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カノン

作者: jorotama

 ペコちゃんのママがおてがみをくれた。


「お父さんかお母さんに渡してね」


 と、おはなもようのキレイなふうとうをわたしのポシェットにいれてくれた。


 ほんとうにキレイなおはなのもようのおてがみ。おはなのトコロがモコモコしているの。


 ペコちゃんママはママかパパにこれをあげてねっていったけど、どうしよう?


 ママもパパもおしごとがいそがしいから、いまウチにはパパのバァバしかいないんだもん。


 だいすきな、ステキな、ペコちゃんママからのおてがみはたからものにしてしまっておこうかな?


 だいじにとっておくからいいよね?


 ふたつめのおてがみをくれたとき、ペコちゃんママはちょっとかなしそうなおカオをしていた。


「大事なお手紙だから、絶対にお父さんかお母さんに渡してね?」


 ごめんね……パパとママはおしごとでいそがしいの。だからちょっとだけわたすのがおそくなるかもしれないけど、ぜったいわたすからね。


「きっとご両親に渡してね?」


 ワタシはペコちゃんのママがくれたおはなのおてがみをぜんぶで3つ、バァバのくれたクッキーのカンのなかに、だいじにだいじにしまいこんだ。



 ある日、啓太けいたさんが突然犬を買ってきた。

 まるでぬいぐるみのようなキャバリアだ。

 正式にはキャバリア・キング・チャールズ・スパニエルと言う名前なのだそうけど、そんな長い正式名称は覚えていられないような気がする。


 白い身体に茶色の垂れ耳。

 目の周りもパンダのようにグルリと茶色くて目と鼻は濡れたように黒い、それはもう可愛い子犬。

 子供の頃に大好きだったご近所のワンちゃんも、この子と同じ犬種だったかもしれない。

 私はこの可愛らしい犬を一目見た瞬間、大好きになった。


 きっと夫……啓太さんは、祖母を亡くしたばかりで落ち込んでいる私を慰めるためにこの子を連れて来てくれたんだろう。

 私のお腹にはもうすぐ生まれる赤ちゃんがいる。その子が犬や動物に対するアレルギーを持っていないとは限らないのだから、子犬の事をもろ手を挙げて歓迎することは本来なら出来ないんだろうけど、そんな先の事を現時点で心配しても仕方がない。

 犬の躾や散歩、予防接種や諸々の事は自分が面倒をみるからと彼は言ってくれている。

 聞けばむかし彼の実家でも犬を飼っていたらしい。


那智なち、きみは安心して犬と家でゆっくりして、産まれてくる赤ん坊の事だけ考えていればいいよ」


 と啓太さんは言う。

 でも私は犬のお世話の全てを丸投げするつもりはない。

 気分転換にお散歩は悪くないし、引っ越して来てからさほど経っていないこの土地で知り合いを作るにも調度良いもの。


「子供が生まれて余裕がなくなったら啓太さんにワンちゃんの事を任せるけど、出来る時に出来る事は私もしたいわ」

「……そうかい? でも今が一番大事な時なんだから、無理しないでくれよ?」


 気遣わしげな、でも少し笑っているような穏やかな表情で夫が言った。


 啓太さんは優しい人だ。働き者で真面目なだけじゃなく、見た目もかなり良いと思う。

 ……出会った頃、彼の周りの女の子達は彼の気をひこうと躍起になっていたっけ。

 ただバイト先が一緒になったというだけの、とりたてて可愛くも美人でも無くつまらない高校生の私に、何故気持ちを寄せてくれたのか未だに不思議でならない。

 有名大学を卒業し一流の企業に入社した後も、彼は平凡な大学に入学した私とお付き合いを続けてくれた。

 交際中関西の支社へ昇進を前提とした出向もあって私達は遠距離恋愛となったけど、彼は連絡も気遣いも非常にマメで、その間、私は淋しくはあっても一度だって不安に思う事は無かった。


 啓太さんは私に対して優しいだけじゃなく、私の両親の事もそれは申し訳ない程に大切にしてくれる。

 最近も両親の会社の苦しい資金繰りを助けてくれて……彼には足を向けて眠られないくらいに感謝している。


 高校時代からの親友である青葉あおばは啓太さんの事を『100年に一度の奇跡の優良物件』と称した。


「ドラマでも少女漫画でもないのに、なんで那智みたいな地味~な子と佐倉さんがくっつくかねぇ? これはなにか裏があるよ。高学歴高収入の真面目な美青年でしかも父親は有名企業の重役? お姑さんは居ないんでしょう? あり得ないって!」


 青葉の毒舌はいつもの事だけど、私は自分に自信なんてみじんも無いから彼の事を信じていても凹みたくなる。


「酷い……青葉の意地悪。どうしてそう言う事ばっかり言うのよ馬鹿。裏ってなによ??」


 半ば涙目の私をニヤニヤと見ながら青葉は言った。


「例えば……そうよ、佐倉さんは実は女よりも男の人の方が好きなのよ。あんたみたいなボヤ~っと騙しやすそうな子なら簡単に引っかかるし、疑わないから扱いも楽でしょ? 世間に対しての隠れ蓑だわ、これは偽装結婚よ」

「なんてこと言うの? 啓太さんはそういう人じゃないもん。自分の読んでる変な本と現実を一緒にしないでよ!」


 頬を膨らませる私を悪戯っぽく横目で見つつ、彼女は勝手な脳内妄想を語る。

「基本的に私、三次元で男同士とか生理的に受け付けないって言うのか、考えるのも嫌なんだけどね~。佐倉さんレベルの男二人の絡みだったら……うふふふふ。ちょっと三次元も楽しいかも?」


 そんな風にさんざん私をからかった青葉だったが、啓太さんの職場の同僚に声を掛けてもらい行ったと言うコンパで彼氏を見つけ、今現在なかなかラブラブらしく、以前のように頻繁な我が家への訪問もなくなった。

 女友達というのはお互い夫や彼氏が出来ると疎遠になるものだ。

 それでも祖母の葬儀の後、私がお婆ちゃんっ子だった事を知っている青葉は前までのように時々、とりたてて中身の無い気楽な楽しいメールで私を励ましてくれた。

 その上、祖母の住んでいた家の整理の為、週末には私に付き合ってくれる事にもなっている。

 彼氏とのデートだってあるだろうと申し訳ない気持もあるけど、身重の私にはありがたい申し出だった。


「ごめんね、ありがと青葉。本当ならウチの親がやるべき事なんだけど……いま会社の方がちょっと色々大変でそれどころじゃないのよ。啓太さんも暫く休日返上で取引先との付き合いもあるようで……」

「まぁ今どこも厳しい時期だからわかるよ。でも、佐倉さん本当に取引先の人との付き合いなのかな~? 奥さんが妊娠している間って、危ないらしいよ~?」

「もぉっ! どうしていつもそういう意地悪ばっかり言うのよ。せっかく人が素直に感謝してるのに」

「あはははは。絶対あり得ないと思ってるからこそ言える冗談だってば。今日が接待ゴルフだってのは手島君の保証付きだから~」


 受話器の向こうの青葉の笑い声。


「どうせアンタの性格じゃ、お婆ちゃん家に行っても荷物整理なんてまともに出来る筈ないわよ。感傷に浸るだけじゃ片づけにならないでしょ。こういう事は第三者がすっぱりと口と手を出してやってしまった方が早いんだから。あの家、借家でしょう? いつまでもそのままに出来る訳じゃないんだもん、容赦なくやるよ?」


 しっかりものの青葉だから、やると言ったらサクサクと作業ははかどる事だろう。

 頼もしい事この上ないけどなんだかやっぱり淋しくて悲しくて仕方がない……。

 子供の頃、私は一時お婆ちゃんに預けられていたから、その思い出の家を引き払うのが切ないのだ。


「私ホントにダメね。これからお母さんになるんだもん、もっとしっかりしなきゃって思うんだけど……」

「いざ生まれたらしっかりするよ。今は周りも甘やかしてくれるんだから甘えておきな。調子に乗りすぎない程度にね。じゃ、日曜日に迎えに行くね。お休み~……まだ寝ないけど♪」


 学生時代から変わらず、いつものように締めくくって電話が切れた。

 口は悪いけど、青葉は優しい。ふと溜息をついて私は携帯を持ったままソファの背もたれに身体を預けた。

 もう少しだけ、甘えてもいいんだろうか?

 涙の滴がポロリと零れた。


「お婆ちゃんに……赤ちゃん、抱っこしてもらいたかったな……」


 やるせなく苦しい哀しみの塊が胸の奥からこみ上げ、私の唇を歪ませる。

 もう少しだけ甘えさせてもらおう……。もうちょっとしたらきっと元気になって強くなるから、ほんのちょっとだけ涙に元気になるまでの手助けをしてもらおうと思う。


 祖母の家は『下町』との表現がぴったりくるような、古い木造平屋の建ち並ぶ一角にある。

 近くには観光名所ではないけど歴史のある大きな神社があって、その周りに小さな家が密集する下町地帯だ。

 私が小さい頃にはまだこの周辺にはいわゆる『長屋』がたくさん建っていた。

 祖母の住んでいた家も隣と一部くっついた左右対称になっている。もしかしてこういう建物も長屋の一種だろうか。

 いつの頃からか、周囲から木造の古い建物は一つ減り二つ減り、気がつくと古びた下町らしい町並みは小奇麗なマンションや二階建ての新しげな家々にとって代わられつつある。

 子供の頃泥遊びをした家の前が舗装されたのは、一体いつの事だったろう……?


「ほら那智、ぼんやりしないで玄関のカギ開けて。粗大ごみのシールは? ああ、あるね。アタシそこのコンビニでゴミの袋を買ってくるから、家に入ってなよ」


 キビキビと場を仕切る青葉に追い立てられるように私は家の中に入る。

 清潔にしてはあるが古い玄関。靴を脱いで入った家の中は以前に見た時よりもガランとしていた。

 以前祖母が自分もお迎えが近いから、身の回りのモノを整理してるんだよと言っていたのを思い出す。

 あの時は冗談だと思っていたけど、お婆ちゃん……ちょっとづつ自分の荷物を片付けていたのかな。

 樺太に住んでいたと言うひいおじいちゃんやひいお婆ちゃん、大叔父達がセピア色の陰影の中に写っていた写真を収めたアルバム達が見当たらない。

 祖母が特別な時にだけ着けていた帯や帯留め、無骨でクラシカルな指輪が二つ三つ。古い腕時計。

 形見分けとして残しておけそうなもの以外を、青葉の指示で仕分けしてゆく。

 私が処分するべきものをゴミの袋に詰め込み、青葉は空になった箪笥の引き出しを引き抜き、鏡台の鏡をドライバーなどの工具を使って手早く取り外し、部屋から持ち出してくれた。

 お腹の大きな私に代わって肉体労働を引き受けてくれた彼女に、絶対にお礼を受け取ってもらわなければ……。


「思ったよりさっくり片付きそうだね。台所とか荷物全然なかったけど、どうなってんの?」

「大事なモノは無いって分かっているお台所とか、押入れの布団とかは啓太さんが仕事の帰りにちょこちょこと片付けてくれてたの。重い物もシールを貼っておいてくれたら仕事前に寄って玄関前に出して置いてくれるって。……なんだかもう……本当は私の親がやるべき事なのに、情けないやらありがたいやらでね」

「は~……マメな男だわねぇ。てっちんにも見習ってもらわなきゃ~」

「青葉、手島さんのこと『てっちん』って呼んでいるんだ。なんかうまくいっている感じで安心した」

「うふん、アンタだけ幸せになんてさせておかないわ。那智のお腹の子がウエディングベールを持って歩けるようになる前には結婚する野望を抱いているんだから」


 空になった6畳間から剥がしたカーペットに、粗大ごみのシールを貼り付けながらウソブク青葉。

 私は「よっこらしょ」と立ちあがり、ほぼ片づけが終了した部屋を見まわす。

 この分なら後は掃除道具を持って一度か二度ここへくれば、部屋の鍵を引き渡す事が出来そうだ。


「そう言わずにこの子にベールを持たせてあげてよ? そしたら私、可愛いドレスを着せて親ばか丸出しで子供の写真ばっかり撮りまくるわ。青葉の写真は撮り忘れちゃうかもしれないけど、ちゃんと焼き増ししてあげる」

「いつも人の事意地悪意地悪言うけど、アンタも相当いい性格しているよね?」


 嘘っぽくむくれる青葉に笑いながら、私は一応確認の為に押入れの中も覗いておこうと襖に手を伸ばした。


「……って、あれ? お腹の子供、もしかして女の子って分かってるんだ」

「うん、わりと早いうちに腹部エコーでね。啓太さん、さっそくつけたい名前の候補を上げてたよ」


 古びた真鍮の引き手に指先を掛け、襖を大きく開ける。

 布団や座布団が入っていた筈の押入れの中はがらんとしていて、だからこそ、ポツンと一つ残されたその小箱が嫌でも私の目を引いた。


「どんな名前?」

「ん~……『まゆ』って名前なんだけど」

「うわあ……それ怪しいわねぇ。もしかして佐倉さんの元カノの名前じゃないの~?」


 青葉の返してきた予想通りの悪態。

 いつもなら拗ねたり唇を尖らせて反抗したりするのだけれど、私の目はその箱に釘付けで……。


 『真由』と言うのは、啓太さんの妹の名前だ。

 啓太さんよりも4歳年下の……私と同じ歳の妹さんは、彼がまだ小学校の低学年の頃に事故で亡くなられている。


 箱を膝の上に乗せ、青葉の運転する日産キューブの助手席で私がその話をすると、運転席の青葉は少し眉を顰めた。


「佐倉さんの気持ちは分からないでもないけれどさ、ちょっと嫌よね。事故で亡くなってるんでしょう妹さんって? その名前をつけたいってどうなのよ、アンタとしては?」

「私は……響きの可愛い名前だし、彼の気持ちも分かるからつけてもいいって思ってるよ。もちろんそのままじゃなくって漢字を変えたり一文字付け足したりして。……例えば『真由』じゃなく『繭理』とか『繭奈』とか『真柚子』とかね。そしたら全く同じ名前じゃないけど同じように『まゆちゃん』って呼べるでしょう?」


 啓太さんは妹さんだけではなくお母さんも早くに亡くされていた。

 お義父さんは啓太さんとよく似て真面目な良い人だけれど、仕事に忙しく、たぶん彼は子供時代にとても淋しい思いをしているのだろう。

 私を大事にしてくれるのも、家族と言う温かな繋がりに対する憧れの気持ちが強いからだと思っている。

 私も……父母が今の事務所を開設した当初、大口の仕事でそれこそ家にも帰宅出来ないような状態の両親に祖母の家へと預けられた事があるから、彼の淋しさを少しは理解できると思う。

 もちろんお婆ちゃんがいる分、啓太さんよりも私の方が随分と恵まれた環境だったんだけど……。

 あの当時は景気の良い時代で、設計事務所を構えたばかりの両親は大手から設計をまわされ、信用や信頼、それに今後の運転資金を得る為にも命がけで良い結果を出したい時だったから、幼稚園児だった私にかける時間も精神的余裕もまったく無かったのだと思う。

 幸い父方の祖母が快く私の世話を引き受けてくれ、私はあの古い小さな長屋に4歳の秋から翌年の夏が終わる頃までの間ずっと預けられていた。

 料理下手な母と違い、祖母は私に美味しい料理とお弁当を作ってくれたけれど、だからと言ってそれで淋しさが癒える筈もなく……。

 特にあの家に預けられてすぐはそれまで通っていた幼稚園を辞めねばならず、転園するにも近くの園に空きがなくて……幾月かの間自宅待機を強いられたせいで同世代の遊び仲間を見つけるのが難しかった。


 あのとても淋しい時期に私を慰めてくれたのは、祖母宅近くの公園脇にあった大きな家に住んでいた可愛らしい犬。

 そう……啓太さんが連れてきてくれた子と同じ犬種の、人懐こい犬とその子の飼い主の優しい女性だった。

 だけど本当に欲しかったのは親の愛情と温もりだったから、犬だけで心の隙間が埋まる訳は無かったけれど……。

 物思いに沈んで黙り込んでいた私の頭を、信号待ちの運転席から伸ばした手でポンポンと撫でてくれる青葉。


「那智は優しいね。繭奈ちゃんとか可愛い名前じゃん? ……そっか、佐倉さんも見る目が無いわけじゃないんだ」

「……最後が、余計……」


 笑いの形に歪みそうな唇を無理やり尖らせて私は言う。

 青葉と話していると時間が逆流するような気がする。呑気で楽しかった学生時代の空気が返ってくるのだ。

 バッグの中でケータイがブルルと震えて啓太さんからのメールを受信する。思ったよりも早く帰宅出来るらしい。

 帰路に美味しい中華屋さんでちょっと豪華なお弁当をテイクアウトしたから、よければ青葉も一緒に夕食をどうかと言う事、家で留守番をしている子犬の世話は自分がしておくとの内容だった。


 家の前に到着すると、薄闇に暖かな灯りのともる家の中から啓太さんが直ぐに出てきて、青葉に挨拶と今日のお礼の言葉を丁寧に言う。

 事前に包んでいた謝礼の事で多少もめたりもしたけれど、これを受け取ってもらえないと心苦しくて今までのようなお付き合いが出来なくなるからと、小さな封筒を半ば無理やり彼女に握らせた。


「いいよ、も~。じゃあアンタの出産祝いにこのまま包み返しちゃうもんね」


 肩を竦めて冗談っぽく笑いながら言い残し、青葉は去って行く。どうやらこれから手島さんとデートのようだ。

 食事を一緒にして貰おうと思っていたけど、彼氏が相手では優先順位は変えられまい。

 私は走り去るキューブに、小箱を持ったままの手を振った。

 箱の中身がカサカサ、カラカランと鳴った。


 啓太さんが荷物を家の中に運び入れてくれながら、申し訳なさそうに今日の祖母宅片づけへの不参加を詫びてくる。


「啓太さんはいつも仕事の行き帰りにもお手伝いしてくれるじゃない。私の実家関係の事にこれ以上あなたを使ったら罰が当たっちゃうわ」

「お腹が大きい那智に無理させるくらいなら、罰はこっちで全部引き受けるよ」


 朗らかな表情で彼が言う。

 接待ゴルフで気を使い疲れてれてもいるだろう彼に、申し訳なくも近頃浮腫みやすくなった足を揉んでもらいながら、私は現実感が無いくらいに幸せな自分の現状に微かな不安を覚える。

 青葉の言い種じゃないけれど、どうして私のような女が? そう思わずにはいられない。


 優しくむくみを解しながら流しっぱなしのTV画面に時々目を向ける啓太さんの横顔は、見慣れている筈なのにやっぱり今も胸がドキドキするくらい素敵に思える。

 報道番組が伝えるニュースに少し険しく寄せられた眉毛がとてもりりしい。

 どうやら暫く前に世間を騒がせた殺人犯に判決が下されたらしく、彼はその判決に憤りを覚えているらしい。

 犯人は事件当時心神耗弱状態にあり……との弁護側の主張の一部が認められた内容の判決だった。


 正義感の強い啓太さんにはこういう判決は納得できないようだ。

 以前も未成年の犯した犯罪のニュースで憤りを隠せない彼の姿を見た覚えがあった。

 幾ら心神耗弱だろうが未成年だろうが、犯した罪に見合った罰を受けねば犯罪被害者もその家族も報われない。

 年齢や心の有り様は言い訳にはならない……と熱っぽく語ったこともある。そういう潔癖なトコロや真っすぐな気持ちを持つ啓太さんがとても好きだ。


 彼と、これから産まれてくる子供達と私。きっと幸せな良い家庭を作ってゆこう。

 ほっこりと暖かい心にそんな夢を思い描いていた私に、彼はいつもどおりの穏やかな目を向けて唐突に言いだした。


「那智。お婆ちゃんの家にあった『箱』の中はもう見たかい?」


 祖母の家の押入れの中を片付けてくれたのは彼だ。だから、彼が押入れに入っていたあの小箱を知っているのに何の不自然もない。

 青葉と一緒に開けた箱の中には幾つかのガラクタと、三通ほどの手紙が入っていた。

 ガラクタはプラスチックを真珠風に加工したオモチャのネックレス。たぶん、石英と思われる透明感のある白乳色の小石。金メッキに色ガラスの石がついた指輪。カエルの指人形……。

 ただ……手紙の方は誰の物かもわからず、祖母のプライバシーに関わる事が書かれている可能性を考えあの場では読んでいない。


「あれは那智の小さい頃の宝物箱だったって、お婆さんは言っていたよ」


 キラキラ光るキレイなボタンに人形の髪飾り…たしかにあの中身は子供だった私の宝物だったかもしれない。

 でも……啓太さんと祖母がそんな話をしていたのかと、私は内心驚いた。

 祖母が入院していた病院はこの家からよりも啓太さんの勤め先からの方が近かく、彼が時々仕事帰りに病院へ顔を出しに行ってくれていたのは知っていた。

 それに……そう、……私も両親も危篤の連絡を受けてから慌てて病院へ向かったけれど、結局お婆ちゃんを看取ってくれたのは啓太さんだったのだ。


「小さな光る物が好きだったみたいね、私。いかにも子供の好きそうなオモチャが入ってたもん。……啓太さんもあの箱を見つけた時、中は見たのでしょう?」


 問いかけに彼は目を細め笑う。


「ちらっとだけ覗かせてもらったよ。いかにも女の子が大事にしそうなモノばかりだったね。……あの中に『手紙』も大事にしまっていたんだね、那智は」


 ……手紙……?


「手紙って、あの花の模様の封筒の事? ……啓太さん、あの手紙を知ってるの? 中を読んだ?」

「いいや」


 表情を変えずに首を振る彼。


「あのお手紙の事、啓太さんは知ってるの? ……私、まだ中を読んでいないんだけど、封筒に宛名も差出人も何も書いていないの。……お婆ちゃんの家にあったからお婆ちゃん宛てかと思ったんだけど」

「手紙は読んでいないよ。ただ僕は何が書かれているのかを知っているだけだ」


 私にはなんだかよくわからなかった。祖母に手紙の内容を聞いた事があったと言う事だろうか? それとも……?


「手紙……啓太さんが書いたの?」


 問いかけながらも私はそんな事はあり得ないだろうと思っていた。

 だって、あの封筒、新しい物には見えない。それに本当に微かながら私にはあの手紙に見覚えがある。

 昔……子供だった私があの手紙を誰かから受け取った記憶。

 でも一体誰から私は手紙を受け取ったんだろう?

 ちょっとだけ声を立てて笑った啓太さんが、再び首を横に振った。


「まさか、それはないよ。でも僕はあれを誰が書いたか知ってるし、手紙の事を那智のお婆ちゃんと話をしたからね。……お婆ちゃん……驚いてたな、凄く……。まあそんな事どうでもいいか」


 ますますもって訳が分からなくなった。


「なんだか意地悪ね啓太さんったら。どうして? 書いた人を知っているの? 中を読めばわかる事?」


 ちょっぴり唇を尖らせテーブルの上に置いたままの箱を取ろうと腰を浮かせかける私を、やんわりと彼が押しとどめる。


「今日はもう疲れただろう? 明日にでも読めばいいよ。手紙は逃げたりしないから大丈夫」


 ……たしかに手紙は逃げないけど……。

 なんだか心の奥がザワザワと波打つような心地がした。

 啓太さんは普段と変わらず穏やかな様子をしているし、お腹の子供はいつものようにお腹の中で元気に動きまわり、子犬はゲージの中でスヤスヤ眠っている。

 新しいこの家は快適で深刻な問題は何一つとして起きていない。なのに心は少しざわめいている。


 『小箱』の中には細密で繊細な花模様が型押しされたキレイな封筒。

 たからばこのなかの、キレイなおてがみ



 夢を見た。

 小さな私が祖母と手をつないで歩く夢。


 祖母は片手に正絹ちりめんの風呂敷で包んだ菓子折りを持ち、普段よりもきちんとした身形をしていた。

 いつも遊んでいた公園……UFOのような……洗面器をひっくり返したような形の遊具。今は取り壊されてしまったジャングルジムは赤や黄色、青の鮮やかな色に塗られた鉄パイプが使われていて、横には滑り台がくっ付いてたっけ。

 公園の向こう側には木造の神社の正殿が見えている。

 この公園を抜けると……私の大好きな可愛いワンちゃんを飼っているおウチがあった。

 白い壁の新築住宅。青い芝生のお庭で私はあの犬と良く遊んだんだ。

 ペコちゃんのママは美人で、長い髪を綺麗に結いあげている。いつも花模様の長いスカートを履いていて、白い手は冷たいけれど柔らかい。


 私の手を引いた祖母が突然足を止めた。どうしたんだろうと私はお婆ちゃんを見上げる。

 すぐそこにペコちゃんのおウチがあるのに、今日もまた可愛いワンちゃんと遊びたいのに。

 両側を芝生とパンジーのプランターで囲まれた玄関は小洒落ていて、人形の家のようでいつも素敵だなーと思う。

 玄関のドアのライオンの顔をした小さな真鍮のドアノッカーは、私の憧れだった。

 だけど、今日は金色のライオンのドアノッカーは見えなかった。

 白と黒の紙がドアに張り付いていたからだ。

 当時の私にはドアの紙に書かれていた漢字を読む事が出来なかったし、その意味するところを知る力も無かったけど、 今の私には分かる……。

 『弔』の文字の張り紙は、その家で不幸があった証しだ。

 黒い服を着た人達が幾人かペコちゃんママの家に出入りしていた。

 お婆ちゃんは黒い服を着た人に声を掛け……そして……。



 ぼんやりと夢の余韻を引きずったまま、啓太さんを仕事に送り出し家事をした。

 お腹が重くて息が切れるから無理はせず、休み休みのお掃除を済ませ、最後に子犬のペットシーツを代えて私はソファに深く座り込んだ。

 テーブルの上に麦茶のグラス。

 手元に引き寄せたオーディオのリモコンをONにして、胎教の為にと啓太さんが買いこんできたクラシックCDを小さめの音量で部屋に流す。

 私は『小箱』から花模様の封筒を取り出し、一番上になっていた一通をそっと開いてみた。

 封筒とおそろいの花模様の便箋に、少し右上がりのキレイな筆致で並ぶ文字……。


 『突然のお手紙失礼いたします』


 出だしからするとこれが三通の手紙の最初の一通と言う事なのだと思う。


 『私は神社傍の公園前に住む佐倉と申します。』


 二行目の……その名が記された箇所を私の目は何度も何度も往復した。

 見間違いではない。たしかに『佐倉』とある。

 佐倉……珍しい名字と言うわけではないだろうけれど、さほど有り触れた名前でも無いんじゃないかと思う。

 食い入るように便箋を見つめ、私は視線に先を急がせる。


 『面識のない人間から一体どんな用件だといぶかしくお思いの事と存じます。実はお宅のお嬢さん「なちちゃん」の事でお願いしたい事があり、こうして筆をとらせていただきました。』


 ドキンと一つ強く、胸が鳴った。

 私? 私の事?

 神社傍の公園に住んでいたのは『ペコちゃんママ』だ。

 可愛いペコちゃんと言う犬の飼い主の、ペコちゃんママ……。


 『なちちゃんがここ最近、毎日のように一人で我が家に遊びにいらっしゃいます。子供さんの足でいつもいらしている事や「なちちゃん」本人に伺った話によると、すぐ近くにお住まいだと言う事ですが、昨今、公園付近には不審者の目撃情報もあり、また、近隣には現在建設中の建物も多く、工事車両や関係者の出入りで交通量も増えております。

 小さな子供さんが一人で出歩くにはあまり良い環境とは思われず、何かあっては…と気にかかっております。

 私としても本当ならば「なちちゃん」をおウチまでお送りしたいとは思っているのですが、現在体調が悪く療養中な事、またそんな中の子供の塾の送り迎えなどで手いっぱいなのでなかなかそれもできません。

 時々遊びにいらしてくれることは構わないのですが、本当に何か取り返しがつかない事になるのではと思い、差し出がましい事とは存じますがこうして筆を取らせていただきました』


 便箋の最後に記されていたのは住所と電話番号、それにこの手紙を書いたペコちゃんママのフルネーム。


 『佐倉英江』


 ……啓太さんのお母さんの名前だった。


 心臓がドキドキする。

 じゃあ私が小さな頃に遊びに行っていた家は、啓太さんの実家だったんだ。

 それに、彼はその事を知っていたのよね?

 なんだか急に頬や耳の辺りが熱くなってきた。

 アルバイト先の事務所で再会した時、彼は直ぐに私に気がついたのかな?

 あやふやな記憶ながら、ペコちゃんママの家で私は小学生の男の子を見かけた事もあったような気もする。

 私は妙な高揚感を覚え、震える指先でなんとか便箋を封筒の中へと戻して手紙を胸に抱きしめた。

 『運命』と言う言葉が脳裏に浮かぶ。

 本当は今すぐに啓太さんに電話を掛けてこの事を聞き出したい気持ちだったけれど、こんな事で仕事の邪魔なんて馬鹿げた真似は出来ない。

 大きく息を吸って、吐く。


 手紙の残りは二通。

 封の開いた手紙からそれぞれ便箋を取り出して、出だしの言葉だけに素早く目を走らせる。


 『先日もお手紙いたしました佐倉と申しますが、受取っていただけたでしょうか?』


 ……どうやらこちらが二通目の手紙らしいと判断し、私は片手で自分の顔を覆った。

 そうだ……私、手紙……受け取ってすぐにこの箱の中にしまいこんで祖母や両親に見せずにいたのだ。

 申し訳なさと恥ずかしさで耳たぶが熱くなった。

 せっかく啓太さんのお母さんは一人でうろつく私の事を心配して手紙を書いてくれたのに、何をやっていたんだろう。


 『先のお手紙にも書きましたが、相変わらず「なちちゃん」は一人で毎日のように我が家に遊びに来ます。

 ご両親ともお忙しいご事情があるかと思いますが、今の状態は少し考えられた方が良いのではないかと思います。

 正直なところ時々遊びにいらっしゃるぶんには構いませんけれど、こう毎日ともなりますと、前回の手紙のとおり、私も療養中の身でございますのでお相手差しあげるのが辛い場合もございます。

 ただ、「なちちゃん」もまだお小さい子供さんですし、こちらの事情を察してくれと申しましても無理かと思いますので、おウチの方からやんわりとご注意願えればと、再びこうして筆を取らせていただきました。

 本当に申し訳ありません。

 私が今健康であれば、このような狭量なお願いをする事は無かったのですが……。

 このようにご無礼なお手紙をさし上げました事、どうぞご寛恕戴きたくお願いいたします』


 二通目の手紙を読み終えて、私は泣きたい気持ちになっていた。

 さっきまでの浮かれた高揚感は消え去り、気のせいか耳鳴りがし出したような気がする……。

 考えてみれば、毎日のように自分の子供でも親戚や友人の子供でもない見知らぬ子が庭先に出入りすると言うのは、気持ちの良い話しではなかった筈だ……。

 療養中の身体で気持ちにも余裕は無かっただろう。


 ……ふと、今朝見た夢の記憶が蘇り、私は急に怖くなった。

 もしもあの夢が過去の記憶だとすれば、この手紙を受け取ってからほどなくペコちゃんママの家では不幸があったと言う事だ。

 亡くなったのは、啓太さんのお母さんだったんだろうか?

 彼から聞いた話では、亡くなられたのは彼が小学生の頃だ。

 ……私があの家に出入りしていた時には、啓太さんの妹さんの気配はすでに無かった。

 だとしたら私が見た夢は、彼のお母さんが亡くなられた直後のペコちゃんママの家と言う事になる。

 さっきとは違った意味で指が震え、三通目の便箋を私は上手に掴む事が出来なかった。

 読みたくない気持ちと一秒でも早く読まねばと言う気持ちとが拮抗し、私を混乱の中に陥れる。

 だけど、読まないでいる事なんて出来そうもない。


 『これで三度、筆を取らせていただいております。

 これまでのお手紙はお読みいただけましたでしょうか?お読みになられた上で、この状態を続けておられるのでしょうか?

 「なちちゃん」本人にも何度か手紙の事を伺ってみましたが、パパとママはお仕事が忙しいので家にはいないとしか答えてくれません。

 いくらお忙しいとは言え、おウチに誰も帰られていないなんてことは無いと思うのですが……。

 何度もこのような手紙を申し訳ないと思います。

 最初に申しました通り、この辺りは近頃交通量も増え小さな子供さん一人で出歩くのはとても危険な場所になっております。

 実は私にも「なちちゃん」と同じ年齢の娘がおりました。去年、その子供は私の不注意によって交通事故に遭い、この世を去っております。

 あの事故の瞬間は、きっと永遠に私の脳裏からは離れる事はないと思います。

 私はこの先ずっと自分の母としての不明や未熟さを悔やみ、後悔し続けて行くでしょう。この苦しみを他の誰にも味あわせたくはないのです。

 どうか「なちちゃん」から目を離さないようにしてあげて下さい。

 「なちちゃん」は可愛い子です。

 ……そう思う反面、自分の子がこの世に生きられなかったのに元気に笑い、遊ぶあの子が妬ましい気持にもなります。

 本当に申し訳ありません。

 お恥ずかしい話しではございますが、今現在私が患っておりますのは身体の病ではありません。

 娘を目の前で亡くした事を切っ掛けとした鬱の状態であるとの診断を受けております。

 症状は不眠や不安感が殆どで、決して「なちちゃん」に危害を加えるような事は致しませんが、ご近所に住んでいるのも関わらず、処方されている薬や病気の影響で「なちちゃん」をお宅まで送ってゆく事すらまともに出来ません。

 せっかく遊びにいらしてくれた彼女に、今は笑顔でいらっしゃいと言う事もできません。以前のお手紙では時々なら遊びに来てくれても……と申しましたが、それすらも負担になってきました。

 なちちゃんの姿を見るのが辛くてならないです。私は本当に病気なんだとつくづく実感いたします。

 身勝手なお願いではありますが、しばらくこちらに来ないように彼女に申し伝えてはいただけないでしょうか?

 なにとぞ……なにとぞお願いいたします』


 ……私は読み終えた便箋を畳んだり、それを元のように封筒に戻したりする事が出来なかった。

 指だけではなく、全身に震えを覚えていた。

 啓太さんのお母さんは、病気だった。

 でもそれは身体の病気ではなく、心の病……。


 頭の中に砂でも詰まったように、私の脳は上手な思考を辿ってくれなかった。やけに身体が重い。

 小さかった私が最後にペコちゃんのママ……啓太さんのお母さんに会ったのはいつだったんだろう?

 ペコちゃんママの心の負担になるくらいに、私はしつこくあの家を訪問していたんだ……。その事を思い出すと胸がムカムカとする。

 そうだわ……いつも…いつも私はワンちゃんと遊びたくてあの家に行っていた。

 ペコちゃんのママはソファに凭れてぐったりとしている事が多かったっけ……。


「今日は遊べないのよ。寒いからもうお帰りなさい」


 そう言われても私は部屋の中でしっぽを振るペコちゃんの事が気になって、ずっとベランダの窓に張り付いてあの家の中を見ていたんだ。

 そうして暫く経つとペコちゃんママは少し困った表情をして、私をお部屋に上げてくれていた。

 玄関もベランダのカーテンが閉まっている日には、塀の無い低い生垣の間から庭に入り込み、私は家中の窓を覗きながらペコちゃんママが出てくるまでウロウロとうろつきまわった。


 祖母がご近所のお友達とお茶を飲みながら子供には分からない話しをする間、私は暇で暇でしかたがなかったから……。

 腰が痛いと横たわる祖母が相手をしてくれなくてつまらなかったから……。テレビのドラマを見る祖母に構ってもらえなかったから……私は……。

 殆ど毎日のように、あの家に行ったんだ……。

 それがどんなにあの時のペコちゃんのママに負担になるか考えもせず。


 祖母と私は確かにペコちゃんママのトコロへ向かった。

 たぶん、祖母が私の宝箱の中の手紙を見つけて読んだからだ。祖母は身形を整え菓子折りを持ち、私が迷惑を掛けたペコちゃんママの家へ挨拶とお詫びに出かけたんだと思う。

 だけど、その時には既に啓太さんのお母さんは亡くなっていて……そして……そう……お婆ちゃんはそれまで一度も私に見せた事がなほど恐ろしい顔をして


『那智、もう二度とこの家に来てはいけないよ。もしも一人で出かけたら、二度とお婆ちゃん家には入れないからね』


 ……と、そう言った……。


 ボコボコとお腹の中の子供が動いて内臓を圧迫する。

 一体私はいつからぼんやりとこの場に動かずいたんだろうか?

 オーディオからはパッヘルベルの「カノン」が聞こえていた。


 暗闇の中でボンヤリとソファに座った私を見つけ、啓太さんは少し驚いたような表情で


「どうしたんだ那智? どこか具合でも悪いのか?」


 そう声を掛けてきた。

 驚き心配はしている様子はあっても、根底はいつもと変わらず穏やかな彼。


「……私が、啓太さんのお母さんを追い詰めたの?」


 何の前置きもなくの私の問いかけに動揺した様子もなく、彼は首を傾げて微かに笑った。


「どうだろうね。……たぶん君の存在が溢れそうだった母さんの「死にたい」気持ちを溢れさせる最後のひと押しをしたんじゃないかとは思うよ」


 本当に平然と、あくまでも穏やかに啓太さんが言う。胃の辺りがヒンヤリと冷たくなった。


「……啓太さん、私の事を憎んでるの……?」


 彼の顔が奇妙に歪んで見えた。涙の滴が瞳の上に盛り上がって彼の顔をゆがませているのだ。


「昔は少し……キミを憎いと思ったけれど、今は恨んでも憎んでもいない、愛しているよ那智。那智が悪気あって母さんを追い詰めたわけじゃない事は、ちゃんと分かってるんだ。キミはそんな悪い子じゃないからね」


 ユラユラ揺れる視界の中、啓太さんは穏やかに笑い、普段と変わらぬ声色で静かに言葉を紡ぐ。


「わ……私……本当に自分がペコちゃんママにどういう風に思われているのか……知らなかったの」


 言い訳でしか無いと自分でもわかる言葉に、彼は目を細めて頬笑みを浮かべた。


「そうだよ……那智は小さな子供だったんだ。それにキミは今こうして罰を受けたじゃないか? 今は後悔しているんだろう? だから、もう僕は那智を恨んでいないよ。いや……むしろ今は僕が失くしたものを全部返してくれようとしている那智には感謝しているくらいだよ。……那智はこの家で『母さん』になってくれるんだろう? 母さんが亡くした『真由』も新しく産みなおしてくれるんだよね。小さい頃のキミは『母さん』にとって時々『真由』になってくれたじゃないか。僕にとってキミの存在は『妹』で『妻』で『お母さん』でもあるんだから、那智は罪を償う以上の事を僕にしてくれているんだ。だからキミはなにも怖がる事なんてないんだよ」


 あくまでも穏やかで静かに語られる彼の言葉に、私は声を失った。


「那智のお婆ちゃんも僕と僕の母さんに詫びながら、死んでいったよ? 罪は償われているんだから、キミは堂々としていればいいんだ。僕はキミの事を本当に愛しているよ……那智」


 啓太さんの優しい笑顔が恐ろしくて、身体が震える。

 お婆ちゃんは啓太さんがお見舞いに来ている間に、心臓の発作を起こして死んでいる。

 啓太さんはこんなふうに、入院中だった祖母とやりとりしていたんだろうか。


 ほんの少し前まで私は、大好きな彼に捨てられる恐怖を感じていた筈なのに、今は直ぐにでもこの場所を逃げ出したくて仕方がない。

 啓太さんはソファに沈んだ私の横に座り、その暖かな胸に私を抱き込んでくれた。

 お腹の中で赤ちゃんが動いている……。

 後悔と恐怖と悲しみと……様々な感情が入り乱れ、頭がぼうっとする。

 この子は誰なの?

 私の知らない、会った事もない、啓太さんの妹? それとも私と啓太さんの子供なの?

 私は彼の妹? それとも妻? それとも、私が奪ってしまったお母さん……?


 両親は彼から借りたお金で何とか仕事を続けていられる。

 資金を引き揚げれば多額の借財だけが残され、両親は破産するだろう。

 そうなって生きていられる二人で無い事を私は知っていた。……私には逃げる場所は無いのだ。


 頭の中でパッヘルベルの「カノン」がいつまでも繰り返し流れ続けた。

 第一バイオリンの旋律が第二バイオリンへと引き渡され、第三バイオリンへと更に繰り返される筈のメロディがぼんやりとした頭の中、歪んだ響きと形に代わる。


「愛しているよ、那智」


 あくまでも優しく穏やかな声で啓太さんが言った。

 歪んだ追複曲が彼の声に重なった。




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― 新着の感想 ―
[一言] 短い話の中で伏線がいくつも。。。 疑心暗鬼って恐ろしいですね。
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