白昼夢
白昼夢
男は思考していた。
都内のとある雑居ビルの昼下がりの一室は、沈黙に支配されている。
そして、男の眼前の机上には、最近出版された軍事関連の書籍や雑誌が山積していた。
(……)
男は手にしていた書籍から視線を外し、天井を仰いだ。
本国へ近日中に報告書を送らなければならなかったが、全く進んでいなかった。
(……)
時間だけが無慈悲にも規則的に過ぎる。
男が割り切れば、今回も「本件に関連した詳細な分析は認められず」と報告書を結び、要求に即した画像データや、付箋を貼り付けた書籍、雑誌などを一緒にして送れば、全ては簡単に終わる話であった。
勿論、本人はいつも手を抜いた仕事をしている訳ではない。
正直、自身が活動できる範囲内では、情報が得られないのでそのように報告してきた。
しかし、あまりにもそれが続いたため、本国にいる男の上司から指摘があったのだ。
このままでは、本国での男の評価が下がるのは目に見えていた。
そのため今回の報告書は、ある程度の内容が求められている。
ただ近頃、男は言い知れぬ焦りを感じると共に、自分は貧乏くじを引かされているのではないかと、強く考えるようになった。
赴任前、本国では周囲から楽な仕事場だと羨む声が、男を包んでいた。
確かに他国に比べれば安全性は高く、手にできる情報量も多い。しかし、実際に活動してみると、本国が要求するようなレベルの情報は、殆ど存在しないのが現状なのだ。
本国の人間はそれを理解していない様子で、時に怒りさえも感じる。
やはり今回も、本国からはいつもと同じ水準の要求となった。
それは、「現地での、本国の対潜シナリオに関する分析について」であった。
この要求を目にした時、男は急に胃が鉛にでもなり、食道を強く下に引っ張るような感覚に陥ったが、ささやかな将来の事を考えて、ある決意をしたのだった。
自ら散在する資料の中から言葉を紡いで、ある程度の分析へと昇華させようと。
― 静寂の中に漏れる、長く深い溜め息 ―
(分析、推測、憶測、空想…妄想。このままでは単なる作り話になる)
手にした元海将が著した書籍は、ソ連海軍と比較させ、艦艇性能の分析結果として、時代遅れのレッテルを貼っている。しかし、男の認識では、本国海軍は未だ完璧な近海防衛も困難な状況で、その主たる海域は、陸岸から支援が得られる浅海域である。
(何らかの物差は必要だが、ソ連ばかりでなく、欧州海軍を視野に入れるべき)と思う。
少なくともソ連海軍は、空母基幹の艦隊構築には至らなかったが、マハンの影響を受けたであろうゴルシコフの指導により、米国とは異なる系統から発展した大洋海軍である。
また、多くの安全保障研究者は、海軍艦艇の隻数やトン数だけを強調して、性能分析すらしていない。後は公式発表の国家戦略や海軍政策を問題にしている。戦術分析以前に、現実的な戦力分析ができていない。他者との違いは、その対象資料の嵩である。
(公表された戦略などは、ブラフや希望的目標もある。実質的な戦術や兵器の分析をしなければ、その真贋の区別や、進捗状況を把握することはできないが…)と男は考える。
軍事雑誌や軍事評論家と称する著者等は、海自の戦術には言及している。これは海自の分析には有効だが、対象国海軍に関してはカタログデータばかりだ。最近はトレンドなのか、日本が勝利する、夢物語的な尖閣有事のシミュレーションが目に付く。
(そもそも、この国では情報を精査して分析し、対象国の戦略や戦術、運用などを立体的に構築して、組織的な研究をしているのだろうか?)と疑問に思えて仕方がなかった。
本国海軍の対潜能力や戦術自体が判っているにも関わらず、そこにはめ込む、適当な素材が目前の山から発見できずに、男は尋常ではいられない焦燥感に襲われていた。
男は視線だけを、正面の無機質な壁に掛かるアナログ時計に向ける。
(……)
視線を戻した男は、思考を続けた。