19
時は流れ、卒業の日を迎えた。
三百六十五日という、長い一年の内の一日でしかない日ではあるが、この日を迎えて思うことはただ一つだった。
一年は、本当に短い――。
瞬く間に一日一日が過ぎ去っていった。目標に向かって少しでも歩こうとすると、本当に一日の短さを痛感する日が多かった。
楽しかったあの時も、目標にひた走る今も、とにかく時間が惜しいと悔やむ日々の連続だった。
三月に入ったというのに、睦月たちの住む街には雪が降っていた。去年のクリスマスイヴから今にかけて、ほぼ毎日のように雪が降り続いていた。地域的に雪が降るのは珍しくはないのだが、この時期になっても降り続いているのは異例とも言えた。
「世間じゃ春の卒業だって言うけど、俺たちの中では普通に冬真っ盛りってとこだよな」
皮肉か、単に面白がってか、ニシシ、と冬里が笑った。いつもは制服を着崩している冬里ではあったが、卒業という門出の日であるためか、今日に限ってはきちんと制服を着用していた。
「でも、俺は言うほど苦でもないよ。冬は、好きだからね」
そう言って、睦月は卒業式の行われる体育館内から外の景色を眺めた。
一面銀世界――というほどではないが、確かに雪が積もっていた。冬里が言うように、ともて春の卒業式とは思えない景色だ。ただ、雪も今日が卒業式だということに気づき、空気を読んだのか、はたまた単なる気まぐれのためかは定かではないが、今は降ってはいなかった。
グラウンドに積もった雪を、睦月は一心に見つめた。
雪は、まるで自分の存在を証明するかのごとく、積もっているようだ。あれだけ小さく、粉のような雪も、集まればこんなにも広いグラウンドを埋め尽くすことすらできる、存在感が溢れるようなものなんだなと、睦月は改めて感じた。
私は溶けやしない。絶対に、降り積もってみせる。この世界に存在し続けてみせるよ――。
降り積もる雪を見ていると、彼女との約束の時が迫っている、そんな気がするのだ。だから、交通の乱れを嫌う社会人や、ただ単に自由の利かなくなる、寒い冬が嫌いな人には悪いが、睦月にとってはそれだけで心が晴れるのだ。
もちろん、そんなものはただの思い違いなのだろう。実際、これまでも何度か雪が積もったこともあったが、そう簡単に想いは成就しなかった。
ただ単に、彼女との約束は自分の中にあるということを再認識したいだけなのかもしれない。だが、叶うと思わなければ、叶うものも叶わないかもしれないのだ。だから、睦月は願うことをやめないだけだった。
「しかし、もう卒業か。なんか、実感が湧かないな」
どこか物寂しげに、冬里が呟いた。
そうだね、と睦月は答え、卒業式に臨む同級生を見渡した。
談笑する生徒や、思い出話に浸る生徒、今にも泣き出しそうな女子生徒など、様々な感情が体育館の入り口前に広がっていた。
彼らを見ていると、今日が卒業する日だという実感が少しずつ湧いてきた。
そうだ、もう卒業なのだ。ここから先は、冬里や御節、後輩となった氷柱と過ごす日々はあり得ない。今日で、学校生活は終わりなのだから。
そう考えると、様々な疑問が睦月の中にふつふつと湧きでてきた。
自分にとって、高校生活とはどんなものだったのだろうか。一生に一度しかない高校生活を謳歌できていただろうか。ちゃんと、笑っていられただろうか。
「卒業生、入場」
絶えない疑問を打ち払うかのように、体育館内にアナウンスが響き渡る。
卒業式の開式を知らせる報に、喧騒が入り口前に広がった。冷静を装っていた睦月にも緊張が走った。
「さて、行くか。むっつん。俺たちの門出の儀式だぜ」
睦月の右肩に手をやって、冬里が笑った。
ああ、そっか――。
睦月は冬里に微笑を返し、悟った。
今日で、この笑顔をここで見ることもなくなってしまうんだな――。
卒業式とはいえ、やはり式典というものは堅苦しく、居心地の悪いものだった。硬いパイプ椅子に何時間も座るというのは、肉体的にも精神的にも疲れてしまうものだ。校長の言葉、来賓の言葉、在校生代表の送辞は有りがたいものではあったが、心に大きく響くというほどでもなかった。
それも当然だ。卒業生にとって、一番近しい存在は同じ卒業生なのだから。
一つ一つのプログラムが終わっていき、卒業式一番の目玉、卒業生代表の答辞のプログラムが近付いてきた。
もちろん、卒業証書の授与も目玉の一つではあるだろうが、生徒の人数が多いせいもあって、各クラスの代表がクラス全員の証書を授与するため、卒業生からの注目度はあまり高くなかった。
卒業式の目玉。それはやはり、卒業生代表の答辞だ。睦月も注目している一人であった。卒業生であるのも理由だが、一番の理由は代表者が友人であるからだった。
「卒業生代表、答辞」
「はい」
凛とした声が場内に響いた。こんなにも彼女は、凛々しい声の持ち主だっただろうか。彼女はゆっくりと、一歩一歩を噛みしめるように前へと進む。
来賓にぺこりと一礼。教師に一礼。保護者に一礼。そして、彼女はゆっくりと壇上へと上がっていく。
こうして見ると、多くの時間を共に過ごしてきた彼女が大きく見えた。こんなにも大勢の視線を平然と受けきる彼女を、心の底から尊敬した。
壇上の中央にセットされたマイクの場所へとたどり着くと、彼女は今一度一礼をした。
それに反応するように、体育館にいる全ての人間が彼女に頭を下げた。
自らを落ちつかせるように、彼女――鎌倉御節は息を吸い、口を開いた。
「本日は私たち卒業生のために、こんなにも心のこもった式典、誠に有難うございます。また、御来賓の皆さま、校長先生を始めとする先生がた、在校生の皆さま、並びに保護者の皆さま。ご多忙の中ご出席してくださった全ての皆さまに、卒業生一同、心からお礼を申し上げます」
感謝を表すように、御節はお辞儀をした。
「今日で私たち三年生は卒業します。思えば、本当に短い学校生活でした。三年前にこの学校に入学したことを、私は昨日のことのように思い出すことが――」
そこから、御節は口を閉ざした。スピーチの原稿に目を通しているため、言葉に困ることはないはずなのだが――一体どうしたのだろうか。
ざわざわと、体育館に小さな喧騒が広がった。卒業生たちも声こそ出さなかったが、彼女を心配するように表情を歪めた。
しかし、当の本人に一切の緊張はないように見えた。それどころか、小さく微笑んでいるのが見て取れた。
不安や心配で広がる喧騒を打ち破るかのように、御節の凛とした声が体育館内に響いた。
「やっぱり堅苦しいのはダメですね。卒業式だと思うと、つい花を咲かせようとしてしまうのですが、私の性に合いません」
御節は両手で広げていたスピーチ容姿を丁寧に折りたたみ、スカートのポケットに突っ込んだ。
その行動に、今一度場内がざわついた。だが、それでも御節の表情に変わりはなかった。
「答辞も前もって書いてきたんですが、やっぱり、どんなに取り繕った文章を読んだって、虚しいだけだと思います。ですので、ここから先はありったけの私の想いを話します。どうか、ご清聴願います」
了承の証として、体育館内にいる全ての人間は口を閉ざした。
「突然ですが、皆さんには大切な人、大切な友達はいますか? 自分の苦しみや悲しみを一緒に背負ってくれる、大切な人はいますか? 自分の嬉しいことを一緒に喜んでくれる、大切な人はいますか?」
場内にいる全ての人間に問いかけるように、御節は辺りを見回した。
「私にはいます。とても大切で、彼らのためなら何だってやってあげたいと思えます。いつも馬鹿をやって、先生方に怒られるし、勉強は全くしない。友人である私にも多大な迷惑をかけるなど、一生徒としては問題があるかもしれません」
御節は苦笑を浮かべた。
「だけど彼らは、いつものように私を笑わせてくれました。こんなにも学校生活は楽しいんだと思わせてくれました。どれほど感謝をしても足りません。できることなら、ずっと彼らと過ごす日々を送っていきたいと思えるくらいです」
俺もだよ、と睦月は心の中で返した。誰のことを話しているかなど、考えるまでもなかった。
「そして、苦しいときはいつも、一緒に悩んでくれました。まるで、自分のことのように手を差し伸べてくれました。彼らに救われたことは多々ありました。彼らにその自覚はないでしょうが、私にとって、彼らは心の支えそのものでした」
睦月は目を瞑った。彼女の訴えにも似た言葉を、一言たりとも聞き逃さないよう、耳を傾けた。
「だから、私は彼らが悩んでいたときは、自分のことのように一生懸命考えました。どうしたら力になれるだろう。どうしたら救われるだろう。どうしたら――笑顔になってくれるだろう。自分のことじゃないのに、どうして私はこんなにも悩んでいるのだろう。答えは一つしかありません。その人が大切な人だからです。悲しむ顔を見たくないからです。いつだって、笑っていてほしいからです。そう考えながら接していく上で、ある日、その友人が私にこう言ってくれました。」
すぅ、と息を吸い込む音がマイクに入った。
「ありがとう――。そう言ってくれました。その何気ない一言に、私は涙が溢れそうになりました。私は、その人の力になれたんだと思うと、胸が熱くなりました。私は感謝されるほどのことをしたつもりはありません。むしろ、私が感謝しているのですから。素直ではない私は、なかなか感謝の言葉を言うことができませんでした。だから、この場を借りて、彼らにこの言葉を送りたいと思います」
御節は視線を卒業生へと移した。その視線は、自分に向けられているような気がした。
「ありがとう。私と友達でいてくれて」
涙ぐみながらも、御節は笑顔だった。
「私の学校生活に一片の悔いはありません。胸を張ってそう言えます。この学校に入学して、本当によかったです。私の大切な友達を、これからもずっと大切にしていきます」
視線を中央に戻し、凛とした表情を作った。
「すみません。話を逸らしてしまって。私の言いたいことは一つです。自分の抱えている重荷を一緒に背負ってくれる人、喜びを一緒に分かち合ってくれる人は、どんなに時間が経っても、かけがえのない大切な人でいてくれるはずです。絶対に、自分にとって大切な人を失わないようにしてください。友達でも、家族でも、恋人でもいいです。忘れないで。あなたは一人じゃない。必ず、あなたの大切な人を、これからも大切にしてください。卒業生代表、鎌倉御節」
一歩引いて、御節はぺこりと一礼した。
彼女が頭をあげると、会場を地鳴りのような拍手の波が包んだ。教師、来賓、父兄、在校生、卒業生。全ての人間が彼女に惜しみない賛辞の拍手を送った。
壇上から下りる御節を見つめながら、睦月もまた、拍手を送った。気難しい彼女の心の内に秘めた想いに、胸が温かくなるのを感じた。こんなにも愛されていたことが、素直に嬉しかった。そして、随分と気苦労をかけてしまっていたことを、今一度感じた。
もう少し、いや、できることならばずっと、この学校にいたかった。
御節に向けられた拍手に包まれながら、叶わない願いを胸に、睦月は天を仰いだ。
卒業式が終わり、校門前は卒業生や在校生で賑わっていた。後輩から花束をもらう卒業生、友人同士で笑ったり、肩を抱いたり、写真を撮ったり、涙を流したり――。いろんな光景が広がっていた。
睦月、冬里、御節の三人もその大勢のうちの一部だった。三人並んで、これまで世話になった校舎を見つめていた。
「ついに、卒業しちまったんだな」
「そう、ね……」
「いま思えば、本当にいろいろあった高校生活だったな」
そうだね、と睦月は頷いた。
本当に、いろいろあった。楽しいときも、悲しいときも。いろんな思い出がある。今も鮮明に思い出せる。
クラスが一致団結した体育祭。喧嘩を繰り返しながらも、最後は笑って終わることのできた文化祭。気になるあの子に誰が告白するのか、一晩中盛り上がった修学旅行。
一時は迷走していたが、それでも、自分なりに駆け抜けた三年間だと言えた。
「こうやって見ると、古びれた校舎だけど。それでも、いろいろと思い出を作らせてもらった校舎だな」
「うん……うん……」
感慨にふける冬里の言葉に、御節は今にも泣きだしそうな表情で何度も頷いた。卒業式を終えてからずっと、彼女は今にも崩れ落ちてしまいそうな表情を浮かべていた。卒業生代表として、答辞を読んだということが心を大きく揺らしているのだろう。
「数か月まえのことだってのに、懐かしいな。文化祭の準備期間であることをいいことに、暗くなるまで教室に残って、先生にばれないように、クラス全員でやった肝試しとか。本当、いろいろあったな」
「あったね。高校三年生っていう、極めて忙しい時期だっていうのにあんなことして、結局は先生にばれちゃってね。だけど、すごく楽しかった」
少しでも気を紛らわせてくれようと、受験勉強で忙しいクラスメートを集めて、そんな催しをしてくれた冬里。呆れながらも、楽しそうに参加していた御節。本当に、いろんな思い出が詰まっている。
「だけどもう、ここでそんなことはできないんだな。……なぁ、むっつん」
冬里は校舎から視線を睦月へと移し、
「三年間、どうだった? 俺たちと過ごした日々は、楽しかったか?」
真剣な眼差しで問いかけてきた。
いつになく、不安そうに揺れる冬里の瞳に、睦月の心は大きく揺れた。
いつも笑顔を絶やさず、手を差し伸べてくれた冬里にこんな疑問を抱かせてしまった。
申し訳ない――。そんな顔をさせてしまって、申し訳ない。
だから、これまで伝えることのできなかった彼らへの想いを、ここで伝えるのだ。
ここまで支えてくれた二人に、溢れ出るほどの思い出をくれた二人に報いるために。
ありったけの感謝の気持ちを――。
「もちろんだよ。この時間が、ずっと続けばいいと願うほどに、すっごく楽しかった。確かに、ここ一年の俺には余裕がなかったかもしれないけど、それでも、二人と過ごした時間は、本当に楽しかったよ」
二人に伝えていることが本音だと証明するように、睦月は笑顔を振りまいた。
「もう、ありがとうなんかじゃ足りないんだ。知らないだろ? 俺は、二人にすっごい感謝しているんだよ? 二人に何度助けられたと思う? 何度楽しませてもらったと思う? 何度笑わせてもらったと思う? 数えくれないくらいだよ。二人は、俺の誇りだよ。宝物だよ。こんなにも大切にしてくれる友達がいるなんて、自慢物以外の何もでもないよ。二人とも、好きだ。大好きだ。俺の大切な友達だ」
くるりと右に体を反転し、冬里と向き合う。
「ありがとう、冬里。彼女と別れてから、消沈していた俺を励ましてくれて。ずっと俺を元気でいさせてくれて。いつも笑顔にしてくれて」
睦月の感謝の言葉に、冬里は照れくさそうにはにかみ、
「あったりまえだろ! 友達なんだからよ! 友達の笑顔のために尽くすなんで当然だろ!」
恥ずかしさを紛らわすかのように、肩で睦月を小突いた。
「よかったよ。そう思ってくれて。もしかしたら、俺はむっつんの邪魔をしているだけかもしれねえと思っていたんだ。だけど、むっつんがこうして笑ってくれているんなら、俺はそれで満足だ。俺も大好きだぜ、むっつん」
「邪魔なんてありえない。いつだって、俺にとって必要不可欠だったよ」
最後まで笑顔を貫いた冬里に微笑んだ。
「三年間、ありがとう。冬里」
「俺こそ、ありがとうだ。三年間、世話になったな、親友」
どちらともなく、二人は握手を交わした。友情を確かめるように、これまでの時間の意味を確かめるように――。
くるりと振り返り、俯く御節を見つめた。
「ありがとう、御節。壁にぶつかる俺に、勉強を教えてくれて。目的を見失いかけていた俺をしかってくれて。くじけそうになった俺を支えてくれて」
御節が顔をあげた。目元には、今にも溢れだしそうなほどの涙が溜まっていた。
「ば、馬鹿じゃないの……。わ、私に感謝するのは、あ、当たりまえ――じゃない……」
唇をかみしめ、御節は押し黙った。
「うん。俺は馬鹿だ。こんなにも、俺を想ってくれた御節に、何一つ報いることができなかった。感謝することしかできないんだ。あのときも言ったけど、もう一度言うよ。ありがとう。ありがとう――御節」
「馬鹿……。睦月の、大馬鹿……」
溜まっていた全てのものが爆発するかのように、御節は嗚咽を漏らした。
「馬鹿……睦月の馬鹿……馬鹿……」
「うん……」
御節の全て受けとめるように、睦月はそっと御節を抱きしめた。
むせび泣く彼女を抱きしめながら、なんとか自分自身の涙をこらえた。
泣いてはいけない。ここで、泣いてはいけない。
涙は、その時までとっておくのだ。ここで泣いては、これまで支えてくれた二人にまた迷惑をかけるだけだ。
「離れていても、違う大学に行っても、またこの街で会おう。俺たちは友達だ。これまでも、これからも、ずっと友達だ」
またいつか、あの教室でみんなと騒げたらいいな――もう叶うことはない願いを抱きながら、校舎を見上げた。
瞬間、信じられないものが目に入った。
睦月たちが最後に過ごした三階の教室、さらにその上の階。つまり、屋上だ。そこに、人影が映った。
顔は確認できなかったが、あの姿は――
気がつけば、勢いよく駆けだしていた。体が反射的に動いていた。
「おい、むっつん! どこ行くんだ! これからみんなで食事会だぜ!」
背後から、驚いたような冬里の声がした。
「ちょっと用事ができた! 先に行っててくれ!」
そう簡潔に言って、睦月は校舎へと入った。
これまで、こんなに全力で走ったことがあるだろうかと思うほど、全力で駆ける。
何度も上った階段を一段飛ばしに上がっていく。上層に行くなんて、慣れっこだと思っていたのに、やけに階段が長く感じた。
早く、少しでも早く、あの場所へ――。
屋上へと続く扉の前に着いたときには、息は切れ切れだった。信じられないくらいに心臓がバクバクと激しく鼓動している。鼓動する心臓と、自らを落ちつかせようと、大きく深呼吸をした。そして――
ひんやりとしたドアノブを握り、ゆっくりと、扉を開いた。




