1 -森の中、惑いの中-
虫の声が聞こえる。風に揺れる木の葉の音も。
優しい音色に誘われて、曖昧だった感覚が戻ってくる――ふわふわした毛布越しに伝わってくる固い感触。もう何度も繰り返した、野営の時に感じる地面の感触。
「ん……」
「あ、起きた?」
頭の上から声が振ってきた。
聞き慣れた低い声じゃない、だけど聞いたことのある声。いったい誰なんだろう? ぼんやりとした頭でそんなことを考えながら、確認しようと体を起こす。
だけど重い体には力が入らなくて、思ったように動けない。ぐらりと視界が揺れる。
「おっと」
そのまま地面に倒れそうになったわたしを、支えてくれたのは声の主。細い腕が危なげなくわたしの体を抱き留めた。
「大丈夫? 怠さがあるならあんまり無茶、しない方がいいわ」
「……?」
苦笑しているような声をかけられる。いったいどういうことなのか、なんでこんなに体が重く感じるのか――旅を始めたばかりの頃だって、野営をすることは珍しくなくて、でもその時にこんなふうになることなんて無かった。
まるで体が自分のものじゃないみたいに、言うことをきかない。
戸惑うばかりのわたしをおいて、声の主はまたわたしが倒れてしまわないように丸めた毛布を背もたれのかわりに置いてくれた。
異様な気だるさのせいでされるがままのわたしの目の前に、すっとカップが差し出された。随分長い間眠っていたのかな、すごく咽が渇いていたから、反射的に受け取ったカップに疑いもなく口をつけて、
瞬間――口の中に広がる、今までに経験したこともない味。
苦い、とも違う。辛い、とも違う。不味いと言えばそうなんだけどただそれだけじゃなくて、甘さと苦さと酸っぱさと塩辛さと青臭さと――
とにかく言葉にするのも難しいくらい、滅茶苦茶な味。いったい何をどう混ぜたらこんな味が出来上がるのか、まったく想像も出来ない。
とんでもない不意打ちにむせ込んでいると、声の主が優しく背中をさすってくれた。
「あーあ……大丈夫? まぁ、これ確かに酷い味だけどさ……その分効果はお墨付きなのよ。だから、残さず飲んでおいた方がいいわ」
「けほっ……こう、か……?」
「うん。あの野郎、よりにもよって極悪な毒薬ばらまきやがったもん。一応対策はしてたとはいえ、ほら念には念をっていうし? 万が一吸引しちゃってた場合を考えて、解毒はきっちりしておかないとね」
まったく、何を考えているんだか――ここにはいない誰かに向けて毒突く言葉。
何をそんなに怒っているのか、それよりも何よりも――毒という単語と口の中に広がったとんでもない刺激に、それまでぼんやりとしていた意識が否応なしに引き上げられた。
まるで頭の上から冷たい水でもかぶせられたような、そんな気分。
だって、この声は。彼女は――
「……アル?」
「うん? 何かな?」
「――なんで……?」
目の前でこてんと首を傾げる魔導士の姿に、次々疑問がわいてくる。
雪崩みたいに押し寄せる記憶。鮮明になった意識に突き付けられる現実。体が、強張るのがわかる。
お父さんとお母さんを殺した犯人を捜して盗賊のアジトに向かったこと。
そこで同じ盗賊を追っていた二人組と協力することになったこと。
二人と協力して盗賊達に奇襲を仕掛けたこと。
浮き足立っている中、盗賊の頭領を捕まえて問い詰めたけれど、あの事件に関して何も知らなかったこと。
仇について教えてくれた榮が、何故か盗賊のアジトに来ていたこと。
そして――榮の口から語られた、仇の正体。
否定しなかった氷髪の魔導士。
なんで、どうして――次から次へと浮かんでくる疑問とは正反対に、上手く言葉が出てこない。主語のない問い掛けに、だけどアルは不快に思った様子もなく、近くに腰を下ろしたまま口を開く。
「……貴方は、どこまで覚えてる?」
「え? え……っと」
吸い込まれそうな瞳に射抜かれて、気が付けば纏まらない言葉で、途切れ途切れに質問に答えていた。
「そっか……」
「……ジーク、は?」
「残念ながら見ての通り、よ。あの後、まんまと逃げられちゃってね」
情け無いったらありゃしない――自嘲するみたいに肩をすくめる。そんなアルの姿に、本当にジークがいないんだって思い知らされた。不安で仕方の無かった心が、さらに寂しさを訴える。ギルドの依頼でどうしても一緒にいられない時以外は、いつだって側にいてくれたジークがいないことを認めたくなくて、ジークの姿を探して視線をさ迷わせるけれど、どんなに探しても見慣れた黒髪はどこにもない。
ギルドで危険な依頼を引き受けた時、危ないからってジークは一人で依頼をこなしに行くから一人になることには馴れているはずなのに――どうしてだろう、訳もなく涙が溢れてくる。
いろいろなことがありすぎて、どうしたらいいのかわからない。ぐちゃぐちゃになった心が何かを訴えるけれどそれはきちんとした言葉になる前に嗚咽に呑み込まれて意味のない音となって口からこぼれる。
後から後から込み上げてくる涙が、止まらない。
泣き崩れるわたしを、アルは何も言わないまま静かに見守っていた。
「――少しは落ち着いた?」
「……ん」
涙の跡を拭いながら、どうにか頷く。
敵愾心が無くなった訳じゃない、警戒心だってある。でも泣きわめく姿を見せてしまった気まずさや、そんなわたしを何も言わず泣き止むまでずっと側にいてくれたこともあって、むき出しの敵意を向けることは、やっぱりできなかった。
温め直されたアル曰く解毒薬が入ったカップからじんわりと熱が伝わってくる。毒々しい色をした液体は、とてもではないけど人が飲むモノには見えない。ついまじまじと見ていると、横合いからアルの声。
「色々と聞きたいこともいいたいこともあるでしょーけど、まずはそれ、飲んでからにしない? 体、まだ本調子じゃないでしょ?」
「……?」
「さっきも言ったけど、それ一応解毒薬なのよ。見た目と味はアレだけどね。ほら、覚えてないかな? あいつが顔を見せるちょっと前、仲間をおいて逃げようとした薄情者がぶっ倒れてたでしょ。あれが毒の効果よ。|《悪戯小僧》(シュレム)の麻痺毒……吸引した者から体の自由を奪う麻痺毒使ったみたいでね。……ったく、あんな凶悪なのが出回ってるだなんて、まったく世も末だ」
「え、と……それって、あの霧?」
吐き捨てるみたいなアルに対し、ついそう問い掛けた。あの時盗賊達が倒れるのとほとんど同じくらいに、不自然な霧が発生してたから……
「違うわ、あれはあたしの仕業。……空気中の不純物を凝固させることによって、体内に取り込まないようにする魔術……氷の魔術の中の、まあ一種の防御術って分類に入るかしら」
だけどわたしの疑問を、アルフはあっさりと否定した。馴れない魔術というものの話し、それにこの話しを信じるのならまるでそれは守ってくれたみたいで――ううん、もうわかってるはずだ。こうやって今敵意の欠片も向けられていないって言うことが、何よりの証拠で、
だけど――素直に認めることができなくて、わたしはただ黙り込んだまま俯くしかできない。
「まあ、そのあたりも含めて詳しい説明はそれを飲んでからね。……いくら肉体にのみ効力を発揮するよう調合されてるからっていっても、異物である以上心への影響は少なからず存在する。今の状態じゃ、話してもまともに頭に入らないでしょ?」
だからまぁ、眠気覚ましだと思ってぐっといっちゃおう! と、おどけたように言う。
確かに正論だった。だけど手元に視線を戻せばそこにあるのは言い表せないくらいすごい色をした何か。
……これは絶対人の飲むモノじゃない。そう断言することができる。
ただ毒々しいというのとも違う、お祭りの時に偶に売られている綺麗に見えるよう色づけられているのとも違う、ただあるだけで口に入れることを躊躇ってしまう、そんな存在。
「ちなみにそれ、冷めるとさらにすごい味になるわよ」
「……どれくらい?」
「うーん、そうね。具体的にはえぐみと泥臭さその他諸々が三割り増し。ついでに喉越しがさらにとんでもないことになる」
アルの言葉が追い打ちをかける。これ以上酷い味が、この世に存在するんだろうか。少し想像しただけでさっき不意打ちで口に含んだ味を思い出しそうになって、慌てて頭を振る。
これ以上見ていたって冷めてしまうだけだ。そうなったらあれよりも酷い味のものを飲むことになっちゃうと、理由もなく確信できた。
……でも、戸惑いが無くなる訳じゃない。それはこの解毒薬がとても酷い味だったからというのもあるけれど……アルの言っていることが本当なのかどうか、わたしにはわからないから。
だって、アルはお父さんとお母さんを殺したって、否定、しなかった。
それにジークのことも魔術で攻撃してて……なのに、なんで? どうして今はこんなふうに、まるで守っているみたいな、そんなことをするの?
目の前にいる氷髪の魔導士からはあの時感じていた、肌を刺すみたいな恐い感じがちっともしない。
お父さんとお母さんを、お屋敷の人達を殺した人のはずなのに、なんで、
わからないことが多すぎる。……でも、こうしていろんなことを考えられるのも薬の効果なのか、それともとんでもない味に体が無理矢理起こされただけなのか――疑問ばかりがわいてきて、考えが上手く纏まらない。
「――アル姉ーっ!」
しんと静まっていた空気を破ったのは、元気のいい声。わたしの悩みなんてまるで気にしたふうもなく、声の主は声と同じくらい勢いよくこの場にやって来た。
さらさらの金髪をショートカットにした、わたしより少し年上くらいの女の子。異国の民族衣装を翻し、元気よく飛び込んできた白は勢いをそのままアルに飛びついた。
「ただいまっ!」
「ん、お帰り。それで向こうはどうだった?」
「えっとなー、アル姉が言ってたとーりだった!」
「そっか」
無邪気なやり取り。その様子はまるで犬か猫みたいだとどうしてだろう、そんなことを思ってしまう。
わたしの視線に気付いているのか気にしていないのか、アルに頭を撫でられると、白は気持ちよさそうに目を細めた。
本当に、大きな犬か猫みたい。
「……あ、リュート! 起きてた? どこか痛ないか? 動ける?」
「え、あ……うん」
「そか、よかったー」
勢いに押されたまま何とか相づちを返す。そうすると納得したのか、白は心の底からほっとした、無邪気な笑顔を浮かべた。
……なんで、どうしてそんな顔をするんだろう? ますます戸惑うわたしに気付いていないのか、白は本当に心配してくれていたみたいで――その事実が、ますますわたしを混乱させた。
目の前にいる二人からは、悪意も敵意も感じられない。特に白は嘘なんかつけないって、短い間しか見ていないけど確信できてしまっているから、二人が本当に心配してくれていると言うことが、嫌でもわかってしまう。
改めて手元に視線を戻す。
相変わらず、カップの中の液体はどう贔屓目に見たって人が口にする物には見えない。だけど意を決して、目をつぶったまま一気に飲み干す。口に含んだ瞬間体の芯を貫くようなとんでもない味に、体が拒否反応を示すけれど、吐き出したい衝動を抑えて無理矢理呑み込む。
「ぅ……っ、けほ……ぁ」
口の中にはもう何も残っていないはずなのに、まだあの酷い味がするような気がする。思っていた以上の後味の悪さにしばらくむせ込んでいると、目の前に何か茶色い固まりが付き出された。
「……?」
「口直し。こっちもね」
固まりと一緒に手渡されたカップにはさっき呑み込んだものとは違う、白い液体。じんわり伝わってくる温かさと、ふんわり漂う甘い香り。
温められたミルクを受け取り、一口口をつける。すっかり感覚の麻痺している舌に味がわかるのか不安だったけれど、そんな心配は杞憂だったみたい。優しい甘さが口の中に広がる。蜂蜜が入っているんだってわかった。
茶色い固まりはパウンドケーキみたいで、クルミやドライフルーツがたっぷり入っている。美味しそうな香りに刺激されて、お腹がくぅと自己主張した。
恥ずかしさ半分、ようやくお腹が空いていることを自覚した。誤魔化すように一口、パウンドケーキもミルクと同じように美味しい。でもそのことを素直に口に出すことはできなくて、黙ったまま黙々と口に運ぶ。
わたしが食べ終わるまでの間、アルはやっぱり何も言わず、ただじっとわたしのことを見ていた。まるで心の中を見透かすような氷色の瞳。でもそこに害意とか悪意とか、そういう感情を感じることは、結局目が覚めてから今まで一度もなかった。
「……ごちそうさまでした」
「どうも、お粗末様でした」
「おいししかったー?」
「………」
習慣でつい、いつものように口にした言葉にアルは律儀に、白は金色の眼をきらきらさせながら反応する。そんな二人にどう反応したらいいのかわからなくなって、でもこくりと相づちだけは返した。
とたん嬉しそうによかったーと言う白。アルも言葉にはしないけれど同じように思っているみたいで――ますます訳がわからなくなって、わたしはただ戸惑う気持ちをそのままに、どうしてと問うようにじっと二人を見上げた。
「まずは改めて、軽く自己紹介からいきましょうか」
わたしの視線に気付いたんだろう、アルはそう前置きをして語り始める。
「あたしの名前はアルフ。アルフ・K・フェラノイド。この子は白虎京子。あいつが言っていたように、|《死刑執行人》(ディアノーディル)にして|《殺し屋K》(キラー)、本人よ」
唐突な告白。
何を言っているのか、それがどういう意味なのか、にわかには信じることができなくて――
「……嘘、だよね?」
「その疑問は二度目ね。……信じがたいってのは重々承知。けど、ここでわざわざ嘘をつく必要性なんてあるかしら?」
くすり、と口元に薄い笑みを浮かべたまま、アル――アルフは言い放つ。その瞳には嘘も偽りもなくて、ただ淡々とした様子が、さっきの言葉が事実なんだということを伝えてくる。
|《死刑執行人》(ディアノーディル)――それはギルドに|《五つ星》(ペンテ)の制度ができたその時からそこに名前を刻む実力者。同じように制度ができた時から名前を連ねていた|《千技》(タウゼント)が引退した今では、唯一の古参にして最強を示す称号。
もう一つの二つ名、|《殺し屋K》(キラー)というのは裏社会の住人の中でも、特に名の知れた犯罪者の名前。その二つ名の示すとおり、かの人が現れた後には死体が山となって積み重なる、なんて言われている。まさに不吉の象徴。その姿を見た者は情報隠蔽のために殺される――そんな噂まである。
ギルドと裏社会、二つの違う場所で、だけどよく名の知られた強者が同一人物だなんて――
「そんなの……信じられないよ」
ギルドにいる強い人達ですら、その名前を聞くと怯えてしまう。そんな存在が、今、自分の目の前に居るだなんて。何よりそんな人が見た目わたしとそう年の変わらない女の子だなんて――そんなの、簡単に信じることはできない。
「ま、その気持ちも解らなくないけどね。……でも|《狂獣》(モルデラウァ)、|《人喰らい》(マン・イーター)相手に喧嘩を売ろうっていうのが、売ってまともに相手になるのがはたしてどれくらいいるのか……少し想像すればわかるでしょ?」
わざわざ嘘なんか、つく必要も無いしね。と肩をすくめるアルフ。確かに実力者揃いの|《五つ星》(ペンテ)の中でも|《狂獣》(モルデラウァ)は戦闘能力が頭一つも二つも飛び抜けているんだって言われている。そんな榮と互角に戦える人は、同じ|《五つ星》(ペンテ)に名前を連ねている人か、集団で活躍して名前が知られている人くらいだろう。
ジークだって同じ|《五つ星》(ペンテ)に名前を連ねたけれど、たぶん、一対一で戦ったら榮には勝てないと思うもん。
「嘘……」
「信じられない? それとも、たくない?」
「なんで……嘘、ついたの?」
困ったような顔でこちらを見ているアルフに、ようやく絞り出せたのはそんな言葉。
だってあの時、始めて会った時、ここで、この場所で――自分はギルドに所属していないって、|《流れ星》(ステッラ)だって、アルフはそう名乗ったのに。
「初対面の人間相手にそう簡単に本名名乗るほど、平和な生き方してないのよ」
「っ、ふざけないで!」
「別にふざけてなんかいないってば。それに、偽名を使ったことを怒るのなら、それはお互い様でしょう?」
ね? と、向けられた氷色の瞳はまるで全てを見透かしているみたいで、詰め寄ろうとしていた体が思わず止まる。
「な、なんで……」
「なんでもなにも、下調べは基本でしょ。いくらあの頃未熟だったからって……や、だからこそ余計念入りになるわけだけど」
あっさりと、まるでなんでもないことのように口にした。
「さて、と。こっちは名乗ったんだし、話しをするのならそろそろ貴方の本当の名前、聞かせてくれてもいいんじゃないかな?」
優雅、そうとしか言いようのない仕草で、物怖じなんてどこにもない姿でアルフは問う。
諭すような、促すような――けれど嘘を許さない、そんなもの見抜いてしまうと氷色の瞳が無言で語る。
「……エリュトロン」
その堂々とした姿に、自信すら満ちた姿に気圧されるようにして、気が付けば、唇はその名前を紡いでいた。
「ヴォラオドス王国、元ユヴェリエ領領主が第一子、エリュトロン・ユヴェリエ」
三年振りに口にした名前はまるで自分のものじゃないみたいに空々しく聞こえ馴染まなくて、でも今となってはそれだけがお父さんとお母さんとの、昔と今とを繋ぐ確かな手掛かり。
わたしの口から出た名前にアルフは一つ頷き、京子は戸惑った様子でわたしとアルフの間で何度も何度も視線を行き来させる。
「……じゃあ、もしかしてだけどジーク、彼の名前は――」
そう言ってアルフが口に出した言葉は、わたしの名前と同じ、三年間聞くことの無かった、だけど一番近くにいた人の名前で、
「ジークのことも、知ってるの?!」
アルフの口からジークの本名が出たことに思わず反応してしまう。
冷静になって考えれば下調べをしていたと言うんだから、あの事件で亡くなった人のことを調べているのは当然だ。ジークの弟さんも亡くなっているから、アルフがジークの本名を知っているのだって、別におかしな話しじゃない。
「や、知っているっていうか……単に当てずっぽうで言っただけよ。まさか当たるとは……」
なんでだろう、この時アルフは呆れているような、なんとも言えない顔をしていた。




