10
日は流れ、十二月ともなると、本格的に寒くなってきていた。雪が降る日は相変わらず多く、日によっては雪が積もることもあった。マフラーや手袋などは、もはや手放せない、必需品と化していた。
寒さに身をすくめ、足を雪にとられることもありながらも、睦月は毎日のようにソナタの病室へと通い続けていた。あの日を境に、冬里たちも見舞いに行くこと日もあり、氷柱に至っては、境遇が少し似ているためか、睦月と同じく頻繁に見舞いに行くこともあった。おかげで、ソナタの笑顔は日に日に増えていった。
「ねぇ、睦月。またあの曲を聴きたいな。ダメかな?」
睦月が学校の帰り道で買ってきたリンゴを食べ終わると、ソナタが上目づかいで頼んできた。
本当に好きなんだなぁ、と睦月は微笑んで、ブレザーの内ポケットから音楽プレイヤーを取り出した。
音楽プレイヤーを渡すことをソナタに提案したこともあったのだが、「一人で聴くよりも、誰かと一緒に聴いたほうがいいから」と、彼女は頑なに断り続けてきた。変なところで頑固な彼女に苦笑しながらも、彼女の指す「誰か」というのが、他でもない睦月自身であることが何よりも嬉しかった。
二人はいつも通り、それぞれの片耳にイヤホンをつけ、音楽に耳を傾けた。切なさを感じさせるギターの音から始まり、ボーカルが静かに歌いだした。
浸っているのか、情景を思い浮かべているのか。ソナタは目を瞑り、流れる音楽に耳を傾けていた。曲調に合わせるように、小さな体をゆっくりと動かしているソナタに頬を緩ませつつ、睦月も同様に曲に聴き入った。
五分ほどの至福の時間が終えると、ソナタはゆっくりと目を開き、
「この曲、本当に好きだ」
ポツリと、しみじみとした口調で呟いた。だが、言葉とは裏腹に、瞳は悲哀の色に満ちていた。これまで何度もこの曲を聴いてきたが、こんなにも切なそうな表情を浮かべたことはなかった。
「いつか私も、積もった雪の上に足跡をつけたいな」
窓越しに雪を見つめ、呟いた。表情こそ見えなかったが、その語調は哀愁漂うもので、きっとまた寂しい笑みを浮かべていたことだろう。
「歩けますよ。冬になれば、こうして雪が降り積もる日はいくらでもあるんですから。いつか、俺と一緒に歩きましょう」
胸に秘めていた、揺るぎのない想いを告げる。前から抱いていた、一つの願いでもあった。
今はまだ厳しいかもしれない。だがいつか、外出ができるくらいに容体が安定した暁には、雪に足跡をつけるだけでなく、いろんな場所に二人で行きたかった。きっと、彼女も笑ってくれるようなものが、外の世界にはいっぱいあるだろうから。
ソナタは驚いたように顔色を変え、睦月へ振り返り、
「本当かい? 本当に、一緒に歩いてくれるって約束してくれるかい?」
詰めるように、食いよるように、ソナタが顔を近づけてくる。口をつきだせば、唇が合わさってしまうのではないかと思えるほどに近すぎる距離だった。緊張のあまり、息をすることすら忘れ、視線だけをさまよわせた。
彼女の目は本気だった。冗談の様子などまるでなく、真意を確認するかのように、睦月の目を一心に見据えた。
「もちろんです。俺でよければ、ですけど」
密着とすら言えるほどの距離にどぎまぎしながらも、瞳を見つめ返し答えた。
ソナタは嬉しそうに微笑んだ。青白い瞳が、小さく揺れ動いていた。
「君の他に、誰かいるのさ。お父さんとお母さんを除けば、私はこれまで一人だったんだ。君じゃないとダメなんだ」
「わかりました。いつか行きましょう。ソナタさんが元気になったときに。きっと、楽しいことばかりですよ」
「そっか。それじゃ、まだ生きていないといけないね。希望が湧いてきたよ。うん。私はまだ、生きていたい」
悲壮な決意をするように、ソナタは一人、こくりと頷いた。ソナタの真意がわからず、睦月はただ押し黙るしかなかった。
「ねぇ、睦月。久しぶりに雪でも見に行かないかい? 最近見に行ってなかったし、この曲を聴いてると、雪を見たくなるよ」
「いいですね。行きましょうか。でも、ちゃんと温かい格好をしてくださいよ。もう十二月なんですから、あの時と寒さは雲泥の差ですよ」
「わかってるさ。ほら、行こうよ」
急かすように、ソナタはぽんぽん、とベッドを叩いた。いても立ってもいられないのか、足早に靴を履き、上着を羽織った。準備万端といった様子に、睦月の頬は緩んだ。
暗くなるまで二人は屋上で雪を眺め、お互いが大好きな曲を口ずさんだ。最近調子が悪かったのが嘘のように、ソナタは元気そうに雪を眺めていた。
こんな日が、ずっと続けばいいな――。
これまでにも何度も思ったその言葉を、雪を眺めながら、睦月はポツリと呟いた。
まるで、現実から目を背けるかのように。何度も何度も、心の中で願った。
その日は日曜日であったが、睦月たち高校二年生の面々は平日のように各クラスで授業を受けていた。
高校二年生の終盤ともあって、来年から始まる受験戦争の前準備として、補習を行っていた。
せっかくの休日がつぶれてしまい、部活に精を出したかった者や、家で惰眠をむさぼりたかった者など、不満を漏らす者がほとんどだった。
もちろん、その中には睦月も含まれていた。勉強することに対して、今は文句を垂れるつもりはないが、休日にこうして学校に来るというのは不満しかなかった。何せ、日曜日というのは、ソナタと一日中過ごすことのできる、数少ない天国のような日なのだから。
クラスにはいつもと違い、緊張感がなかった。教師が教壇に立っているというのに、今日という日の不満を当てつけるかのように、居眠りをするものも少なくはなかった。
一応授業だからと、一念発起した睦月も最初こそ授業を受けていたが、やはり気だるさが先行してしまうものだった。
ノートと睨みあいを続けることに疲れを覚え、睦月はふと、外を眺めた。グラウンドでは見慣れた顔のいない生徒たちが部活に精を出しているところだった。
そんな彼らを見て思うことは、羨ましいの一言に尽きた。今すぐにでもあそこに混ざって、体を動かしたかった。ここ最近、似合いもしない勉学に取りくんでいるということもあって、体に窮屈さを覚えていた。
教師が板書を続けてはいたが、少しくらいはいいだろうと、睦月はぼんやりと外を眺めながら、物思いにふけた。
こうやって何も考えずぼんやりしていると、自然と頭にはソナタのことばかり浮かんできた。完全に末期症状だ。自他ともに認めていることだが、本当に彼女のことが好きで好きで仕方がなかった。こうして勉学にすら励む気がないのだから、空を飛ぶ小鳥たちのように、一刻も早く彼女のもとへ向かいたかった。こうして一緒にいれない時間に、閉塞感を覚えるようになっていた。
不意に、ポケットの中に入れておいた携帯電話が震えた。
こんな時間に誰からだろうか。教師の目をうまく逃れるように、机の中で携帯電話を開いた。
氷柱からだった。授業中にメールを送ってくることは大して珍しくもなかったため、特に驚きなどしなかった。日曜に補習が追加された睦月たちとは違い、氷柱は通常通り休みだった。両親がどちらとも用事で家を空けていることから、一人、家で過ごすのが苦痛でメールを送ってきたのだろう。
こうして授業中にメールに付き合うことは頻繁にあった。むしろ、これまで真剣に授業を受けてこなかった睦月にとっては、褒美以外の何物でもなかったのだ。無論、今の睦月は目標もできたため、授業中に携帯電話を触るのはいささか気が引けるのだが。しかし、愛する氷柱のメールならば無視はできなかった。
今日の話題は何だろう――と浮き立つ気分が表にでるのを抑え、メールを開いた。
と、ほぼ同時に――
教室にいる誰もが身を震わせるほどの、まともに授業を行っているのであれば、あり得るはずもない衝撃音が教室に響いた。
教師も含め、全ての人間が音の方向――睦月へと視線を向けた。
音は、睦月が勢いよく立ちあがった反動で椅子がひっくりかえったことにより生じたものだった。
誰もが訝しげな視線を睦月へ集めるが、睦月はそんなことなどお構いなし、否、気づいてなどいなかった。
授業中であるにもかかわらず、席を立ち、ケータイを開いたまま、茫然と立ち尽くした。
手がぶるぶると震え、唇までもがわななくのが自分でもわかった。鼓動が急速に高鳴り、心臓が掴まれたかのように息苦しい。
はぁ、ふぅ、と大きく深呼吸して自分を律しようとするも、全くといっていいほど効果がない。それに、どんなに落ちつこうとも、突き付けられた現実は変わらない。
「真白――くん」
教師が彼の奇行を咎めようと名前を呼んだが、彼女は口を閉ざした。
睦月のあまりの狼狽ぶりに、かける声に迷ったように見えた。
「おい、むっつん!」
右隣に座る冬里が、睦月の右腕を掴んで揺すりかけてくる。
ああ、うん、と応じるも、彼の呼びかけはほとんど耳を素通りしていった。
「どうしたんだよ? 何かあっ――むっつん!?」
彼が言い終えるうちに、睦月は一目散に教室を出て行った。授業中で誰もいない無人の廊下を無我夢中で走った。
背後から冬里や御節、教師の呼びかける声が聞こえるも、睦月は構わず、ケータイを握りしめ、廊下を、階段を駆ける。上履きを履きかえもせず、必死の形相で外を駆けた。ひんやりと、冷気を宿した風が頬や首筋を刺すも、気になどしていられなかった。
本当に、何か夢でも見ているのではないか。いや、夢であってくれと、睦月は走りながら、もう一度ケータイを見た。
だが、ディスプレイにはさきほどと何も変わらない、氷柱からの非情なメールが表示されていた。
走りながら、睦月は気付いた。
連日のように降り続いていた雪が、今日は降っていないということに。
氷柱の文面には、簡潔にこう書き記されていた。
「ソナタさんが倒れた」
血相を変えた睦月が病院に着いたのは、それから数十分ほど経ったころだった。
「兄ちゃん!」
「ソナタさんは! ソナタさんはどうなった!」
息も絶え絶えながら、睦月は血気迫る形相で氷柱に詰め寄るように訊いた。
「今、手術室に入ってる……」
氷柱の視線の先に、睦月も視線を投げる。手術室には「手術中」とランプが灯っていた。今この瞬間、これまで何事もなかったかのように過ごしていたソナタは、手術を受けているのだ。
困惑する頭を落ち着かせようと、設置されていた長椅子にどっしりと重い腰をかける。やりきれないと言わんばかりに頭を抑え、ガリガリと頭をかいた。
「氷柱、何があったんだ? どうして、こんなことになったんだい?」
しぼりだすように声をだす。自分でもびっくりするくらいの低い声だった。
「一人で家にいるのは暇だったから、ソナタさんのお見舞いに来たの。最初は元気だったんだけど、突然うずくまるように咳をしはじめたの……」
辛い記憶も思い出したように、氷柱は狼狽し、
「そしたら、咳と一緒に口の中から血を吐いて……。白いベッドが、あ、赤くなって――」
我慢という名の蓋をしていた鍋が沸騰したかのように、泣きじゃくった。
「わ、私のせいだ! あまり具合のよさそうじゃなかったソナタさんに無理やり話をさせて――だから、だからソナタさんは――」
「氷柱!」
動揺をかき消そうと、氷柱の両肩を掴む。氷柱は驚いたように涙の溜まった目を見開き、不安そうな表情で睦月を見つめた。
「氷柱のせいじゃない。自分を責めるな。こうして休日に見舞いに行く、優しい氷柱のせいなわけないんだから……。ごめん、問い詰めるような訊き方をして……」
「兄ちゃん……。兄ちゃん……」
泣きじゃくる氷柱を安心させるように、優しく抱きしめた。震えの止まらない小さな身体を、同じく小さく震える自分の身体と重ね合わせた。
とはいえ、睦月も気が気ではなかった。吐き気を催すほどの不安が心の中に広がっていた。冷静を装ってはいるが、今すぐにでも目の前の手術室の扉を蹴り破り、ソナタのもとへと駆け寄りたかった。
だが、そんなことができるはずがない。今できることは、彼女の安否を祈り、ひたすらに待ち続けることだけだった。
それから数時間ほどして、ソナタの母親、雪那が駆け付けた。表情は青ざめ、頬はげっそりとこけていた。
「睦月くん……」
「雪那さん……!」
すがりつくような視線を、睦月は雪那へと送った。
その視線から逃げるように、雪那はソナタのいる手術室へと目を向け、
「やはり、こうなってしまったわね……」
ポツリと、悟っているかのように呟いた。
「それはいったい……どういうことですか……?」
反射的に訊き返した。ゆっくりと、雪那が睦月のほうを向く。その瞳には、深い哀れみの色が滲んでいた。
聞きたくなかった。頭の中で警鐘が鳴り響いていた。聞いてはいけない。ここより先は、絶望しかないことだと警告するように。
「時が来たら話すわ。今は待ちましょう。あの子の無事を祈って……」
悲壮感漂う雪那の横顔に、睦月はただ押し黙るしかなかった。




