18
「兄ちゃん。どこか行くの?」
玄関で靴を履いていると、氷柱が背後から声をかけてきた。誰にも気づかれないよう、物音を立てずにここまで来たのだが、ばれてしまっていたようだ。さすがは我が妹というべきか。
「うん。ちょっとね」
「こんな時間に? 一人で? 親不孝者だね」
「んまぁ、それは否定できないな。これまで迷惑かけてきたからね」
「うそうそ。からかっただけだから、そんな深刻そうな顔しないでよ。それはともかく、一人じゃ寂しいだろうから、私も一緒に行こうか?」
「いや、大丈夫だよ。外は寒いし、暗くて危ないからね。それに、今日二人で歩いていると、勘違いされちゃうかもよ?」
からかうように、氷柱を見据える。高校一年生になった氷柱は、少し背丈が伸びており、雰囲気もどことなく大人びたように見えた。それでも、睦月からすれば可愛い妹には変わりないのだが。
「ふふ。それはそれで私は構わないかな。兄ちゃんを独り占めできるのも悪くないもの」
「俺も同じ気持ちだけど、今日は一人で行くよ。お留守番してなさい」
「しょうがないなぁ。ま、兄ちゃんの隣を歩く女性は、一人でいいもんね。気をつけてね」
「うん。行ってきます」
「行ってら――あ、兄ちゃん、ちょっと待ってて!」
氷柱は慌てて階段を上がっていく。そんなに物音を立てたら、こうして両親に気づかれないようにした意味がないではないかと、睦月は苦笑した。
すぐに氷柱は戻ってきた。玄関に突っ立つ睦月に近付き、握っていた布――マフラーを器用に睦月の首に巻き付けた。氷柱の愛情がマフラーの厚さと合わさったかのようで、とても温かかった。
「今日も冷えるからね。これでバッチリ」
ニコリと氷柱は笑った。本当に、少し大きくなったな、と改めて感じた。
「ありがとう、氷柱。それじゃ、行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
愛しい妹に見送られ、睦月はゆっくりと玄関の扉を開けた。肌寒い風の出迎えが、いかにも冬らしかった。
十二月二十四日。この日がどういう日であるか、きっと誰しもが知っているだろう。
クリスマスイヴ。歴史的なことや難しいことは全て抜きにし、簡潔にこの日が何の日かを言い表すと、男女が最も活発に動く日だと言えるだろう。
そんなことは思春期の頃には知っていたし、必ず街にも浮ついた雰囲気が漂うため、嫌でも意識させられることになる。その象徴とも言えるであろうイルミネーションやクリスマスツリーは、十二月に入った瞬間に街中へと飾り付けられていた。
事実、街は幾多のカップルで賑わっていた。若者から高齢者まで、多種多様のカップルの笑顔の花が街に咲き誇っていた。
睦月は彼らを一瞥し、微笑んだ。心の底から、幸せになってほしいと願った。ずっと笑っていてほしかった。愛する人と共に過ごせる日というのは、どんな時間よりも大切に違いないから。
十二月二十四日。クリスマスイヴ。男女の仲が急速に縮まる日。だが、睦月の隣には誰もいない。それでも、今日はとても大事な日だった。
男女で賑わう街をしり目に、睦月は一人、寒中を歩いていた。両耳にはイヤホンを装着し、音楽プレイヤーを介して大好きな曲を聴いていた。寒さが全身を刺すため、両手を愛用のコートのポケットにつっこみ、寒さをしのいでいた。
行き先に向かうのには電車に乗るのが一番早かったが、なんとなく歩きたい気分だったため、数十分ほどかけ、徒歩で行き先へと向かっていた。
向かうは、長らく通う機会のなかったあの場所。彼女と初めて出会った、思い出の詰まった場所。そう、病院だ。
守衛に声をかけ、閑散とした建物に入る。不気味なほどの静寂が睦月を出迎えた。
実に一年ぶりだった。この病院の常連患者でもあった氷柱は、今年に入ってからは一度も体調を崩すことなく、皆勤で睦月たちと同じ高校へ通っていた。
不思議だった。あれほど体を壊しやすかった氷柱が、あんなにも活発に動けるようになったことが。もちろん、兄として妹の体に何の心配もないとなれば、これほどの安心感はない。だが、それでも腑に落ちなかった。
まるで、彼女が氷柱の病状を持って行ってしまったかのように――。
そんなこと、きっと思いすごしなのだろう。氷柱が元気に過ごせるのであれば、これ以上の喜びはない。
よって、睦月と何かしらの関係がある人物は現在、この病院に入院してはいないため、守衛に嘘をついてしまったということになる。多少の罪悪感はあったが、何としても今日はここに来たかった。
去年までは何度も訪れた病棟を歩く。久しぶりともあってか、閑散とした廊下に恐怖を抱いた。やはり、何度来てもこの雰囲気は慣れないものだ。
できるだけ急いで、かつ物音を立てないよう睦月は階段を上っていった。
今日、ここに来た理由。それは、彼女との約束を反芻するためだった。
もちろん、この一年間彼女との約束も、彼女を忘れたことは一日もない。胸に刻んでいた。
だが、もう一度、彼女と過ごした最後の日を思い返したかったのだ。女女しいと思われるかもしれない。だが、これまで彼女の影に縛られずにやってきたつもりだ。後ろを振り返らず、前だけを見て歩いてきたつもりだ。だからせめて、今日くらいは立ち止まって、彼女との思い出に浸りたかった。
屋上へと続く階段。少ないながらも、慣れ親しんだ階段を一歩一歩、軽い足取りで登っていく。
屋上の扉の前に辿りつく。思えば、こうして一人、この病院の屋上に来た際には、必ずと言っていいほど彼女がいた。一人、寂しそうに雪を眺める彼女が佇んでいた。
もしかしたら――そんな浅はかな希望を抱きながら、ひんやりとしたドアノブをゆっくりと回した。
「――そりゃ、そうだ」
無人の屋上で、睦月は大きく溜め息をつく。
淡い希望ではあったが、打ち砕かれると意外と心に響くものだった。
これまでのことが全て嘘のように、彼女がここにいるのではないか。実はもう帰ってきていて、その美しい銀色の髪を靡かせ、雪を眺めているのではないか。そんな考えが、やはり甘いものだったらしい。
夜の屋上は、無音と暗闇に包まれていた。月の光もなく、星すら輝いていない。あるのは、気休め程度に灯された電灯だけだ。雪は降っていないし、何よりも彼女がいない。それだけで、随分と寂れ廃れた場所に思えた。
こんな時間に誰かがいるはずなんてないのだ。どうして、何もない、誰もいないこんな場所へ、好き好んでくるというのだろうか。
だが、いたのだ。何の価値もなさそうなこの場所に、儚げに佇む人が。確かにここにいたのだ。こんな寂れた場所で、一人佇んでいた彼女の目には、一体どんな景色が映っていたのだろうか。
あれからもう、一年も経った。その事実を、睦月は未だに信じることができなかった。
彼女と過ごした日々は、今も鮮明に心に焼き付いている。この場所で、雪を眺めながら話したことも。病室で二人っきりで過ごしたことも。二人で、大好きな曲を歌ったことも。全てを昨日のことのように思い出すことができる。
だが、現実は非情なものだ。いくら睦月がそう思っていても、一年という年月が経っているのは事実なのだから。そして――。
彼女はまだ、帰ってきていないのだ。この場所へ、隣へ戻ってきていなかった。
ひょっとすると、数か月もすればひょっこりと帰ってくるかもしれない。そう思っていた。何事もなかったかのように、病が完治し、元気になった姿で帰ってくるかもしれない。そう願っていた。
だが、彼女はいない。現実は、数々の淡い希望を打ち砕いた。
もしかしたら、彼女は――。
そんなこと、考えたこともなかった。考えること自体が愚かなことだ。何故、そんなことを危惧しなければならない。どうして、彼女との約束を疑うのか。
約束したのだ。必ず、また会おうと。
だから、睦月は諦めてなどいなかった、希望を捨ててなどいなかった。今でも、信じ続けていた。信じることは、何よりも強いことだと教えられたのだから。
いつの日にか、必ずまた出会えることを。これまで笑えなかったぶんだけ笑って、明るい未来を歩くのだ。外の世界に憧憬を抱く彼女の手を引っ張って、いろんな場所を巡るのだ。そうして、また冬の季節が巡ってきて、雪を眺めるのだ。
彼女と二人聴き、歌った曲を口ずさむ。
忘れない。彼女との数カ月という短い時間を、忘れない。
思い出はポケットにしまって、いつかまた出会えることを信じて。
そうして、また出会ったときは、二人で雪の絨毯に足跡をつけよう。
その日を夢見て、祈り続けよう。
屋上の中心に佇み、睦月は目を瞑り、祈りのポーズをとった。
刺すような風が頬を撫でる。髪をかきあげる。
覚えています。まだ、あなたとの約束を――。
いつまでも、俺はあなたを待ち続けます――。
だから、神様。どうか、俺の願いを叶えてください――。
俺の大切な人を、奪わないでください――。
俺はまた、彼女と雪を見たいんです――。
信じて、待ち続けるしかなかった。
ひんやりとした感触が頬を撫でた。
ゆっくりと、睦月は目を開いた。
目の前に降り落ちる、無数の白い花弁。
踊るように宙を舞い、闇夜に紛れていく。
雪が、降っていた。
自らの存在を示すように、雪が降っていた。




