服装が気になった。
「あの、寒くないんですか? 昨日もそうでしたが、そんな薄着じゃ、体に堪えるのでは?」
「ああ、大丈夫だよ。寒いのには慣れているからね」
とてもそうは思えなかった。仮に、寒さを耐えることに自信があったとしても、患者衣代わりとして着用しているパジャマだけでこの寒さを耐えられるとは思えなかった。
「あの、もしよかったら、これ、着ますか? 風邪をひかれてはいけませんし……」
睦月は着ていたジャンパーを脱ぎ、彼女に羽織らせようとした。
しかし、彼女はそれを拒むかのように、首を横に振った。
「私は大丈夫だよ。それに、仮に私が君の上着を借りてしまったら、君が風邪をひいてしまうかもしれないじゃないか。それに――」
視線を雪に向けるのではなく、下に落とし、
「私は風邪をひこうと、ひかなかろうと、大して何も変わりはしないからね」
全てを諦観し、悟ったかのようにそう言った。小さな吐息から生まれた白い息が、哀愁を感じさせた。
彼女は昨夜も同じようなことを言っていた。どんな声をかければいいかわからず、睦月は当惑した。
それに、彼女が何を言わんとしているかを理解できていない自分がかける言葉なんて、薄っぺらいものでしかない。
悩む睦月をしり目に、彼女は小さく微笑んだ。
「君は優しいね。出会って間もない私に、自分の身を挺して上着を貸そうとしてくれるんだから。見ず知らずの人間に、そんなことは簡単にはできやしないよ。きっと、優しい心の持ち主なんだろうね」
「いえ、そんなことはないですよ。思ったことを言っただけですし……」
「それならなおさらだよ。自分の意思を曲げないことが、他者への善意に繋がっているんだからね。それに――君の優しさは、人をダメにしてしまいそうだね。甘えてしまいそうな、まどろみのような優しさだ。ある意味、怖い善意だよ」
彼女の言わんとしていることが理解できず、睦月は怪訝な表情を浮かべた。
「でも、君の心配は最もだね。そろそろ戻るとするよ。君も、風邪には気をつけるんだよ」
睦月の隣を横切り、彼女は病棟へと続く扉へと向かおうとする。
そんな、これで終わりだなんて――。
まだ彼女と話したかった。聞きたいことが山ほどあった。だが、彼女もこの病院の患者だ。無理はできないだろう。ならば、せめて――
「あ、あの! お名前は、なんと言うんでしょうか?」
無意識に口が開いた。彼女のことを、せめて名前だけでも知りたかった。
くるりと彼女が振り返る。宙を彼女の美しい髪が舞った。
「人に名を尋ねる時は、なんとやらだよ?」
「あ、すみません……」
か細い声で頭を垂れる睦月に、彼女は「ふふ」と微笑んだ。
「冗談さ。――ソナタ。雪野ソナタだよ」
「雪野、ソナタ……」
彼女の名の響きに、睦月は感慨深さを覚えた。まさに彼女を表しているかのような、今にも消えてしまいそうな、溶けてしまいそうな、切ない響きだった。
一人感慨にふけるが、聞いた本人が名乗らずにいるのは失礼だ。ただでさえ先に彼女から名乗らせてしまったのだ。
「睦月です。真白睦月です」
「真白、睦月か。うん。いい名前だ。いかにも冬が好きそうな名前だね」
素直に称賛され、頬が一層熱くなるのを感じた。
「お互い、なかなか共通点のある名前だね。この二日間のこともあって、少し君に興味が湧いたよ」
それは睦月も同様だった。もっと、彼女と話をしていたかった。
「とはいっても、もう君と出会うことはないかもしれないね。君は今日で、この病院にとどまる理由がなくなるんだから」
「それは、その……」
「そんな消沈する必要はないよ。できることならば、ずっとこんなところとは縁がないほうがいいんだからね。もっと喜ぶべきさ。それじゃ、真白くん。さようなら」
彼女はゆっくりと歩いていく。彼女の背中が遠ざかり、どんどんと闇に紛れていく。
昨日もそうだった。そんな、もう会えないということを示唆するような挨拶は聞きたくなかった。
「ま、また! また会いましょう!」
気がつけば、深夜だというのに大声で彼女の背に向かって叫んでいた。
彼女とまた会いたいという意思を見せなければ、もう二度と彼女と会えない気がしたのだ。
また彼女――ソナタと会いたかった。この気持ちが何なのかはわからないが、ここでお別れなんて御免だった。
驚いたようにソナタは振り返った。青白い双眸が睦月を捉えた。瞳が小さく揺れていた。
彼女に見つめられる羞恥を覚えたが、それでも目を背けなかった。
二人はしばらく、無言のまま見つめあった。まるで、どちらが先に目を背けるかを勝負しているかのように。
やがて、ソナタは嬉しそうに微笑み、
「うん。また、ね……」
溶けるように屋上から消えていった。
彼女が去っていくのを確認し、大きく吐息を吐いた。白い息が、一瞬にして宙に消えた。
「雪野ソナタさん、か……」
彼女の名前を口にする。綺麗な響き。冬を彷彿させる、彼女らしい名前。だが、どこか切ない名前。
言いようのない焦燥感に駆られながら一人、屋上に佇んだ。
連夜の雪は、既に止んでいた。