5 -アカノキオク-
「……っ」
体の調子が本調子とは言えないせいだろうか、咄嗟に受け身を取る事すらままならず、整えられているはずもないむき出しの地面に打ち付けられた背中が痛みを訴える。
異形の凶爪が俺達を捕らえる寸前、何かによって突き飛ばされた。おかげで禍々しい爪に引き裂かれることは回避された訳だ。標的を失った爪は方向を変える事はせず勢いをそのままに大地へと突き立てられ、鈍い衝撃と共に周囲を陥没させる。破砕音と伝わる振動が、異形の斥力が生み出す破壊力を物語る。
まともに食らっていれば、人間などひとたまりもない。
冷たいものを感じながら、生存本能がここに留まってはいけないと警鐘を鳴らす。
思うように動かない体にもどかしさを覚えながら、異形の獣が体勢を立て直す前に移動すべく、胸の上に乗ったリュートと共に立ち上がろうとその小さな体を支え――
「え――」
手に触れた感触に、思いもよらないぬるりとした熱に、我知らず言葉がこぼれた。
いまだ感覚の鈍い掌に伝わるぬるりとした感辱。
鼻をつく赤錆のような生々しい匂い。
やけに暖かな体液とは反対に、胸に乗った体から伝わる体温は急速に冷えてゆく。
「リュー……ト……?」
こぼれた声に返答はなく、かすれた音がただ他人のもののようにやけに耳障りに聞こえた。
薄暗い視界の中で、光の下にいるわけでもないのに――
目に映る光景は、やけに色鮮やかな赤に染められていた。
赤――朱。
それはリュートの纏う色。かつてそうであったように、背に広がる赤はまるで己の存在を主張するの如く、しかし毒々しく、あたかも風に遊ばれでもしているかのようにゆるゆると広がってゆく。
それが何であるのか、何を意味しているのか、理解する事を拒む思考は、しかし腕の中にある覆りようのない現実によって、否応なしに認めさせられる――
異形の爪から逃れるため、突き飛ばしたのは彼女だと。今も止めどなく体を濡らす暖かな液体が、彼女の血であると。それが俺を逃がした代償であると言う事を――っ!
「なん……で、どうして――こんな……っ!」
問いに、返る言葉などあるはずもない。噎せ返るような血の匂いに目眩がする。
紅く染まった少女の姿に触発され、記憶の奥底に埋めたはずの光景が蘇り、目の前の現実と重なる。
炎によって紅く染め上げられた屋敷、散らばる亡骸飛び散る血痕。
血溜まりの中に倒れ伏す見知った、あるいは面識のないかつて人だったモノ。
それら全てを呑み込む獄火。
地獄のような光景から、奇跡的にもたった一人だけ助け出す事の出来た少女もまた、その身に赤を纏っていた。
事件の後、リュートは赤を見たくないと怯え、自らの髪を切り落とした。
だが――真に赤を恐れていたのは、誰だ。
あの日あの時、焼け落ちる屋敷の中でリュートを見つけたのは惨劇の痕跡も少ない一角。
煙によって視界こそ悪い中、火の手も血痕も存在しなかったあの場所で、リュートが全てを奪った赤を目にしていた可能性は、実に少ない。
真に赤を恐れていたのは――俺だ。
惨劇の跡も全てを呑み込む地獄の炎も、目の当たりにした者は犯人を覗いてはただの一人しか存在しない。
あの時彼女は、何に怯えていた? 全てを奪った炎に? 自らの髪に? 突然訪れた不幸に? ――庇護者を失い途方に暮れる彼女の姿から、それを判別する事は、出来なくて。
だが身の回りの世話をする者が事あるごとに彼女がその身に纏う赤から惨劇を連想し、身を固くしていれば聡い彼女の事だ、気付かないはずがない。そんなぎこちなさは肉親を失い打ちのめされている少女に更なる追い打ちをかけていたと、何故気づけなかった?
誰一人として頼る者がいない彼女を、あそこまで追い詰めてしまったのは――他ならない俺自身。
朱の中から唯一助け出せた少女が、再び朱に染まる事を何よりも恐れて。
行動の端々から滲むその想いが、守りたいと思う者を何よりも傷つけていた。
そして今――また、己の失態から、取り返しのつかない事態を招いてしまった。
「う……ああああぁあああああああああああっ!!」
雪崩のように押し寄せる朱の記憶が、腕の中で力を無くした少女の重みが、今更のように責め立て――




