2 -燻る焔、消えない傷跡-
「更新手続きを行いますので、しばらくギルド証を預からせていただきますね!」
興奮と興味が入り交じった言葉を、どこか他人事のように聞いていた。
いや、他人事と言うよりは何か質の悪い冗談だと思わざるを得ない。何しろギルドに登録してから僅か三年。たったそれだけの期間でギルド内の格付けで最高位に当たる|《五つ星》(ペンテ)に昇格するなど、普通ならあり得ないのだから。
確かに、前例が無い訳でもないという噂も聞くが――それは達成困難な依頼をこなしたが故であり、まだギルドに現在の格付け、つまり|《四つ星》(カトル)と|《五つ星》(ペンテ)のランクが存在せず|《星無し》(ナーダ)を含めた四段階にしか分けられていなかった状態から現在の六段階に移行した直後であったという理由があったはずだ。
しかし俺が受ける依頼はせいぜい|《三つ星》(トリア)までであり、そもそも達成難度の高い依頼はよっぽどの事がなければ発生しない。加えて|《四つ星》(カトル)に昇格したのもつい数ヶ月前のことである。そんな者がまた昇格するなどと、他の|《四つ星》(カトル)に格付けされる者が知れば黙ってはいないだろう。
そもそもが、だ。ギルド最高ランクである|《五つ星》(ペンテ)は五人までと決めたのはギルドではなかったか。
このような話が出てくるということは、|《五つ星》(ペンテ)の内から引退者が出たというのだろうか?
「噂を聞く限り、今の|《五つ星》(ペンテ)がそう簡単に入れ替わるような事はないと思っていたのだが……」
一般に傭兵や冒険者、あるいは「何でも屋」などと呼ばれるギルド登録者にとって、引退とは多くの場合が仕事中の怪我などが影響で仕事ができなくなったことを意味する。あるいはそれはマシな方で、命すら落とす者も少なくない――
現在、|《五つ星》(ペンテ)の位に就いている者は五人――|《死刑執行人》(ディアノーディル)、|《千技》(タウゼント)、|《気紛れな戦女神》(アスタトメートン)、|《狂獣》(モルデラウァ)、|《魔導具収集家》(アイテムコレクター)。皆二つ名持ちであり、ギルド始まって依頼の実力者だと評される。
その誰もが実力者であり、彼等彼女等が手こずるような事があれば相当な事件だと言える。当然噂にもなるだろうが、そんな話は耳にしていない。
「いえ、そうではなくて高齢による体力の低下で、限界を感じたと|《千技》(タウゼント)様が引退を申請されたそうです。なんでも……田舎に帰って後進を育てる、と言っていたそうなので、おそらく全く動けなくなったわけではないのでしょうが……」
もっともな疑問に、返ってきたのはそんな言葉だった。受付嬢の補足になるほどと頷く。
|《千技》(タウゼント)は現在|《五つ星》(ペンテ)の中で最高齢だと言われている――もっとも、|《五つ星》(ペンテ)の中には正体を隠している者も居るため、違うかもしれないが――。平均的なギルド登録者と比べても高齢であり、しかし実力者として名を連ねている。体力的には確かに最盛期と比べれば落ちているのかもしれない。だがギルドという場所で長い時間研き続けた戦闘経験が、修羅場を潜る度身につけた技術が、かの人を|《五つ星》(つわもの)に名を連ねさせていた。
|《千技》(タウゼント)という名は「数多の剣技を操る者」と、そんな彼の生き方に対し送られた賞賛であり羨望だ。
そしてもう一つ――引退したのが|《千技》(タウゼント)だという事実。今の|《五つ星》(ペンテ)の中から彼が消える事、そうなった場合ギルドにどのような影響が出るか――必然的に導き出される結論が、今回のあまりに唐突な昇格に繋がるのだと直感した。
「……つまり、厄介ごとを押しつけたい……そういう事か」
「え? いえ、そんなことはっ」
ぽつりと呟きだした言葉に、過剰に反応する受付嬢。図星、なのだろう。判りやすいくらい慌てた姿は、いっそそんな調子で大丈夫なのかと心配してしまうほどだ。
達成難度の高い依頼が派生する事が少ないとはいえ、それは実力者を望む依頼が存在しない事には繋がらない。むしろ難易度が低い依頼であったとしても、実力者を求める依頼主は多い。
少し考えれば当然の事だ。ギルドに依頼を出すという事は少なくない金を必要とする。せっかく雇った護衛が役に立たないでは話しにならないし、誰だって腕に覚えがある者が雇えるのならそちらを選ぶだろう。
中には貴族や大商人など、一種の自慢として依頼内容にも関わらずランクの高い者を指定してくる者もいるのだという。なんでもランクの高い冒険者を雇い仲間内での話の種にしようという事らしい。……冒険者側のランクを指定する場合追加料金が発生するため、一般人からすればよく分からない感覚である。
と、このように様々な理由から実力者の需要は存在しているのだが――ここに、一つの問題が存在している。
ただでさえ人数の少ない|《五つ星》(ペンテ)だが、その中で意欲的に依頼をこなしている者ともなると、その数はさらに少なくなる。
|《気紛れな戦女神》(アスタトメートン)は二つ名の通り気紛れで、様々な罰則が発生するにも関わらず依頼破棄することすら厭わない。|《狂獣》(モルデラウァ)はそこまで依頼破棄はしないと聞くが、狂うの字が示すようその戦い方が荒々しく、お綺麗な上流階級の人間から倦厭されているらしい。挙げ句|《死刑執行人》(ディアノーディル)にいたっては、正体不明の上ギルドにすら姿を現さず、依頼も使いの者を通して受けているため護衛依頼など受けるはずもなく、通常の依頼すらほとんど受けていない有り様だ。
|《五つ星》(ペンテ)と呼ばれる五人の実力者が存在するが、その実実際に活動しているのは|《千技》(タウゼント)と|《魔導具収集家》(アイテムコレクター)の二人だけだと言っても差し支えはない。
つまりは、高難度依頼をこなす二人の内一人が欠けてしまえばどうなるか。――考えるまでもない。
そして俺は、受ける依頼のランクこそ低いものの、依頼達成数が多い――らしい。他者と比較する機会も少ないため自覚はないが。
「……断る」
「え……? ええっ?! 断るなんて、どうして」
「別に、降格はともかく昇格は強制ではないはずだが? こちらにも選択の権利はあるはずだ」
「それは……確かにそうですが……でも、せっかくの機会を、どうしてそんな……」
「興味がない」
理解しがたい、と言った顔をする受付嬢の手元からギルド証を回収しながらそう告げた。
「興味がない、って……だって|《五つ星》(ペンテ)ですよ? ギルド最高ランクをどうしてそう簡単に……」
「なら逆に聞くが、何故そんなものを俺のような若造に与えようとする? 俺より腕の立つ者は他にもいるだろう。もっと名誉欲のある者も、な。高難度依頼を消化する者が欲しい以外に、納得のいく説明を願えるのか?」
取り付く島のない言葉に、受付嬢はぐっと押し黙る。彼女も仕事であり、この判断は上の者が下したのだろう。――だが先程からの大声のせいで、少なからず周囲の注目を集めてしまっている。また妙な噂が立ち厄介事が舞い込むであろう事を考えれば、この程度は我慢してもらいたいものだ。
そもそも、ギルドに足を運ぶような者達の間では情報は金よりも重いとすら言われる。そのためギルド職員も情報の重要性は理解しているはずだが……彼女は軽率すぎる。いちいち大声を上げていては、情報をばらまいているようなものだ。この後上司から咎められるかもしれないが、多少薬になればと思う。
「……行くぞ」
「え……でも……いいのかな」
戸惑うようにこちらを見上げるリュートを促し、回収したギルド証と依頼達成の報酬を懐にしまい受付を後にする。
「わーっ! ちょ、だから待ってくださいってばぁ! 話しを、話しを聞いてくださいよ!」
「聞いただろう。……その上で、断ると言った」
受付から身を乗り出し、服の裾を掴んで引き留める受付嬢に内心呆れながらきっぱりと否を叩きつけた。
事実、年もそう高い方とは言えないことと三年という短期間で|《四つ星》(カトル)となったため、いらぬ厄介事に巻き込まれる事も少なくはない。俺だけであれば煩わしい程度だが、そういった輩は手段を選ばない者も多い。リュートを標的にした者のまでいた日には、ギルドの管理はどうなっていると疑ったほどだ。
「どうしてそこまで嫌がるんですか?! 普通の人なら、喜んで受けますよ?」
「なら、その喜ぶ者達に与えればいいだろう」
「いやその、そういった方達は慢心してしまいそうと言いますか力量不足と言いますか……。そもそも|《五つ星》(ペンテ)は個人で活動する方へのギルドからの最大感謝を示すためにあるような物で、レギオンに属している方は選定の対象外ですから候補者も少なくて……だから依頼達成数が全登録者の中から見てもずば抜けている《黒き獣》(貴方)が抜擢されたわけで……」
ギルドに持ち寄られる依頼は、何も個人に向けた物ばかりではない。むしろ護衛などは、多くの護衛対象がある場合、一人、ないし数人では守りきれない。また急造の集団は連携に難がある。
そのせいか、あるいは安定しない生活をするが故に拠り所を求めるためか、ギルド登録者達の中には信頼の出来る仲間を集めパーティを組む者達も少なくはない。
規模の大きい集団になると、そういった集まりはレギオンと呼ばれるようになる。彼等は個人、あるいは小規模なパーティでは対処出来ない依頼をこなす存在としてギルドに大きく貢献し、また有名なレギオンともなれば相応の影響力を有している。
レギオンには多くの人が集まるが故の問題もあるが、個人で依頼をこなすよりは安全性が高くなる。|《五つ星》(ペンテ)などの位はそんなレギオンに所属しないギルド登録者を支援する意味も持っている。そのためレギオンに属する者は例え実力者であっても選定の対象外となってしまうのだ。
「……達成した依頼の難易度も考慮したのか?」
「いえ……ですが、大抵の指定依頼はこなせると――って、だから待ってくださいってば!」
「さっきも言っただろう……受けるつもりはない、と」
心底呆れた気持ちを込めて、改めて出した断りの言葉に、尚も引き留めようとする受付嬢は――
「確かにその、色々と面倒なことはあるとは思いますけど……っ、その分ギルドの方も今まで以上に力を貸すことができますから。ほら、例えば情報収集とか!」
苦し紛れに口から出たであろう言葉は、振り払おうとした俺の手を止めさせるには十分だった。
・ ・ ・
目的地の無い、いつ終わるともしれない根無し草の生活――けれど、俺とリュートにはとある目的がある。
それは三年前、この当てのない旅へと繰り出すことになった原因――ある国で、ある地方を治めていた領主の館が焼け落ちた事件――その真相を知る事。
日増しに寒さが厳しくなる秋のある日、収穫祭を終え来たるべき冬に向けた準備に勤しむ日々。貧しい者にも富める者にも、冬は等しく訪れる。海に面していない内陸故、高い山にぐるりと囲まれた高地であるが故、豪雪に見舞われる事はないが寒さは厳しく、人の流れはぱたりと途絶える。
薄く降り積もった雪が農地を被い、作物も育たぬため農民達は仕事をする事も困難となる。纏まった収入を得る事ができないまま、ただじっと春の訪れを待つ日々――次の春を迎えるためにも、人々は冬支度に明け暮れていた。
何年、何百年と変わることなく繰り返されてきた光景。変わる事のない秋の風物詩。冬を前ににわかに活気付いた街に、ある日衝撃的な事件が起こる。
その街は周辺地域を治める領主が居を構える、所謂お膝元との街だった。首都から遠く離れた土地に、お世辞にも良いとは言えない交通手段。けして優しいという事のできない自然環境。豊かな実りもなく、貧しい一地方。けれどそんな環境故か、領主と領民達との距離は近かった。
だからこそ――突然舞い込んだ領主の館が焼け落ちた、と言う知らせは領民達を震撼させた。
草木も眠る真夜中。冬の到来を感じさせる、高い空には満天の星が広がる。静逸な夜空の下、それは起こった。
星と月以外に光源がないはずの時間帯、まるで夕暮れのように夜空を焦がす赤色。街の住人は何事かと慌てて起き出し、明かりの方角から火の元が領主の館である事を知る。
街と領主の館とは、少々距離がある。街の住人が駆けつけた頃には、屋敷はすでに紅蓮の炎に飲まれた後だった。
おそらく冬越のために備蓄された薪などの燃料に、何らかの形で引火してしまったが故の惨事だったのだろう――検分に当たった憲兵は、屋敷の惨状を見てそう判断を下した。
時間帯が深夜であった事もあり、当時屋敷にいた者はほぼ全てが犠牲となった。せめて眠りの内に亡くなったのが救い、と言ったのははたして誰の言葉だっただろうか?
葬儀はしめやかに行われ、冬を間近に控えた時期にも関わらず領地中から多くの住民が集まり良き領主の死を悼み、これからの領運営がどうなるのかという不安を隠し亡き人達の冥福を祈った。
その地方は実りの少ない地域で、けして豊かと言う事はできない。しかし領主となる人物によってはそれでも容赦なく領民から税を搾り取り、払えない者は税の代わりと言って馬馬車のようにこき使うと噂に聞く――実際、旅をして目にした街のいくつかは、まさに悪徳領主が治めていると一目で判る場所も存在した。
風の噂にそのような話しを耳にしていれば、領民達が「うちの領主様はいい人達だ」と思うのも無理はない。それだけに火災によって領主一家が亡くなった事は衝撃だった。
そう間を置かず、亡くなった領主達に変わって別の貴族がこの地を治めにやってくるだろう。しかし新たな領主が今までの領主のような善政を敷くかは判るはずもなく、領民をどのように扱うのだろうか――そんな不安を抱えたまま、それでも迫り来る冬に向け支度を続ける。
そんな中――俺とリュートは故郷を飛び出した。
冬に向かう季節に旅立つ事が、いかに自殺行為であるかは知っていた。毎年春になり、家畜を連れて放牧地に行くと冬の間に力尽きたとおぼしき旅人の亡骸を見つける事も少なくはない。
けれど、それでも――一秒たりともこの土地にいたくはないと、突き動かす衝動を抑える事はできなかった。
当時、俺の弟は領主の館に奉公に出ていた。冬の間は農作業の大半が出来ないため、農村では跡継ぎ以外の子供は将来商人や貴族の元でも働く事が出来るようにと、礼儀作法を身につけさでて欲しいと領主の、あるいは商家などに預ける家庭は少なくない。特に故郷では地力の低さから新たな農地を開墾する事も難しいため、子どもたちの将来のためと幼い内から農作業以外の仕事を身につけさせるのが当然の流れだった。
俺が生まれ育った村は街からはやや離れた農村だった。けれど森一つを回り込む用にしか道がないというだけで、直線距離でいえばむしろどの街よりも領主の館に近かった。
その日、風向きのためかそれとも虫の知らせのようなものがあったのか――普段なら起きるはずのない真夜中に目を覚ました俺は、星空に灰色の筋が伸びている事に気づいた。方角と、不吉な色に染まる空から領主の館で何かがあった事は明らかだった。他の村人達も何かを感じ取ったのだろう、不安そうに空を見上げ、ざわめきだつ。
燃えている、いったい誰が言った言葉か、その単語はたちまちの内に村人全てに伝播した。騒然となる中、弟の身を案じて駆け出した俺を制止しようとする父親の声を振りきり、夜の森を突っ切る。
夜の森は視界など効くはずもなく、元々獣道程度しかなかったため走りにくい事この上なかった。それでも獣に襲われる事もなく、方角を見失わずに済んだのは赤々と燃える炎のおかげだろうか?
そうして屋敷に辿り着いた時には、すでに母屋から赤々と燃える炎が立ち上っていた。しかし使用人や弟のように行儀見習いとして下働きに出された子どもたちが寝泊まりするための別棟はまだ炎の腕に抱かれてはいなかった。
勢いのまま蹴破るように扉を開け、飛び込んだ先――そこにあった光景は、今でも鮮明に焼き付いている。
ごうごうと燃える渦中にあって、不気味に静まりかえった室内。簡素なベッドの上に横たわる人、鮮烈な赤――
そこかしこに転がる亡骸は、まるで人形のように現実味が無く、
けれどそこにある見知った顔が、浮かぶ苦悶が、鉄錆のような生々しい匂いが――幻覚ではなく現実である事をまざまざと知らしめる。
気が狂いそうな光景の中、ついに飛び火でもしたのだろう、炎は離れにも襲いかかる。追い立てられる獣のように逃げ惑った先――いったい何処をどう逃げたのか、気付は煙に満たされた屋敷の廊下で、毛足の長い絨毯の上に倒れた少女を見つける。息がある事に気付き、そのまま少女を抱えて屋敷から脱出した。
他にも生存者がいるかもしれない――弟の姿を探し引き返そうとした俺の前で、屋敷は音を立てて崩れ落ちた。
火災に気づいた街の人間が駆けつけるまで、俺は少女を腕に呆然とその場に立ち尽くしていた――らしい。
騒動から一夜明けた翌日、俺は領主の館で目にした事を、火災以前に領主夫婦と他の者達が殺されていた事を村長である父に、そして検分のため訪れていた憲兵に包み隠すことなく告げた。
しかし領民に向けて発表されたのは、領主夫婦は火災で亡くなった事という事――それだけだった。
俺の証言は全て、無かった事にされていた。何故だと食い下がる俺に、父は煙を吸って幻覚を見てしまったのだと言い、憲兵は子供の癇癪だと冷ややかな目を向けた。
まるでそんな証言など、あってもらっては困るといった風潮。
ただでさえ民から慕われていた領主が亡くなったのだ、それが何者かの手によって殺されたかもしれないともなれば、民達がどんな反応をするか解らない。だからこそ伏せられたのだろうが――当時の俺にそんな事は説明されず、ただただ理不尽な現実だけが突き付けられた。
そしてただ一人救出された領主夫婦の一人娘は、彼等からすれば扱いに困る厄介な荷物に他ならなかった。
娘は領地を管理するにはあまりにも幼く、任せる事は不可能だった。また新たな領主が赴任した場合であっても、新領主は嫌がおうにも亡くなった前領主と比べられてしまう。
もし領民達が新領主に対し不満を募らせた場合、娘が御輿として担ぎ出される事は容易に想像がつく。だからといって、始末などしてしまえばそれこそ領民の神経を逆撫でするようなものだ。ならば血脈に取り組む事でその芽を潰せるかといえば、やはりそれも問題がつきまとう。
新たに領主となった貴族は、娘を首都に住む前領主の親類の元へ引き取らせる事を提案した。事実、家族を失ってはいるが娘の血縁全てが犠牲になったわけではない。ある意味では、もっとも波風を立てない手段であった。
しかし血縁とはいえ、生きる術を知らない幼子が両親の庇護を失い、貴族社会という魑魅魍魎が蠢く世界へ足を踏み入れる事が何を意味しているか――多くの場合、それは政略結婚のための道具であり、そこに両親から注がれるべき無償の愛情は存在しない。娘を待ち受ける運命は過酷であり、向けられるのは哀れみや役にも立たない同情、落ちぶれた娘を哀れむ事で浸る事の出来る醜い優越感――
いくら何でも、それほど酷いはずがない。そう思っていた。物語は所詮脚色されたものであり、そこに書かれる人の姿は遠慮無く憎めるよう誇張されたものであると。
けれど娘を引き取るためやって来た貴族を目にし、その思いは間違いであると思い知らされる。
迎えにやって来たのは辺境の地には似付かわしくない、首都の贅をちりばめた装飾過多な馬車。手綱を引く御者すらも、故郷では裕福とされている家庭で使われている者よりも良質の服に身を包み土にまみれた周囲の人間を睥睨する。当然馬車から姿を現した血縁だという男はそれ以上に良質の衣服を身に纏い、何故自分がこんな田舎にといわんばかりの不満をうかべていた。
大人達と対話している間は、彫りの深い顔に辺境を治めていた親類に突如降りかかった災いに対する哀悼と、たった一人生き残った娘に対する哀れみを浮かべていたがその目の奥には――隠しきれない歪んだ感情が灯っていた。
まるで獲物を前にした肉食獣のような、舐め回すような視線。
事件の衝撃からか、精神的に安定を欠いていた少女は人形のように生気が無く、どれだけ声を掛けても反応は薄かった。かと思えば、時折狂ったように己を傷つける事さえあった。それはまるで己の中に巣くう感情を、苦しみを吐き出すかのように。
そんな少女に対し、迎えに来た男は至極丁重に扱った。幼くして両親を失い、その現実から立ち直る事が出来ていない少女を気遣っているといわれれば多くの者が信じてしまうように――
けれど動作の端々からにじみ出る、粘り着くような邪な思い。
このまま少女が引き取られれば、どのような目にあるのか――想像する事は容易かった。
だから――
少女の容態は安定しておらず、とても長距離の旅が出来るような状況ではなかった。けれど男はともかく悪い思いでのある場所から離れてみてはどうかと、環境を変える事で改善に向かうのではないかともっともらしい事を口にする。事実、本格的な冬が訪れればいかな貴族であろうと所詮は人の力。移動する事は困難だ。何もない田舎に一冬も閉じ込められるなど、貴族の感覚からはあり得ないのだろう。
迎えの男に連れられ、旅立つその日。
俺は人形のように生気のない少女に、自分があの事件とその扱いについて何一つ納得などしていない事を、真相を知るために旅立つ事を告げた。
その上で問うた――それでいいのかと。納得しているのかと。少女に選択肢を叩きつけた。
それが、旅の始まり。
いつ終わるとも、どこで手掛かりを見つける事が出来るとも判らない、俺と彼女のあてない旅の始まり。
・ ・ ・
「|《五つ星》(ペンテ)に対して、ギルドは最大限の支援を行っています。ギルドの情報網を持ってすれば、貴方の探す情報も、何か進展が得られる可能性があります」
「……何故、その事を知っている?」
胸の内で燃えさかる暗い記憶を表に出さないよう、勤めて平静を装った声に受付嬢は咳払いを一つ。
「ギルドランク|《四つ星》(カトル)、ジーク・レシス。通称|《黒き獣》(プレトヴォスタ)がある事件について情報を集めているという事は、ギルドに出入りする人間であれば一度くらいは耳にしますから」
三年間も同じ事件について聞き回っていれば、知られていない方がおかしな話しという事か。特にギルドという場所には、人と同じく多くの情報も集まるのだから。
ギルドには冒険者と依頼主との橋渡しをする役割の他にも、情報の集積・整理・伝達の役割もある。ある程度金を払う事で、利用者はギルドが持つ情報を買う事が可能だ。……もっとも、ギルドランクが低い者には重要性の高い情報を買う事は出来無いのだが。
これは依頼にランク付けがされているのと同じように、素人が実力に見合わない仕事を受けないようにさせる配慮でもある。また信頼のない者に情報を売った場合、その後どんな形で悪用されるか判ったものではない。それの防止策も含めている。
俺とリュートがあの事件……世間では事故として処理されている事について調べ回っているのは、ギルド内ではそこそこ多くの者に知られている事だ。情報があると商談を持ちかけてくる者もいるため、今更驚くような事ではない。
もっとも、そういった者が持ってくる情報はほとんどがガセネタか噂程度のものであり――中にはどこぞの暗殺者が依頼されて殺した、などという荒唐無稽な物まであった。
故郷の事を悪く言うのは気が引けるが、あの土地は東大陸の中でもあまり豊かではないと言われるこの国ウォラオドスの中でもさらに貧しい部類に入る。領民は日々の糧を得る事に精一杯で、領主の収入も多くはない。冬を越えるため、働き手である男達は冬の間で稼ぎのため故郷を離れなければならない事も多い。目立った産業もなく、交易のために有益な街道も通っていない地方の領主――哀れまれ蔑まれる事こそあれど、国の勢力争いや恨みを買うなどして疎まれけされるような事があるとは、とてもではないが思えない。
これが例えば領民に重税を敷いていたなどの話しであれば、圧政に耐えかねた領民が暗殺者を雇ったあるいは凶行に及んだなどという可能性も否定は出来ない。しかし領主夫婦は人柄の良い人達で、――有り体に言えばお人好しであり、不作で税を納める事が出来ない年には納税を延ばすなど領民達の生活を手厚く支えた。
そのような人達が恨みを買うなど――それも|《四凶》(カラミタ)に依頼したなどとほら話にしてもタチが悪い。
|《四凶》(カラミタ)というのはギルドでいう|《五つ星》(ペンテ)のような物で、名の知られた暗殺者につけられた通称のような物だ。|《赤目》(レッド・アイ)、|《人喰らい》(マン・イーター)、|《辻斬り》(スラッシャー)、|《殺し屋K》(キラー)――その正体を知る者は少なく、民草が知るのはその名と彼等が築いた躯の山のみ。しかしその名を聞くだけですくみ上がる、もはやお伽話に語られる化け物と同等の存在。
確かにあの事件では短時間に多くの人が命を落とした。あれだけの人数を情け容赦なく殺して回る手並みは、確かに噂に聞く|《四凶》(カラミタ)が関わっていると言われて否定する事は出来無い。
だが、だと言うのなら――いったい誰が、なんの恨みを持って領主夫婦どころかあの場にいた者の全てを殺すというのか?
権力者の勢力争いならいざ知らず、たかが田舎領主がいったいどのような経緯でそんな化け物に命を狙われなければならないというのか。時には依頼主にさえ容赦なくその凶刃を振るうという、狂った殺し屋。接触する事すら死を意味するような存在に頼まねばならないほどの恨みを買うような人達だったとは到底思えない。要所ではない土地を任されているが故に、国における発言権もほとんど無く、他の貴族から恨まれるような事もない人達だったというのに。
しかし――なら、いったい何故にあの事件は起こったというのか。
考えれば考えるほど謎は深まるばかり。それでも、あの事件の真相を知るために、俺達は旅を続けている。例え滑稽だと笑う者がいようとも……。
ある意味で、|《五つ星》(ペンテ)に名を連ねるという事は渡りに船なのだろう――だが得られるかもしれない僅かな可能性と、向けられるであろうやっかみや挑戦者を名乗る不作法者の存在を天秤に掛けた場合、はたしてどちらに傾くか。
三年――あの事件から、もうそれだけの時が流れている。すでに人の記憶から薄れ、新しい情報を得るどころか話題に上がる事すら少ない。僅かにでも可能性があるのなら、賭けてみるのも一つの手ではあるのだが――
「……悪いが、俺は」
「なー、話し込んでるトコ悪ぃんだけどよお、時間かかるなら先こっちの依頼手続きだけでもしてくれね?」
いつの間に背後にいたのか、軽装の男が呆れた口調で手にしている依頼書をひらりと振った。