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雪が降っていた。澄み切った冬の空に紛れ込むように、ちらちらと舞い、地に降り立つ。


そんな光景は、この時期からすれば珍しいというほどでもないのだが、睦月の目には、幻想的なものが映し出されていた。


屋上には先客がいた。こんな寒空の下にだ。


睦月と同じく、雪でも見に来たのだろうか。ただ単に人混みを嫌い、一人、外の空気を吸いたいがためか。目的や理由はわからないが、確かに人の姿があった。


降りやまない雪が地面に降り立つのを食い止めるように、抱きしめるように、その人物は屋上の中央部に佇んでいた。


先客がいたことに驚きはしなかったが、目を疑うほどに、いや、夢を見ているのではないかと思えるほどに、様々な衝動に駆られる光景だった。

その人物が、あまりにも現実味のない容姿の持ち主――ではあったが、過去に何度もその後ろ姿を見てきた。


闇夜を脅かすような、川のように艶やかで、雪のように輝く銀色の髪が宙に靡いていた。


小さな背中、背丈。


白いダッフルコートに身を包み、白いマフラーをセンス良く巻いていた。


その後ろ姿からして、とても日本人とは思えない、肩より少し下まで伸びた美しい銀色の髪に、睦月は心を再度奪われた。


一陣の風が吹いた。ちらちらと宙を舞う雪が、風圧で慌ただしく動いた。


風に導かれるように、その人物はゆっくりと睦月へと振り向いた。


睦月は目を疑うだけでなく、声までも失った。


全てを見透かす水晶のように青白い双眸。


白磁のように輝く白い肌。


雪のように白く透き通った、美しい顔。


おとぎ話から引っ張り出された、雪の精なのではないかと思えるほどに、美しい少女がそこにいた。


 全てが、あの時のままだった。


 過去にタイムスリップしたのではないかと思えるほどに、待ち焦がれた光景が目の前に広がっていた。


 何も、変わっていなかった。


 変わっていたのは時間、場所、そして、心の有りようだけだった。


 そのあまりの変化のなさに、涙が出そうになった。待ち焦がれた光景を目の当たりにすると、こうも感情を揺さぶられるものなのかと思うほどに息苦しかった。


 優しい彼女の視線から逃れるように、睦月は目を逸らした。目を合したくなかったからではない。


 どんな言葉をかければいいのか。睦月は迷った。言いたい言葉は山のようにあるのに。伝えたい気持ち抑えきれないほどにあるのに。


 だが、実際に目の当たりにすると、うまく言葉がでなかった。自分のものではないと思えるくらい、口が重かった。


「やぁ、久しぶり」


 だが、彼女は普段通り、記憶通りの飄々とした口調で睦月を呼び掛けた。


 本当に久方ぶりに聞く、その透き通った優しい音色のような声に、睦月は顔をあげた。


変わっていない。本当に、何も変わってはいない――。


確かに、目の前に彼女がそこにいた。


「久し、ぶりです」


自分の第一声を恥じた。もっと、言うべきことがあるはずなのに。

だが、彼女はそんなことは気にする様子などなく、むしろ嬉しそうに微笑んだ。


「随分と、待たせてしまったね。随分、時間がかかってしまった。でも、こうして君に私が万全の状態であることを証明するためには、ここまで時間がかかってしまったのは仕方のないことなんだ。許してほしい」


「いえ、とんでもありません。――髪、伸びましたね」


「ああ、これかい?」


彼女は撫でるように後ろ髪に触れた。


「入院生活の間は髪が長いと不便で面倒だったから伸ばせなかったけど、こうして外にでられるようになったわけだし、伸ばしてみたのさ。どうかな?」


「すごく、綺麗です。前の髪型も好きでしたけど、今のあなたも相変わらず綺麗です」


 忌憚のない、ありったけの賛辞の言葉を送った。


「ふふ、ありがとう。でも、君にこの手の質問は愚問だったかな。君はきっと、私が坊主でもアフロであろうとも、そう言ってくれるだろうからね。君は、優しすぎるからね」


 彼女は小さく微笑んだ。その微笑みすらも懐かしかった。だが、あの時とは違う。儚げではなく、心の底から笑っている、そんな微笑みだった。


「そうそう、君に言うことがあったね。卒業、おめでとう」


 ぱちぱち、と彼女は微笑みながら拍手をした。


「三年間お疲れ様。とは言っても、その三年間のうちの数カ月しか、君とは一緒にいられなかったわけだから、君がどんな学校生活を送っていたのか、私には判断しかねるんだけどね」


「すごく充実した時間を送れました。挫折も何度かしました。だけど、いろんな支えがあって、こうしてこの場に立つことができました」


「そうかい。それは、本当によかった。本来なら、君と出会うのはあの場所になるんだろうと思っていたんだ。だけど、今日は君の卒業する日だって知って、急いで帰ってきたんだ」


 氷柱だろうな、と睦月は思った。彼女と別れてからも、氷柱は彼女と連絡を頻繁に取っていた。きっと、氷柱なりの睦月への配慮なのだろう。


「今日は君が高校を卒業する日。そして、私が卒業する日でもあるんだ。制限からの卒業さ」


 証明するように、彼女は一回転した。初めて見る彼女の私服は、相も変わらず言葉にできないほどの美を誇っていて、白に包まれたその姿は、まさに雪の精というにふさわしかった。


「そして、今日。私は君に言うことがあって、ここに来たんだ。君が私に言ってくれた言葉に対して、卒業した私からの返答。答え合わせさ。聞いてくれると嬉しい」


 自らを落ちつかせるように、ソナタは胸に手を当て、大きく、深く長い深呼吸をした。彼女の青白い瞳には、意を決したかのような炎が小さく灯っているように感じた。


小さく震える体を抱きしめ、彼女は口を開いた。


「私は、君のことが――」


「好きです」


 溢れでそうになる想いを我慢することができず、睦月は彼女の言葉を遮った。


「すみません。割り込んでしまって。だけど、もう一度あなたに伝えたかったんです。俺の、想いを。変わらないあなたへの気持ちを」


 彼女は驚いたように目も見開いていた。青白い瞳が小さく揺れているのが見て取れた。


「あなたを目の当たりにして、改めて感じました。俺は、あなたのことが好きです」


 彼女が口にするよりも先に、こっちが伝えなければならないのだ。一年、いや、たとえ何年、何十年の時が流れようとも、想いは変わらないということを証明するために。


「あなたと会えない間でも、俺はずっとあなたを好きでいられる自信はありました。だけど、あなたの姿を前にして、さらに実感しました。好きです。誰よりも、あなたのことが愛しい」


 今すぐにでも駆け寄って、壊れてしまうほど抱きしめたかった。冷静を装ってはいるが、胸の鼓動は、それはもう打楽器の如く高鳴っているくらいなのだ。


 過去の記憶に想いを馳せるように、彼女は遠くに視線を投げ、


「私もさ。会えない間、ずっと君のことを考えていた。ちゃんと勉強しているかな。冬里くんや御節ちゃんと楽しく過ごしているかな。氷柱と今でも仲良く過ごしているかな。まだ――私のことを覚えていてくれているかな」


 穏やかで、安らかな表情で、青白い瞳を睦月に向けた。


「そして、やっぱり君は変わっていなかった。私のことを覚えていてくれた。優しい人。温かい人。君はやっぱり、君のままだった」


 ううん、と彼女は頭をふった。


「一つだけ変わったところがあるね。たくましくなった。何か、目標でも見つけた子どものように、生き生きとしているよ」


「大切な人と一緒にいること。護ること。そう決めたんです。目標があると人は変わる。この年になって、ようやく気づきました」


 そして、長かった。こうして目標を実現させるための道のりは、それまでの人生が、小さな物差しほどしかないのではないかと思うほどに、長く辛い道のりだった。


「ありがとう、睦月。安心したよ。実のところ、ちょっと不安だったんだ。私の想いは今も変わっていないけど、もしかしたら君の想いはあの時と変わっているかもしれない、そう思ったんだ。だから、言うのが少し怖かったんだ。だけど、こうして君は、私にまた好きだと言ってくれた。だから、私から君に言わなければならないことがあるんだ」


「はい」


 自分の変わらない想いは伝えた。あとは彼女の口から、彼女の想いを聞くだけだった。


 この日をどれだけ待ちわびていたことか。時間にして一年と三カ月。一日一日がとてもなく早く感じていたというのに、こうして彼女の前に立つのは、本当に久方ぶりのような感覚だった。


「それじゃ、聞いてくれ。私は、私、雪野ソナタは……」


 二人の間に、無言の時が流れる。永遠にも感じられるほどの時間。眼前を泳ぐ雪が、全てスローモーションに見えた。


「私、私は――」


ソナタは言葉を続けることができない。喉に骨でもつっかえたかのようだ。

 言い淀み、俯く彼女ものとへ、睦月はゆっくりと近づき、


「頑張ってください。ソナタさん。もう恐れる必要はないんです。あなたはここに帰ってきたんですから。そして、あなたからの言葉を俺はずっと待っていたんです。もう、待てません。俺は弱いんです。もう、我慢なんてできません。あなたなりの言葉でいいんです。お願いします、聞かせてください」


 ぎゅっ、冷えた彼女の手を握った。自分はここにいることを証明するように、そして、彼女を元気づけるために。


「私は――」


 ぎゅっ、と彼女が手に力を込め返した。


 顔を挙げ、青白く光る双眸を睦月に向け、微笑み、


「君のことが好きだ。世界中の誰よりも。どんなに離れていても。どんなに会えなくても。睦月が、真白睦月が――好きだ。大好きだ」


 長年待ち焦がれた言葉を口にした。


 心の奥が満たされていくのを感じた。胸のわだかまりが瓦解していく。やっと、全てが繋がった。


 緊張の糸が切れたのか、全てを出し切った彼女はがくん、と雪で白く染まったコンクリート上に膝をついた。


「ソナタさん!」


 崩れ落ちる彼女を睦月は支えた。二人して、雪の絨毯にうずくまった態勢となった。


「言えた。やっと、言えたよ……。長かった。長かったよ。もしかしたら、言えないんじゃないかって。君に絶対に届けないといけないのに、もう、会えないんじゃないかって――」


 そこで彼女は言葉を切った。同時にポロリと涙が彼女の瞳から溢れ出た。


 初めて見た。彼女の涙を。あれだけ重たいものをこの小さな身体に背負っていたというのに、彼女は一度も涙を見せたことがなかった。誰よりも強かった彼女の涙に、睦月は体の奥がじわっ、と熱くなるのを感じた。


「あ、あれ――おかしいな。こんなもの、私から流れるはずがないのに。こんなの、とっくの昔に捨てたはずなのに……」


目にゴミが入った子どものように、彼女は涙を異端のものだと言わんばかりにゴシゴシと目をこすった。


 だが、溢れる涙は止まらない。彼女の手に、頬に、涙はあざ笑うかのようにつたう。


 それが限界だった。もう、奥から溢れ出る衝動を抑えきれなかった。


 睦月はありったけの想いで、力で、彼女を抱きしめた。小さな身体に背負った重荷を全て受けとめるかのように、強く、優しく、彼女を抱きしめた。


「ソナタさん。泣いていいんです。もう、泣いていいんですよ。もう我慢する必要はありません。俺はここにいます。そして、あなたはここにいます。約束は、果たされました。もう、何も我慢する必要はないんです」


 気がつけば、睦月の頬にもひんやりとした涙が流れていた。溢れだす想いと共に、涙が頬をつたう。だが、今は涙をぬぐっている場合じゃない。とにかく、一秒でも長く、彼女を抱きしめていたかった。


「睦月……。睦月……っ! う、ううう……うううううわあああ……うわああああん……」


 溜めていた全てを吐き出すかのように、彼女はむせび泣いた。泣くことをはばかることを知らない子どものように。


「会いたかった。会いたかったよ……。起きたとき、治療を受けているとき、安静しているとき、寝る時、夢を見ている時、ずっとずっと、君を思い出していたよ……。私はいる、ここにいる。ここにいるんだ……!」


「大丈夫です。もう、あなたを離さない。ずっとそばにいます。好きである人のそばにいられない、苦しみをわかってあげられないのは、何よりも苦しかった……」


 そして、こんなにも近くで感じられることは、何よりも嬉しかった。目の前にいる小さな少女を抱きしめられることが、何よりも幸せだった。


「離さないで……。もう、どこにも行かないから。だから、睦月もどこにも行かないで……」


「もちろんです。離すわけがありません。ずっと、ずっとお傍にいます」


「よかった……」


 安堵の息を吐き、ソナタは懐かしむように睦月の胸に顔をうずめた。


「ほら、ソナタさん。雪ですよ」


 彼女を抱いたまま立ちあがり、睦月は空を指差す。


「うん。すごく綺麗だね。ずっと、見ていたいね」


「見れますよ。これからは、ずっと見れるんでしょう?」


「うん。もちろんだよ」


 目に涙を溜めたまま、ソナタは雪のような笑顔を浮かべた。


「ねぇ、睦月」


 潤んだ瞳で睦月を見つめ、ソナタは微笑んだ。


「はい?」


「君は、誰だい?」


 初めて出会ったときと同じ問い。思えば、あの時から二人の物語は始まっていた。


 そして、物語はひとまずの完結を迎える。


 もちろん、ここで終わりはしない。二人の足跡は、これからも続いていくのだから。


「俺は――」


 睦月は握った彼女の手に力を込め、


「誰よりも、雪野ソナタを想う、ただの一般人ですよ」


 新しい物語の始まりを告げる、誓いの言葉を口にした。


 二人は顔を見合わせた。

 こんなにも近くに、愛おしい存在がいる。

 やっと掴まえた、大好きな人。

 揺れるソナタの瞳を、睦月は目を細め、正視する。

 彼女の幸せそうな笑みに、睦月も微笑んだ。

 これから先、どんなことがあろうとも彼女のそばに居続ける――。

 それが、俺の抱く、新たな目標だから――。

 その誓いを証明するために、睦月は彼女にキスをした。

 柔らかくて、温かな感触。

 今を永遠に感じていたいと思えるほどに甘美な瞬間だった。

 どちらともなく、二人は唇と唇を離した。

 数秒にも満たない儀式に、二人は顔を合わせはにかんだ。

 二人を祝福するかのように、雪が躍るように舞った。

 どちらともなく、二人は手を繋ぐ。

目を細い線にして、今日何度目になるかわからない笑顔を作る。

 そして、ゆっくりと、一歩一歩を噛みしめるように、二人は歩いていく。

 果てしなく広がる、夢のような未来に向かって。

 雪の絨毯についた二人の足跡は、どこまでも続いていった。


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