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 体の弱いソナタと過ごしていくうちに、睦月の中に、ある感情芽生えてきた。氷柱というも存在もあって、もともと持ち合わせていた感情ではあったが、性に合わないという理由から敬遠してきたものだった。


「あれ? む、むっつん? な、何をしてるんだ?」


 視線を上に移すと、顔を真っ青にした冬里が机の前に立っていた。


「何をしてるって。一応、勉強のつもりだけど」


 机の上に置いてあるノートと教科書が見えるように、態勢を整える。


「なるほど……。勉強ね。勉強。べんきょう。ベンキョウ……」


 たわごとのようにぶつぶつと呟く冬里。う~ん、と考え込むように唸り、


「むっつん? それがどういう意味かわかって言っているのか?」

「どういう意味って。そのまんまさ。学問を学ぶことだろう?」


 はあぁ……、と大きな溜め息をつき、睦月の肩にごつごつとした手を置いた。


「むっつん。ちょっと疲れてんだろ? 最近は休まずに彼女のところに行っているみたいだし、少し疲れが溜まってんだよ。だからこんな奇行に出てるんだよ。な? 保健室行こうぜ?」

「保健室? 俺を保健室に連れて何をする気だよ? 俺にその気はないよ」

「んなことわかってるわ! むっつんを心配してるだけだろうが!」

「あんたたちは何を騒いで――む、睦月? 一体どうしたの?」


 呆れた顔をしてやってきた御節も、驚いたように目を見開き、疑うかのように目をこすった。


「だから勉強だよ。見たらわかるだろう?」

「ま、まぁ、そうなんだけど……。ちょっと、信じられなくて……」


 御節は今もまだ信じられないといったように、まじまじと睦月と教材を交互に見返した。


「二人してどうしたんだよ……。俺が勉強するのはそんなにおかしい?」

「「おかしい」」


 即答だった。普段息の合わない二人にしては珍しい、シンクロの瞬間だった。


「失礼な奴らだな……。確かに、今までの俺からは想像しにくいことかもしれないけど、そこまで驚かなくたっていいじゃないか」

「もちろん悪いことじゃないわよ。でも、どうしていきなり勉強する気になったのよ」


 確信をつく御節の問いに、睦月は逡巡した。別にこの二人に話すことに大した抵抗はないのだが、どこか気恥ずかしいものがあったのだ。


「ちょっと、いろいろとあってね。一念発起ってわけさ」

「彼女のためか?」


 びくっ、と体を震わせ、発言した冬里に目を向けた。腕組みをして、窓際に寄りかかる冬里の表情には穏やかな笑みが浮かんでいた。その優しげな眼は、睦月の心の内を見透かしているかのようだった。本当に、この友人には隠し事はできないな、と睦月は吐息をついた。


「うん。まぁ、ね。彼女を少しでも護れるように勉強しないとな、って思って。動機としては不純かもしれないけど」

「不純なんかじゃないさ。大切な人を大切にしようとすることの何が不純だっての。そんな純粋な動機が不純なら、社会は今頃不純にまみれてるさ」

「そうだね。きっとそうだ。さんきゅ、冬里」


 笑顔で肯定してくれる冬里の優しさが心底有りがたかった。いい友人に恵まれたものだと、睦月は冬里を、そして御節に視線を移した。


 御節は物憂そうな表情を浮かべていた。瞳もどこか沈んでおり、暗い印象を抱いた。


 不意に視線があうと、御節は逃げ出すかのように視線を逸らし、


「あんたが決めたんなら、私に口出しする権利はないわ。せいぜい頑張ればいいわよ」


 何よ、デレデレしちゃって――御節はどこかにやり場のない葛藤を吐きだすかのように呟いた。そして、どこかむず痒そうに表情を歪め、


「もし、あんたが本気で勉強するっていうなら、私が教えてあげないでもないわ。何かあったら頼りなさい」


伏し目がちにそう言って、優しく睦月の机を蹴った。


「不器用なやつだなぁ……」


 窓から身を乗り出し、グラウンドを眺める冬里の横顔には、どこか複雑そうな苦笑が浮かんでいた。


「あ、そうだ。冬里、御節。ちょっと頼みがあるんだけど……」





 十一月も終わりが近づいてきた。朝は刺すような空気が広がっているほどに、寒い日が続いていた。季節、そして地域的なこともあって、雪が降ること日も多々あった。十二月にもなれば、きっと降り積もる日もあることだろう。


 その日はソナタの体調が比較的良好だったため、事前に約束したとおり、冬里ら三人と病院へとやってきていた。


「なんか緊張するな……。面白半分の噂として流れていた人に会えるってのは……」

「そんなに緊張する必要はないよ。同じ人間なんだから。ただ、少しだけ変わった人だけだよ」

「私は緊張というよりも、ワクワクするかな。その人の話をするとき、兄ちゃんすんごく生き生きしてるもん」

「……別にそんなことないぞ。俺はいたって普通だ」

「そうやって冷静ぶるところが余計に怪しいよ」


 氷柱は会話に参加しない御節を複雑そうな表情で見やった。


「御節? あまり元気がないように見えるけど、どこか具合でも悪いの? それとも、今日はあまり都合がよくなかった?」

「別に、そんなことないわ」


 言葉少なに否定する御節ではあったが、やはりその横顔はどこか浮かないものに見えた。ここ最近の御節は、物思いにふけていることが多いように思えた。


「乙女の心は上の空、ってことさ」


 冬里はそう言うと、睦月の肩に手を置き、「やれやれ」と首をふった。


 はあ、と答えはしたが、冬里の言葉が何を意味しているかは全くわからなかった。


 ソナタのいる病室前に着くと、確認のため、二、三度小さく扉をノックした。


「ソナタさん。入っても大丈夫ですか?」

「大丈夫だよ」


 答えが返ってきたのを確認して、ゆっくりと扉を開けた。三人に「少し待っていてくれ」と一声かけ、一足先に入室する。


「こんにちは。今日は前もって連絡したように、友人と妹を連れてきました。都合のほうは問題ありませんか?」

「本当に連れてきてくれたんだ。もちろんさ。大歓迎だよ」


 ソナタの了承を得て、睦月は病室の外にいる三人に声をかける。恐る恐る、三人は病室へと入室する。


 三人がソナタと対面した瞬間に、息を飲んだのがわかった。目の前にいる美少女の存在が信じられないといったばかりに目を見開き、表情を強張らせていた。きっと、初めてソナタと出会ったとき、自分もこんな顔をしていたのだろう。


 ソナタはそんな三人の顔を見回し、ニコリと微笑んだ。


「こんにちは。今日はわざわざありがとう」

「あ……。いえ! その、こちらこそ……」


 狼狽した様子で、折れた枝のようにぺこりと冬里はお辞儀をした。普段の冬里からは想像のつかない低姿勢だった。氷柱と御節も冬里に倣い、深々とお辞儀をした。


「ふふ。そんなにかしこまらないで大丈夫だよ。いつも通りの君たちを見せてくれると嬉しいな」


 穏やかな表情で、ソナタは三人を今一度見渡した。


「君たちのことは、睦月からいろんなことを聞いているよ。いかにもスポーツマンといった君が、冬里くん。落ちついた印象を醸し出している君が、御節さん。そして、睦月と目元がそっくりな妹の氷柱ちゃんだね」


 三人は驚いたように顔を見合わせた。


「名乗る必要もありませんでしたか。よくご存じでしたね」


 おお、冬里が敬語を使っている、と睦月は一人感心した。


「こうした空間で過ごしていると、私から出せる話題は限られるからね。だから、睦月に学校生活や友人についてはよく話をしてもらっていたんだ。睦月の口からは特に君たちの話がでていたんだ。だから、名前はよく覚えているよ」

「あの、むっつんは俺たちのことをどう言っていたんですか?」


 伏し目がちに冬里が尋ねた。


「ふふ、答えていいのかい、睦月?」


 ソナタは面白おかしそうに笑いながら、睦月に視線を投げた。


「いや、ダメでしょう……。本人たちの前で暴露されると、俺が恥ずかしいじゃないですか」


 彼らのことを悪く言ったつもりはもちろんないが、自分がどう思っているかについてはほとんど話したのだ。内心を知られてしまうなんて、好きな女の子が露見されるのと同様の羞恥でしかない。


「知りたいです! 兄ちゃんが私のことをどう想っているか、すんごく知りたいです!」


 興奮した様子で氷柱が賛同すると、


「……私も、よろしければ教えてほしいです」


 それまであまり口を開いていなかった御節もが、ポツリと呟いた。


「どうやら、多数決では負けているらしいよ」

「ですが、それはあまりにも俺が損をするだけなのでは……」


 それに、出会ったばかりで話をする内容でもないだろう、と睦月は心の中で呟いた。


「別に損ではないだろう。むしろ、君が彼らのことをどう思っているか知ってもらえるチャンスじゃないか」

「チャンスって、別に知ってもらいたいとは思ってないです。ということで、言ってはダメです。絶対言わないでくださいよ」

「なんだぁ、むっつん? その言い方じゃ、まるで言ってほしいみたいだぜ? 押すなよ? 絶対押すなよ! ってやつだな」

「違うよ! 念押しにしているだけだから!」

「う~ん。だけど怪しいよね。こうして頑なに嫌がるなんて……。兄ちゃん、私たちの悪口ばっかり言ってるんじゃないよね?」


 怪訝そうな表情を氷柱が向ける。


「ないない。そんなわけないよ」


 むしろ、三人の好きな部分だけを話したはずだ。だからこそ、暴露されるのは恥ずかしいのだ。


「まさかむっつん……。俺のことをカッコいいだとか、イケメンだとか、本当は大好きなんですとか話しているんじゃ……。ドキドキ」

「んなわけないだろ! 何がドキドキだ、気持ち悪い!」

「ああ。だけど、ド変態だとは言ってたよ」

「おい! 間違いないけど、紹介する部分間違えてるだろ!」

「言ってないよ! ソナタさん! そんなこと俺は一度も言ってないでしょう?」

「ふふ。つい君たちが楽しそうだから、からかっただけだよ。それにしても、本当に君たちは仲良しなんだね。こうして見ているだけでも伝わってくるよ」


 その嬉しそうで楽しそうな表情からして、本心なのだろう。


 ソナタはひらめいたように、ポン、と手を叩いた。


「それじゃこうしようか。私が要点を抜粋するというのはどうかな? それなら全部言う必要もないだろうからね」


 睦月は目を伏せ、逡巡する。果たして、ソナタに任せてもいいのだろうか。掴めない彼女のことだ。あらぬことを言う可能性もあるし、とんでもない辱しめを受けるようなことを口走るかもしれない。というよりも、この話を脱線させるのが一番なのだが……。


「わかりました。お任せします。ここでしらばっくれても、後に尋問を受けるかもしれませんからね。ですが、脚色だけはしないでくださいよ」


 はぁ、と諦観した溜め息をつく。


「もちろんさ。そんなことしたって。誰もメリットはないだろうからね。それじゃ、準備はいいかい?」


 ソナタの確認に、冬里と氷柱は今にも待ちきれないと言わんばかりに目を輝かせた。ずっと寂しそうな笑みを浮かべていた御節も、ソワソワと体を動かしていた。


 まず、ソナタは冬里に視線を向けた。


「冬里くん。君は一番気が置けない友人だと言っていたよ。いつだって笑顔を絶やさない、一緒にいて楽しいやつだってね。男友達で仲がいいのは断トツで君だって言いきっていたよ」


 確かに要約はしているが、一番重要で恥ずかしい部分じゃないかと、睦月は顔を伏せた。とてもじゃないが、三人の視線を受けきれるとは思えなかった。


 次に、ソナタは御節を見つめ、


「御節さん。君はとにかく友人のことを第一に考えている優しい子だと聞いているよ。感情こそよくわからないときもあるけど、いつだって手を差し伸べてくれる子。睦月と冬里くんが馬鹿できるのも、君のおかげだと言っていたよ」


 最後に、氷柱に向き直った。


「氷柱ちゃん。睦月は、君のことがとにかく心配で心配で仕方がないらしい。兄として、護るべき対象だといつも口にしていたよ。兄妹だからか、一番自分のことを理解してくれている、そう話していたよ」


 ソナタが言い終えると、しばし病室は静寂に包まれた。なんだ、なんなんだこの空気は、と睦月は居心地の悪さを覚えた。ひどく、全身がむず痒い。どこにも逃げることのできるドアがあれば、今すぐにでも目の前に用意したかった。何で自分の元には二十二世紀からネコ型ロボットが来てくれないのか。


 そんな静寂を打ち払うかのように、冬里が「ん~~~」と唸り、


「なんか、あれだな! 恥ずかしいな!」


 ニシシ、と照れくさそうに笑った。


「私は兄ちゃんからその気のオーラは出てたから、そんなに驚きはしなかったけど……。うん、これはちょっと恥ずかしい。ドキドキする」


 氷柱は自分の熱を確かめるかのように、両手に頬を当てた。対して、睦月は頬どころか体全身に熱を帯びているのだが。


 同様に、御節も顔を真っ赤にし、忌々しげに睦月に視線を投げる。


「あんた、よくもこんな恥ずかしいことを患者さんに言わせるわね……。危うくこっちが熱で患者になるわ」

「言わせたのはお前たちだから!」


 そして、こうなることは目に見えていたはずだ。立場を逆にして考えればわかることだ。羞恥という意味では、誰も得をしない話であるのだから。


「まあ、要するに、睦月は君たちに優劣をつけることができないくらいに信頼しきっているんだ。君たちの話をするときの睦月は、それはもう楽しそうなんだ。ちょっと、嫉妬しちゃうくらいにね」


 最後の言葉には少し元気がなく、微笑は儚げなものとなっていた。


「どうか、これからも睦月と親しくしてあげてくれ。優しい睦月が、こんなにも良く言う君たちが素晴らしくないわけがない。優しすぎる彼を支えてやってくれ――と、あまり睦月との時間が長くない私が言ってもなんの説得力もないよね」


 ソナタは寂しそうに自嘲した。


 きっとソナタは、自信が持てていないのだ。人付き合いが豊富とは言えない自分が、他人と共に費やす時間というものに。うまく人間関係が築けているか。思い出は作れているか。意思の疎通はできているか。


 そして、睦月の答えはもちろん「YES」だった。少なくとも、睦月自身はソナタとの時間は本当に大切なのだから。


 その思いをソナタに示そうと口を開こうとすると、


「そんなことはないと思いますよ。確かに時間こそ短いかもしれませんが、睦月はあなたとの時間を何よりも大切にしているんです。学校で、睦月の口からあなたの話が出てこないことはありませんし、いつもどこか上の空なんです。きっと、あなたのことばかり考えているんだと思います」

「ちょっ、御節!」


 狼狽した。言おうとしたことを御節に先んじられて言われたことではない。そんなにも、傍から見た自分というものは筒抜けだったということに、焦りを感じざるを得なかった。


「時間なんて関係ありません。本当に大事なのは、本人たちがどう思っているかだと思います。だから、私たちのほうからもお願いします。どうか、睦月のことをよろしくお願いします。あなたといる時間を、睦月は本当に楽しみにしているんです」


 本当に、嫉妬してしまうくらいに――溶けてしまいそうなほどに小さな最後の呟きは、切なさと悔しさの色を帯びていた。


「そう、かい。ふふ、私は果報者だね。そんなにも、誰かに想われているなんて」


 恍惚したように呟き、ソナタは睦月を見つめた。微笑を携えていることこそ変わらなかったが、恥ずかしそうに笑っているようにも見えた。その笑みを見ているこっちのほうが照れくさくて、睦月は彼女から目を背けた。


「ふふ。これ以上この話を長引かせると、睦月が黙りこくっちゃうからね。話を変えようか」


 睦月の胸中を察してか、ソナタが三人に提案した。


「――あ、そうだ。もしみんながよければ、学校の話を聞かせてくれないかな? もっといろんなことが聞きたいよ」

「おっし、任せてください! 睦月と俺の、『波乱万丈高校生シリーズ』と、六月に行った修学旅行での恋愛話などなど、いっぱいありますからね!」

「え? なになに? 私、その恋愛話聞いたことないですよ?」

「そりゃそうだ。御節と氷柱ちゃんにすら話してない、極秘情報だからな! 夜に男全員で恋愛について話したんだぜ! 好みのタイプ、好きな髪型とかいろいろな!」

「へぇ。それはちょっと聞いてみたいな。よし、その話にしてくれるかい?」


 ソナタが興味津津そうに目を丸くした。


「私も、ちょっと興味あるかも」

「断然興味あります! 兄ちゃんのタイプかぁ。ドキドキ」


 御節も氷柱も、反応はそれぞれではあったが、興味があることに変わりはないようだ。


「仕方あるめぇ! しょうがねえから全部暴露してやるぜ!」


 どこが仕方ないのだ。どう見たって、冬里自身が話したいといった感じだった。


「ねぇ、俺の拒否権は?」


 どう考えたって睦月が不利な態勢ではあるが、一応はと、反抗をしてみるものの――

「「「ない!」」」


 即答だった。女子三人の返答は息が揃いすぎて怖かった。


「そうですか……。どうとでもなれ……」


 目を輝かせた三人を前にして冬里の口をふさいでしまえば、もはや睦月が悪者となってしまう。それに、先ほども暴露されてしまったのだ。恥ずかしさで体が沸騰する準備はできている。


 それに、タイプも何も、既に意中の人は目の前にいるのだから。


 楽しそうに微笑むソナタに、睦月は頬を緩めた。



 時間はあっという間に過ぎていった。冬ということもあり、陽が落ちるスピードは速く、辺りは次第と暗くなってきていた。


 長居させるのも悪いと、ソナタは冬里たちに帰宅を促した。冬里たちは問題ないと首をふったのだが、彼らの安全や保護者の心配を考慮したソナタの優しさに触れ、病院を後にすることを決めた。


 睦月は彼女に何と言われようとまだ残るつもりではあったし、氷柱も睦月と共に家に帰るつもりだったため、冬里と御節の二人が帰路につくこととなった。


 私は大丈夫だから、彼らを見送ってあげてくれ――ソナタの頼み通りに、睦月は冬里たちと病院の外へと見送りにきた。


「今日はありがとう。日曜日で部活も生徒会もない自由な日に、俺の頼みを聞いてくれて」


 本当に有りがたかった。睦月の頼みとはいえ、見ず知らずの人間のためにこうして時間を作ってくれた三人の優しさが嬉しかった。


「別にどうってことないさ。むっつんの頼みなら断るに断れねえしな! それに、楽しかったからな。有意義な一日だったさ」


 ニカッと冬里が笑った。いつでも笑顔を絶やさない気さくさが救いだった。


「そうよ。別に睦月のためじゃないわ。あくまで雪野さんのため。そこのところ勘違いしないでよね、バカ睦月」


 御節は呟くように小さく言って、ぷい、と顔を背けた。素直ではないところは相変わらずだったが、文句を垂れながらも実行してくれる御節には感謝の言葉しかなかった。


「というか、ホント、噂になっても仕方がないくらいの人だったな……。綺麗だとか、可愛いだとか、そんな言葉じゃ表すことができないというか……。なんつーか――そう、とにかくすごかった!」


 子どものような感想を述べる冬里に、睦月と氷柱が声をだして笑った。元気のなさそうな御節の口元にも、ほんのりと笑みが浮かんでいた。


「だけどね。やっぱりあの人は噂でも仮想の人物でもなくて、一人の人間――ううん、一人の女の子だった。ひしひしと感じたよ。それに、いろいろと思うところもあったから、来てよかったよ」

「と、いうと?」


 意味深な発言をする氷柱に、冬里が首をかしげた。


「ソナタさんと重なるところがあったってことです。重さは違うと思うけど、やっぱり体は強くないっていう共通点があったから、ソナタさんの寂しさや苦しさなど、共感できるところがいっぱいあったんです。――ねぇ、兄ちゃん」


 真剣な眼差しで氷柱は冬里を見定めた。その真剣な表情に応えるべく、氷柱に向き直った。


「私たち病気もちの人はね。一人のときや寝る時がすごく怖いの。起きたとき、もしかしたら目の前は真っ暗かもしれない。死んじゃっているかもしれないから。起きた時、大事なものが全部なくなっちゃうかもしれないから、すごく怖いの。明日私は、兄ちゃんと一緒に笑ってられるのかな、って、すごく不安になるの。命に拘わるほどでもない病気の私でも不安になるんだ。暗くて、誰もしゃべらない、話さない病棟がすごく怖いの。私は兄ちゃんが泊まり込みで付き添ってくれることもあったから平気だったよ。だけど、ソナタさんはきっと一人だったと思う」


 そう、だから彼女は一人で雪を眺めていたのだ。誰もいない屋上で、ただ一人。


「だから兄ちゃん、ソナタさんの傍にいてあげて。一緒にいてくれるだけで、きっと嬉しいはずだから」

「もちろんだ。初めて出会ったときからそう決めていたんだ。俺は、あの人の支えになるんだって」


 力強い口調で答える。一人寂しく雪を眺めている儚げな少女のために、自分ができることを精一杯にすることを決めたのだ。


「ふん。そうしてあげたらいいわよ。――あんたが選んだ人なんだから、絶対に最後まで守ってあげなさい」


 悲壮な表情でそう言って、御節は一人足早に帰り道へと歩いていった。その背中はどこか寂しそうで、小さく見えた。


 何か声をかけなければと、追いかけようとする睦月に、冬里がぽん、と肩に手を置き、


「ま、何か困ったことがあったら、いつでも言えよな。また今日みたいに、雪野さんが俺たちと話したいというのなら、いつだって駆け付けるからよ。なんたって、むっつんにとって俺は、一番の友人なんだろ?」


 からかうように笑みを作って、一人歩いていく御節を駆け足で追いかけて行った。





 睦月と氷柱を病院に残し、冬里と御節は二人、市営電車の駅へと続く道を歩いていた。


「よかったのか?」


 黙りこくり、足早に歩く御節が見るに堪えず、冬里は声をかけた。


「意地悪なこと聞くわね。恋に負けた女が傷つかないはずがないでしょう。だけど、仕方がないじゃない。あんなに幸せそうな睦月を前にしちゃ、負けを認めざるをえないじゃない」


 足を止め、冬里に背を向けたまま、御節は毅然とした口調で言った。


 確かにな、と冬里は複雑な表情を浮かべた。


 ソナタの話をする睦月は常に生き生きとしてはいたのだが、いざ彼女を前にすると、見たこともない、幸せそうな表情を浮かべていた。きっと、心の底からソナタのことが好きなのだろう。


 そして、それはソナタも同様だった。目が、口調がそれを物語っていた。睦月と話す際には幸せそうな微笑を絶やさなかった。儚げな微笑を浮かべていると、噂でも睦月にも聞いたことがあったが、そんな様子はこれっぽっちもなかったのだ。二人にしてあげたほうがいいのではないか――そう思うことが何度あったことか。


 友人二人の出した答えが、一方は嬉しくもあり、一方は切なくもあって、どんな表情を浮かべればいいのかわからなかった。


「それに、私は睦月に片思いこそしていたけど、友達でもあるのよ。友達の恋を応援しないはずが――ない……でしょう。だから、私は睦月が困っているのなら、なんだって手助けするわ。そ、それが勉強でも、恋でも……」


 御節の小さな背中が、微かに震えていた。


「そうだな。俺もお前の友達でもあるし、むっつんの友達でもあったから、本音は二人結ばれるのが一番だと思っていたけどさ。ま、友人のむっつんが出した答えなら、見守るしかないしな。だからとりあえず――」


 冬里は少しずつ震えが大きくなる御節の頭に手を置き、


「今は泣けるだけ泣いとくといいさ。泣くのは別に、弱いことじゃねえからな」


 優しく頭を撫でた。泣きじゃくる子どもをあやす親のように、慈愛に満ちた表情で。


「うっさい……バカ冬里……」


 両手で顔を覆い、俯いた。覆った指の隙間から、か細い嗚咽が漏れた。


「ホント、不器用なやつだよ」


 だが、その不器用さが愛おしかった。友人として、これからも支えていこうと改めて決心をさせられるくらいに、泣きじゃくる御節が愛しかった。


 冬の寒空の下、一つの恋が終わった瞬間だった。


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