0 -ある青年の憂鬱な午後-
迫り来る一撃を、半歩体をずらすことで避ける。黄ばんだ爪が青年の身を守る黒鉄の鎧をかすめ、滅多なことでは傷つかないそれを僅かに削った。
生身であれば、いったいどれ程の傷を負っていたか――薄ら寒いものを覚えながらしかし、攻撃の隙を縫うようにして懐に潜り込んだ青年が動きを止める事はない。
身に纏う防具と同じく黒鉄で作られた、その名の通り艶を消したような黒みを帯びた見た目に反して、軽く切れ味のよい直剣を襲撃者――冬眠を目前に控え、気の立った大熊の腹部へと突き立てる。
剣を通して掌に伝わる、肉を切り裂く生々しい感触。
「――ふっ!」
浅い息と共に深々と突き立てた剣を腹部から胸部へ、胸部から喉元へと一気に押し上げる。割けた腹から大量の血と臓物があふれ出し、生臭い匂いがその場にいる者達の鼻をついた。
絶叫が空気を揺らす。
断末魔を上げた大熊は、身体を支える力すら失い自らの血液で出来た赤い染みの上に為す術もなく倒れ伏す。
巻き込まれては目も当てられない。青年は命の火を消した大熊の懐から素早く脱出し、倒した相手に潰されるなどという失態を晒す事はない。
年頃は二十程度。荒事を生業とする者としてはやや細い印象を受けるが、背が高いため相対的にそう見えるのだろう。むしろその身体は無駄のない筋肉で被われている。黒鉄で作られた剣や要所を守る軽鎧と同じよう、黒い髪は男性でありながら長く、腰までとどくであろうかというほどだ。身につける装備と相まって、黒で統一された印象を与える中、瞳だけが唯一僅かな青みを帯びた藍色をしている。
鋭い瞳は油断無く周囲を一瞥し――街道沿いの有り触れた林の中、離れた場所で転倒している荷馬車を襲うもう一頭の大熊を排除するべく地を蹴る。荷馬車を守るように傭兵とおぼしき者が数人、大熊の対処に当たっているが不意打ちをされたためか浮き足立っており、依然不利な状況だった。
しかしその行く手を塞ぐように、森の中から一際大きな大熊が姿を現す。血走った目が屍肉となった大熊を、そして仕留めた当人である青年を捕らえ怒りに染まる。
この大熊は青年が殺した大熊と馬車を襲う大熊の母熊であった。普通は単独行動であるはずの大熊が二頭で荷馬車を襲っていたのは、ようやく巣立ちをしたばかりの若い個体であり、狩りに自信が無かったためだ。そしてそんな我が子を案じた母親が、こっそり後をつけていたのだろう。
麗しき親子愛ではあるが、襲われた荷馬車や護衛の傭兵、剣を振るう青年からすればなんとも間が悪いにも程がある。
地鳴りのような咆吼を上げ、母熊は子我が子を殺した青年へと突進する。
「く――」
舌打ちをしたい気持ちを抑え、振り下ろされた前足をすんでのところで回避する。鋭い弧をかく爪が、遅れた髪を引き千切り数本の長い髪が空に散った。
先の動きを見ていたのか、それとも子熊に比べ経験を積んでいるが故か、母熊は両腕を器用に使い、懐への進入を許さない。体格差から、わざわざ隙の多い強烈な一撃を見舞わなくとも対処出来ると判断したのだろう。だが、その分狂ったように次々と襲いかかる爪は生半可な技量の者ではしのぐ事は難しく、瞬く間に引き裂かれ、屍となることだろう。
襲いかかる爪に剣を合わせて軌道を反らし、あるいは半歩姿勢を動かし青年は焦ることなく最小限の動きで回避する。
責める大熊、避ける青年。いつ崩れるともわからない均衡。そんな状況に変化を与えたのは、第三者が上げた歓声だった。
遅れて聞こえてきた、何か巨大なものが濡れた地面に崩れ落ちる音。荷馬車を襲っていた子熊が、どうにか持ち直した傭兵たちの手によって打ち倒されたのだ。
不吉な音に振り返った母熊が目にしたものは、まさに傭兵の剣によって討ち取られた我が子の姿だった。更なる怒りを瞳に燃やし、間に合わないと知って尚、我が子を殺した傭兵に報いを与えようと襲いかかる。
喜びに湧く傭兵達に向け黄ばんだ爪を振り下ろそうとしたまさにその時、母熊の胸にずぶりと、鈍い衝撃。
荷馬車へ向け突進した母熊を追うように、青年もまたその背を追っていた。無慈悲に突き立てられた黒い刃はしかし、子熊のように容易に切り裂くことは叶わない。痛みに我に返った母熊が、無粋な襲撃者に制裁を与えるべく腕を振りまわす。が、その爪が死角に身を隠した青年に届くことはない。
「う……おおぉっ!」
気合いと共に振り上げた剣が、母熊の背を切り裂く。剣が抜けたことで両者の立ち位置が変わり、痛みを堪えながらせめて一撃を加えるべく、母熊は分厚い毛皮に被われた腕を振り上げ――
傷を負った事で緩慢となった一撃は滑るようにかわし、がら空きの腹部へと刃を突き立てた。
苦しげなうめき声はやがて小さくなり、傭兵達があげる歓喜の声にかき消された。
後に残されたのは、物言わぬ躯と黒の青年。
母熊の命が完全に消えたことを確認した後、残心を解いた耳にぱちぱちと場違いな拍手が届く。
「よ、ごくろーさん」
誉めているのかからかっているのか、判断に苦しむ陽気な声。その場にそぐわない声の主は青年と同じように武装した茶髪の傭兵で、緊張感の薄い顔で早速屍となった大熊達の解体に取りかかる。
「そう思うのなら、少しは手伝ったらどうだ?」
「だから解体はやってんだろ。それに、せっかくの機会を奪っちまうのもなーってな。ほら言うだろ? 若い内の苦労は買ってでもしろ、ってよ」
「あまり年も差がないのだろう? ……そんなに言うのなら、売りつけてやろうか」
「ははっ、ごめん被るね」
けらけらと笑い飛ばし、抗議の声を柳に風と受け流す。
「しかし、あっちの連中はどーすんのかね。馬車、見事に大破してるみてえだし」
「……そのための人手だろう?」
「んー、まあそうなんだけどなぁ……」
青年の言葉に、どことなく歯切れの悪い言葉を返す茶髪の傭兵。その予想を肯定するように、程なく二人の元へ荷馬車に乗っていた商人がやってきた。
商人は先の襲撃で車軸がやられてしまったため、この場で荷馬車の修理が難しい事。さしあたっては青年達が乗っていた荷馬車に一部荷を載せさせてもらえないかという事。勿論輸送費も、護衛としての戦力も出すとの事――これはそちらの方が腕が立つようで、と苦笑交えであった――など、様々な事情を説明し、青年らに協力を求める。
交渉は黒髪の青年よりも茶髪の傭兵の方が得意なようで、いつの間にやら解体用の小刀は青年の手に押しつけられていた。悪びれもせずに手渡していくあたり、ふてぶてしさが窺い知れる。
一時的な事とはいえ、何故このような男と行動を共にする事になってしまったのか――黒髪の青年は手を動かしながら、内心で盛大なため息をこぼした。
何故このような事になったのか――事の発端は、数日前に遡る。