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 真白家は高校の最寄り駅から市営電車に乗り、七つ先の駅で降車し、徒歩三分で辿りつく場所にある。周りにはスーパーが三店舗あり、ドラッグストアや書店、コンビニにレンタルショップなど、多種多様な店舗が存在している。


 七つ先の駅とは言え、一駅一駅の距離が比較的短い市営電車であるため、睦月の通う高校までの距離もさほどなく、気分によっては自転車で通学できるほどだ。市営電車を使えば、ここの界隈で一番賑わっているであろう街にも楽にいけるため、生活には何一つ不自由のない、住み心地のいい場所と言えた。


 真白家の家族構成は、両親に睦月と妹である氷柱の四人家族だ。一家の金銭面や精神面など、様々なものを支える父親はもちろん働いている。収入も安定しているためか、はたまた妻を想ってか、母親は専業主婦として、家族の生活面を支えている。


 そして、睦月にとってかかせない存在。妹の氷柱である。天真爛漫で、誰にでもなつく子犬のような少女だった。中学三年生であるにもかかわらず、出るところはしっかり出ているのだが、女の子らしく、身長は睦月の胸辺りと高くない。


 それだけでも十分愛でる要素はあると言えるのに、身内贔屓を除いても、人形のように愛くるしい容姿が氷柱にはあった。そんな氷柱を睦月は狂愛とも言えるほどに溺愛しており、彼女に近づく虫は一匹残らず踏みつぶす、恐怖の門番として、氷柱の同級生の男子に恐れられているほどだ。


 そして何より、兄馬鹿とも言える睦月の溺愛にも気味悪がらず、むしろ好意的にとってくれる妹がとにかく自慢であり、誇りであり、宝物だった。彼女も睦月を慕ってくれており、休日に二人で遊びに行くことも頻繁にあるなど、この年代の兄妹にしては珍しく、仲もよかった。


 そんな真白家の家族構成であったが、珍しくその四人が七時を回った現在、夕所の席に集っていた。


 専業主婦である母親が家にいるのは必然として、七時を回って父親が帰ってきているのは珍しく、久方ぶりに四人で夕食をとっていた。


「それで、御節ちゃんや冬里くんは元気なの? 二人とも忙しいんでしょうけど、また顔を見たいわねぇ」


 夕食を食べ終えた母親が目を細めて言った。他の三人よりも少なめの量にしていたためか、他の三人の誰よりも早く食べ終えていた。


「二人とも部活や生徒会の仕事で忙しいだろうからね。でも、そうだね。二人の予定がうまく噛みあったら、家に連れてくるよ」


 そう言って、睦月は味噌汁を喉に通した。コクのある味噌が口の中に広がった。


「そうね。氷柱も二人に会いたいでしょうしね。ねぇ、氷柱?」


 母親の問いかけに、氷柱は反応を示さなかった。箸を片手に持ったまま、微動だにしなかった。視点もどこかぼんやりとしていて、虚ろな目になっていた。


「氷柱?」

「――え? ああ、なに?」

「いや、冬里と御節とその内会えたらいいな、って言っただけだよ」

「あ、ああ、うん。文化祭以来会ってないからね。久しぶりに会いたいなぁ」


 そう微笑んだ氷柱であったが、どことなく表情が硬いような気がした。何かを我慢しているのか、無理をしているのかわからないが、片手に持った箸の動きはあまり動いていなかった。


 どうしたのだろうか、と箸を進めていると、正面に座る父親が箸を置き、睦月を見据えた。ギラリとした眼光からして、全くいっていいほど良い予感はしなかった。


「睦月、そろそろ定期考査の結果が返ってきたんじゃないのか。どうだったんだ?」


 父親の質問に、睦月は心の中で舌打ちをした。予感的中だった。やはり、この話題からは逃げられないようだ。


 普段は帰りの遅い父親ではあったが、テストが返却された今日という日に限って、定時に帰ってきていた。養ってくれている父親に、夜遅くに帰ってくることを望むのはかなり歪んでいるかもしれないが、それでも今日は顔を合わせたくなかった。


「別に。言うほどの点数でもないよ」


 この手の話題を長くすれば長くするほど、口論が勃発するのは目に見えていたため、有耶無耶に答えた。


 だが、そんな睦月の返答を不可解に思ったのか、父親は怪訝そうに表情を歪めた。


「また悪い点数でもとったのか? 勉強はしたのか?」

「前日にちょっとだけやったくらいだよ」


 睦月のそっけなく、抑揚のない口調に、父親は眉間に皺をよせ、テーブルを拳で叩いた。食器が僅かに浮いた。


「どうして他の生徒たちよりも遅れているとわかっているのに勉強しないんだ! 前から言っているだろう。勉強しといて損はない。やれるべきことはやっておけと」

「うるさいな。そうやって勉強しろ、勉強しろって言うから、余計に勉強する気なくなるんだよ」

「だったら何も言わなかったらお前は勉強するのか? しないだろ。お前のことを思って言ってやっているんだ」


 ほら、またそれだ――父親の発言に、睦月は顔をしかめた。


「自分のことは自分で決める。父さんにとやかく言われる筋合いなんてないよ。父さんに、俺の将来を決める権利なんてない」

「だから――」

「ごちそうさま。おいしかった」


 これ以上話しても、同じ話の繰り返しでしかない。そうアピールするように、睦月は箸を置いて、席を立った。


「睦月! まだ話は終わってないぞ!」

「これから勉強するんだよ。たぶんね」


 投げやりにそう言って、リビングを後にする。


 もちろん、勉強をするつもりなんて毛頭ない。一刻でも早く、この場を去るための言い訳にすぎない。


 母親が父親をたしなめる声に、一抹の罪悪感が心の中に広がっていた。



 何をするでもなく、ベッドに横たわっていた。父親に言われたように勉強する気なんてさらさらないのだが、どうしてもあの手の話なると、精神的に参ってしまうのだ。


「勉強勉強、うるさいんだよ」


 げんなりとした表情で一人、愚痴をこぼした。


 別に、父親のことが嫌いなわけではない。家族四人を養っている父親には感謝もしているし、尊敬もしている。だが、子どものころから「勉強しろ」と、口酸っぱく同じことを言われていることもあって、この手の話題になると気が滅入るのだ。最初は人生の先輩である父親の進言に従ってはいたものの、ある程度の責任能力を持ったいま、勉強を強要されるのは萎えてしまうのだ。もちろん、父親の言うとおりであるということもわかっている。高校時代に勉学に励まなければ、後々苦労することもわかっているつもりだ。だが、どうしてもやる気が出ないのだ。


 そして、やる気のでない原因もわかっていた。自分には、明確な目標がないからだ。向かっていく目標がないため、勉強をする理由を見いだせないのだ。ただ受動的に勉学に励む、そうして培った知恵に、何の意味があるというのだろうか。


 明確な目標のある御節が羨ましく、加えて妬ましかった。中学生のころに愛犬を亡くした経験から獣医になるのだと彼女は語っていた。ひたすら努力して、勉強して、生徒会長も務め、自分の目標へとひた走る彼女を素直に尊敬した。


 一見不真面目そうな冬里も同様だ。彼は彼で、勉学にこそ励んではいないが、県内きっての強豪校である我が校のサッカー部に所属している。その上、一年のころからエースストライカーとして他に名を馳せているほどだ。努力の先は御節とは違うが、確かに彼は彼で明確な目標を持っているのだ。


 親しくしている三人の間で、睦月のみ、そういった目標がなかった。


 何がしたい? 何を目標とすべきなのか?


 しばらく天井とにらめっこをしながら思案していると、控えめにドアがノックされる音が聞こえた。心当たりは一人しかいないが、一応の確認はとることにした。


「はい?」

「兄ちゃん、私。入っていい?」


 ひょっこりと、氷柱がドアの隙間から顔を出した。

 どうぞ、と言って、睦月はむくりと上体を起こした。


「どうしたんだ?」

 ちょこちょこと歩いて、氷柱は勉強机に付属されていた回転椅子に腰をかけた。くるくる、と椅子を一回転させて、氷柱は睦月に視線を向けた。


「お父さんが言ったこと、気にしてる?」

「別に、気にしてなんてないよ。父さんが俺に言うことはいつも同じだから、あんなの恒例行事だよ。氷柱は気にしなくていいんだよ」

「それならいいんだけどさ。父さんに怒られる兄ちゃん、いっつもどこか影があるっていうかさ。う~ん、なんて言えばいいんだろう」


 言葉を探す氷柱だったが、睦月は彼女の思惑を瞬時に理解した。睦月を心配してくれているだけだ。勉強を強要されることに嫌悪感を示す睦月を、励ましにきてくれたのだ。


「勉強しろ勉強しろ、ってうるさいから、嫌になっているだけさ。ホント、勉強なんてして何になるんだろうな」


 はぁ、と吐息をついて、髪をかきあげた。


「歪んでいると思うよ。俺のことを思ってあんなに言ってくれているのに、こんな反発的な態度をとってさ。だけど、わかっていても体が動かないんだよ」


 行き場のない怒りをぶつけるために、枕を優しく小突いた。


「私は兄ちゃんの味方だよ。兄ちゃんの好きなようにするといいと思う。だって、兄ちゃん優しいもん。いっぱいいいところある。だから、兄ちゃんは自分の好きなようにすればいいんだ」


 睦月の胸中を察したかのように、氷柱は微笑んだ。


「なんだそりゃ。随分と漠然とした意見だな」

「うん。私も自分でなに言っているかわかんなくなっちった」


 えへへ、と照れくさそうに氷柱は笑った。


「とにかく、私は兄ちゃんの味方だよ。兄ちゃんにはいっぱい助けてもらったから、私が兄ちゃんを咎めることなんてできないもん」


 妹の優しい言葉に、心が晴れていくのを感じた。不器用な言葉ではあったが、彼女が心の底から心配してくれているのがわかった。


 それに、助けるなんて当たり前だ。家族で、大切な妹なのだから。


「ありがとう、氷柱。ともかく、俺は大丈夫だよ。心配する必要はないさ」


 それよりも心配すべきなのは――と、睦月は氷柱を凝視した。


さっきから、いや、夕飯を取っている時から、氷柱の様子がおかしいような気がした。何かを話すたびに、少し息遣いが荒くなっている。小さな胸をつつむパジャマが、上下しているのも見て取れた。頬もほんのりと火照っている。


 まさか――思い当たることは一つしかない。即座に確認しなければならないと、睦月は表情を引き締め、


「氷柱? ちょっとおいで」


 自分のもとへ来るようにと、手招きをした。


「え? えと、何かな?」


 氷柱の顔が一瞬曇ったのを睦月は見逃さなかった。


「いいからおいで」

「う……。まさか、ばれた?」


 氷柱はばつの悪そうな表情で、額を手で覆い隠した。その言動は、睦月の懸念を認めたようなものだった。


「やっぱり。ちょっと頬が火照っているからな。熱あるだろ?」

「まだ計ってないからわからないけど、たぶん、あると、思う……」


 椅子から立ち上がり、とことこと歩き、氷柱は睦月の隣に座った。


 全く、と吐息をついて、睦月は氷柱の額に手をあてた。沸騰間際の電気ケトルを触ったかのように、掌に熱が伝わってきた。


「たぶんどころか、絶対あるじゃないか。もうばれたんだ、正直に言うんだ。頭が痛いとか、ふらふらするとか。症状はどうなんだ?」

「ちょっと頭痛がして、体が熱いくらい、かな……」


 どう考えても風邪の症状だ。特に氷柱は、頭痛を患った場合は必ずと言ってもいいほど風邪をひく傾向があった。


「俺の心配をするより、自分の心配をしないと。兄ちゃんは勉強をサボったって、特に体に影響はない。だけど、氷柱は体を壊しやすいだろう? 自分の体を大事にしないと。もう冬はそこまでやってきているんだ。ほら、熱さまシートと薬を持っていくから、先に自分のベッドに行きなさい」

「え~」


 不可解そうに氷柱は眉をひそめた。


 子どものころから病弱である氷柱にとって、ベッドに横たわって安静にしているというのは何よりも退屈であるらしい。それに加え、一人で暗い部屋にいるのは寂しく、ともて怖いものらしいのだった。


 そんな氷柱の弱さを知っているからこそ、睦月は彼女に優しくすることしかできなかった。


「氷柱がぐっすり眠るまで、横についていてあげるから、な? 言うことを聞きなさい」

「本当? でも――」


 一瞬、ぱっ、と表情を明るくした氷柱ではあったが、すぐに、う~ん、と考え込むように俯いた。まだ、彼女からすれば物足りない様子だった。


「氷柱のために何でも聞いてあげたいけど、氷柱の体調が一番大事なんだからな。もう俺から譲歩することは――」

「一人じゃ寂しいから、ここで寝ちゃ、ダメ?」

「いいに決まっているだろう、可愛いんだよ、くそっ」


 即答だった。愛しい妹の願いを断れるほど、強固な信念を抱いている睦月ではなかった。

 氷柱を自分のベッドに寝かせ、睦月はクローゼットから布団一式を取り出し、カーペットの上に敷いた。冬里を筆頭に、男友達が遊びにくることも多かったので、こうして一式用意しているのだ。


「とりあえず、下に行って必要なものを取ってくるから、大人しく寝ているんだぞ」

「うん、わかった。――ねえ、兄ちゃん」


 氷柱は掛け布団を掛けたまま状態を起こし、部屋を後にしようとする睦月を呼びとめた。


「頼んだ私が言うのもなんだけどさ、兄ちゃん優しすぎだよ。確かに自分の体を気にかけない私も悪いけど、兄ちゃんはもっと自分に気をかけたほうがいいよ」


 睦月はドアノブに片手を乗せたまま首をひねり、氷柱へと視線を向けた。


「別に、気にかけることなんてないさ。それに、俺は勉強できない馬鹿なんだ。馬鹿は風邪をひかない、って言うだろ? だから大丈夫さ」

「別に、体の意味だけじゃないんだけどな」


 氷柱の呟きが理解できず、ひねった首をさらに傾げた。


「ともかく、明日治ってなかったら病院行くよ。母さんには俺から言っておくから」

「や、やだ! 病院はやだ! ちゃんと治すからそれだけはやめれ!」


 狼狽した様子で、氷柱は黄色い声を出した。


「ダメだ。氷柱の体調が最優先だ。診てもらうほうがいいに決まっているだろ」

「うう……。だって、また入院しないといけないかもしれないじゃん……」


 心底嫌そうに、氷柱は枕に顔をうずめた。


 入院とは自宅で安静しているのとは違って、不慣れの環境で一日を過ごすことになる。自由の利かない環境は退屈であるのは間違いないだろうし、誰かと話せないのが何よりも辛いと氷柱は言っていた。


 そんな理由もあって、彼女は体調が悪くなろうとも、自分の口から弱音を吐かないのだろう。しかし、その我慢が自分の首を絞めているということに、氷柱は気づいていないのだ。


「確かに入院は嫌かもしれないけど、そうなったときのために俺がいるだろ? 大丈夫だよ。ちゃんとお見舞いにも行くし、氷柱が望むなら一緒にいつまでもいてやるから」


 それが、妹を守るという、兄としての務めだからだ。


「やっぱ兄ちゃん、優しすぎ。でも、ありがとう」


 どういたしまして、と睦月は返し、下の階へと降りていった。


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