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「ふぅ……。疲れた」

 静寂に包まれた自室に、小さな吐息が漏れた。机の端に置かれていた麦茶を一気に飲み干すと、乾いた喉が一瞬にして潤った。


 少し休むか、とペンを置き、背もたれに勢いよくもたれかかると、重い体を支える椅子が小さく軋んだ。大きく伸びをして、そのまま体をひねらせると、悲鳴をあげるように関節が鳴る音がした。机に向かうという、慣れていなかった日々の連続に、体が疲れを覚えているのだろう。


 御節から出される毎日の課題が、ようやく半分終えたところだった。放課後の御節による、鬼の個別指導に沿った課題は全く楽なものではなく、頭を悩ませるものばかりだった。


 ただ、微々たるものではあるが、確実に一歩一歩進めているような感触はあった。授業中とにかく集中し、疑問に思うところは教師や御節に質問し、放課後は御節の個別指導を受け、家では体調を崩さない程度に机に向かう。まだまだ遠いだろうが、確かに目標に少しずつ近づいていけているような気がした。


 目の前に掌を掲げ、ぼんやりと見据える。


 大丈夫。やるべきことはわかっている。恐れもない。不安もない。信じ続ければ、微々たるものでも結果は出てくるのだから――。


 よし、と小休止を終え、ペンを持ち直し、今一度机に向かおうとする。


 それとほぼ同時に、ドアが小さくノックされる音がした。律儀にノックをする人間は、家族で一人しか心当たりがない。


「どうぞ」


 睦月の返事に、ドアが小さく軋む音を立て、開いた。


 予想通り、来訪者は氷柱だった。十一時を回っていたということもあり、可愛らしいパジャマに身を包んでいた。


「勉強してた?」

「ううん。大丈夫だよ。今は休憩していたところだから」

「そっか」


 ちょこちょこと小動物のように歩き、氷柱はベッドに腰を下ろした。


 睦月はペンを机の上に再度置き、くるっ、と椅子を回転させ、


「どうかしたのか?」


 ベッドに座り、無言のまま俯く氷柱に向き直り、なるべく優しい口調で声をかける。


「兄ちゃん、最近勉強頑張ってるなぁ、って思って。夜遅くまで起きてるときもあるし、心配になって」

「そこのところは大丈夫だよ。体調は崩さない程度に留めているからね」

「それもあるけど、兄ちゃんの心が心配だったの。ソナタさんが倒れて、海外に行っちゃって。兄ちゃんが壊れちゃうんじゃないかって。優しすぎるから、目の前の大切なものが無くなってしまったときの喪失感は尋常じゃないものだろうから」


 自分のことを気にかけたほうがいい、氷柱が過去に行った言葉の意味が、ようやくわかったような気がした。他人を気にかけるあまり、自分が信じていたものが裏切られたときの喪失感を差していたのだ。


「兄ちゃんの気持ちはわかるし、目標は応援したいよ。だけど、好きでも何でもなかった勉強のために、死に物狂いで机に向かって。兄ちゃんが苦しんでまで、そんなに頑張る必要はあるの?」


 顔を上げ、必死に訴えかけてくる氷柱の目には、じんわりと涙が溜まっていた。


 自分のためにそんな表情をしてくれる氷柱が愛しくて、睦月は穏やかな表情を浮かべた。


「氷柱。小さい頃に俺が言ったこと、覚えてる?」

「小さい、頃?」


 氷柱は頭にクエスチョンマークを浮かべた。


「そう。俺たちが幼いころ、氷柱が高熱出して、すんごく精神的に弱ってたとき、俺が言った言葉」


「あ……」


「思い出した?」


「覚えてる。忘れるわけなんてないよ。だって、あの言葉があったから、こうして私は生きているんだもん」


「それは大げさだろう」


「大げさなんかじゃないよ。だって、小学生になったばかりだったくらいに言われた言葉なのに、私まだ覚えてるもん。それくらい、私にとっては忘れられない言葉だったから。目の前が揺れて、体が全然思うように動かなくて。このまま死んじゃうんじゃないかって思ってた時、兄ちゃんが手を握ってくれたよね。そして――」


「怖いんなら、ずっと兄ちゃんが一緒にいてやる。泣きたかったら泣いてもいい。俺がずっと一緒にいてあげるから、何も心配しなくてもいいし、我慢してなくもていいんだよ」


 幼き頃の言葉を、今一度復唱した。今も変わらない姿勢から、一言一句違わず言うことができた。


「ずっと看病し続けたのはよかったけど、翌日には俺に風邪が移ったよね。今思えば、俺が風邪をひいたのって、それくらいしかないね」


 懐かしさのあまり、自然と笑みがこぼれた。


「いま思い返すと、すんごく恥ずかしいことを口走ってるよね。子どもの頃だから、そんなことすら気にならなかったんだろうけど。だけどね、氷柱。俺は今も、その想いは変わってないよ」


「兄ちゃん……」


「俺がこうやって、誰かを助ける職につきたいと気がつけたのは、もちろんソナタさんの影響もあるけど、一番は氷柱のおかげなんだよ」


「え?」


 氷柱は不思議そうに首をかしげた。


 睦月は椅子に座ったまま、キャスターを使ってベッドに座る氷柱の目の前に移動した。


「俺は氷柱をずっと守り続けたい、そう思っていた。だけど、結局は口だけで、何か努力をしたことなんて一度もなかったんだ。ソナタさんとの約束、友人たちからの叱咤で、俺の目指す場所は定まった。でも、その道しるべになってくれたのは、氷柱に他ならないんだ。氷柱は、子どものころから俺にとって、護る対象だったから」


 目と頬を緩め、ぽん、と氷柱の頭に右手を置き、


「皮肉だよね。ソナタさんがいなくなって、こんなことに気づくなんて。俺は胸を張って、彼女が大切な人だって言えたはずなのに。結局は目を背けていただけなんだ。ソナタさんや、氷柱がいつまでも傍にいるものだと思っていて、事実から逃げ続けていただけなんだ。護るべきものは、目の前にいるっていうのに」


 愛おしい妹を優しく撫でた。


 いつものような満開の笑顔はそこにはなく、瞳を潤わせ、憂いを帯びた表情を氷柱は浮かべていた。


「彼女があんなになってまで苦しい思いをしていたというのに、俺は全然力になってあげれていなかったんだ。だから俺は、大切な人や、誰かにとって大切な人を守れる人間になりたい。自己犠牲や自己満足だと言われてもいい。それでも、俺は大切な人を失ってほしくない。恋人や家族、友達、誰にだって、かけがえのない人はいるんだから」


 氷柱は頭に置かれた睦月の手を掴んで宙に下ろし、


「兄ちゃん……十分だよ。私は、ソナタさん、冬里さんに御節さん、お母さん、お父さん、学校の友達、そして兄ちゃんがいるだけで十分なの。兄ちゃんがどんなに悔やんだって、認めなくたって、私は兄ちゃんがそばにいてくれるだけで十分すぎるの。兄ちゃんがそんなにも頑張ってくれる必要はないの」


 両手で包みこんで、ニコリと笑顔を作った。


「だけどね、初めて兄ちゃんが意思を、意志をもった。それなら、私は止めない。それが兄ちゃんの想いであるなら、私に止める権利なんてない。兄ちゃんの意志に、私まで含んでくれている。そんなの、咎めることなんてできるはずないもん。頑張ろう、兄ちゃん。私もその夢に向かう手助けはするから」


 睦月は空いていた左手を、右手を包む氷柱の両手に添えた。


「夢に近道なんてない。いつだって道は険しい。俺はその道を逆走し続けていた。夢は見つけた。だけど、まだ俺はスタート地点にしか戻ってこれていない。だから、こうやって一歩一歩進んでいくしかないんだ」


「うん。じゃあ、私は兄ちゃんの背中を押すね。兄ちゃんが立ち止まって、逆走しそうになったときは、背中を押してあげる。だって、兄ちゃんは私がいないと何もできないからね」


「ああ。みんながいてくれて、ようやく俺は何かできるからな。よろしく頼むよ、氷柱」


「うん、任せて。それじゃ、勉強の邪魔をしちゃいけないからもう行くね。おやすみ、兄ちゃん」


 ぴょん、とベッドから飛び降り、氷柱は部屋を後にしようとする。


「氷柱」


 睦月は、ドアノブを握った氷柱を呼びとめ、


「いつか俺が誰かを救える人間になったとき、まだ氷柱が辛い思いをしないといけない身体だったら、俺が救ってみせるから」


 氷柱は驚いたようにくりくりとした目を見開き、小さく頷いて、


「ありがとう、兄ちゃん。生まれたときからずっと、大好きだよ」


 氷柱も目を線にして、にっこりと頬を緩ませた。


「俺もだよ、氷柱。生まれてきてくれて、ありがとう」


 大切な氷柱。大好きな氷柱。辛い時も楽しいときも、幾多の時間を過ごしてきた大切な妹。この子を守るためならば、この身を削っても構わない。


 そう、大切な人のためならば、努力することは厭わない。


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