間章 -ありし日の情景-
それは辺境の地を襲った悲劇。
変わり映えのない、けれど平穏な日々が繰り返されるはずだった僻地を突如襲った不幸。
唐突な出来事が――そう、全てを狂わせた。
サルマ村はユヴェリエ領にある、小さな農村である。
領主の館から比較的近い位置にありながらも、街道から外れている事に加え、周囲を森と痩せた土地に囲まれたせいか門前町として恩恵にあずかる事は皆無。
昔から脈々と続く野良仕事や狩猟などで、細々と食いつないでいくけして裕福とはいえない村。
だがそれはこの村に限った事ではなく、ユヴェリエ領全体の農村に、ほぼ共通して言える事だった。
元々高地に位置し、土地の力が弱いユヴェリエ領では、厳しい寒さもあり、比較的温暖な地域の多いヴォラオドス国の中でもかなり貧しい領にあたる。
首都、どころか他の領地との間には高い山脈が立ちふさがり、行き来するのも日数がかさむ。他国と国境を接していないため、戦場になる事もないが、代わりに交易の拠点にもならない不便な土地。
国からも見捨てられた――というよりも、クルヴィ山脈に囲まれた高地に飛ばされるという事は出世の道が閉ざされるにも等しく、貴族達の間からは、なぜあのような辺鄙な場所に引きこもっていられるのかと陰口を叩かれるほどだという。
しかしそのような場所であるにも関わらず、当代の領主夫婦はけして腐る事なく、むしろ領民達のために尽力する。
高山で育ちやすい作物を他国より取り寄せ、栽培を普及。村同士を繋ぐ道を作り、領内での人の行き来を促す。行儀見習いをしたいという子供達を積極的に引き受け、躾ては裕福な他の領地に働き口の介添えを行う。
税も心ない領主がするよう生かさず殺さずなどではなく、むしろ本当にこれで大丈夫なのかと、領民達が心配してしまうほど軽い。
そのためか、年若い領主夫婦はあまり着飾ることもせず、慎ましい暮らしをせざるを得ないのだが、それがかえって領民達の心を引きつけ、やれ今日はなにが採れた、今日は多めに狩れたからと見回りに出る度領民達から何かと理由を付けられては裾分けを贈られていた。
国の中で高い地位に就けずとも、権力から遠かろうと、穏やかで平和な日々がそこにはあった。
それが崩れる日が来るなど、誰一人として想像だにしていなかった――
彼はそんなサルマ村を纏める村長の長子だった。
長とは言っても、他の者より若干大きな家に住んでいる程度であり、それも来客の際や村で集まり事を行う際に場所を提供するためという目的で、権力を振りかざすためなどとは断じて違う。そもそもが村人同士協力しなければすぐに生活が成り立たなくなるような貧しい土地だ、無理強いをして住民の中に蟠りを作るような事は嫌う傾向にあった。
他の家と違うところと言えば、若干の読み書きができる程度の事であり、そのため商人達との交渉事など、文字が必要になる場面にかり出されるようになり、自然長という役割が回ってきただけ――ただ、それだけの事。
基本的に放任主義である村長は村の事は村人に任せており、村人達もまた似たようなものであり、己の仕事に過剰な口出しをしない村長を快く受け入れていた。
そんな環境であるからして、例え長の長子という立場であっても他の子供達と混じって遊ぶ事に何の問題もない。むしろ小さな村の中では子供の数も少なく、遊び相手となる同世代がいるのはとても幸運な事だった。
大人達は日中それぞれ仕事があるため、なかなか子供達に目が届かない。そのため子供達同士で遊ばせておけば、自然と年長の子等が年下の子の世話をするという利点があるからだ。
彼もそろそろ大人達に混じり農作業を手伝うべき年頃なのだが、少なからず読み書きが出来るという理由から、週に数回年下の子達に本を読み聞かせたり、文字を教えたりする役目を仰せつかっていた。
もちろんそれ以外の日は大人達に混じり、農作業や狩り、村で飼育している家畜の世話など日々の仕事に参加いていた。
変わり映えのしない、穏やかな日々。
ずっと続くものだと、誰もが信じて疑わなかった――
転機は唐突。空気の乾いた夜。
普段なら日が出るまで眠っているはずの彼は、その日真夜中に目が覚めた。
明日の仕事もある。再び眠りにつこうとした彼は、しかし外が騒がしい事に気づき、寝床から身を起こす。
そっと外の様子を伺うと、深夜にも関わらずなにやら村人達が声を上げていた。彼の姿に気づいても、こんな時間に起きてと咎める者はいなかった。
一体、何があったのか――幾度か狩りに同行し、多少腕に覚えのある彼は有事であれば大人達に混じり、村を守る為剣を取る覚悟があった。
しかし彼の思いとは裏腹に、村人は茜色の空を指さす。
時刻はとうに深夜。日の光などあるはずもない。
あり得ない光景に一瞬目を疑う彼は、しかし次の瞬間それが何を意味するか理解した。
夜の漆黒を切り裂く茜色は、森の向こう――領主の館上空を染め上げると、まるで何事も無かったかのように消え去った。
けして長いとも言えない、けれど短いと、何事も無いと言い切れるはずもない光景。茜色の空が意味するのは、一つ。
つまり――空を焦がすような火の気が発生したという事。領主の館で。
それが何を意味しているのか。最悪がすぐ頭に浮かんだのは異常な光景に当てられたかそれとも予感か。
ユヴェリエ領にある多くの村がそうであるように、サルマ村は貧しい。小さな子供を養っておく事が出来ない場合も多々あり、そういった子供達は口減らしの為行儀見習いという名目で領主に預け、他の地方へ奉公に出た場合でもやっていけるよう、最低限の礼儀作法を身につけさせる。
彼の年の離れた弟もまた、そうして領主の館で行儀見習いとして働いている一人。
まるで親鳥の後を追いかける雛鳥のように後をついて回っていた弟が奉公に出たのは、ほんの半年ほど前の事。
弟の他にも、見知った子供達や同年代の者が何人も領主の世話になり、他の地方へ働きに出ている。視察に訪れる領主や祭りの際顔を見る機会のあるその妻子も他の地方の領主と比べれば、領民との距離は近い。
一体何が起こったのか、領主や館で働く者達は無事なのか。
村の誰もが不安げに再び闇に染まった夜空を見上げる中、様子を確かめてくると言い残し、彼は大人達の制止も聞かず、暗い森に分け入った。
道なき森の中を走り抜け、館にたどり着いた彼の目に飛び込んできた物は、静寂を保つ領主の館と、一部から炎を上げる別棟だった。
本宅から少し間を空けて存在する別棟。長である父の後について、何度か領主の館を訪れた事のある彼は別棟が行儀見習いに預けられた子供達が寝泊まりするための場所だと知っていた。
迷う事なく、彼はまだ燃えていない勝手口から建物内に足を踏み入れた。
この時、彼は気づくべきだったのだ。
これだけの騒ぎにも関わらず、なぜか誰一人として避難している人の姿がない事、その不自然に。
そうすれば――彼の辿る人生は、また違った物になっていただろうから。
一部が燃えているにも関わらず、幸いにも別棟の中に煙は流れていなかった。火事だ、と今更のように警鐘を鳴らしながら逃げ遅れた人はいないか一部屋一部屋探し回る。
別棟の中は静まり返り、遠くから聞こえる木の燃える音と、彼の足音、そして警告のため上げている声だけが虚しく木霊する。
先ほどから様子を確認している個室にも人の気配はなく、もしや皆火事に気づき、すでに避難した後なのだろうかという考えが首をあげる。
それならば、別に何を焦る必要があるのだろう。単にそそっかしい者だと後で笑い話になる程度だ。
けれど彼の胸にはじりじりと、まるで火に炙られるような――言い知れない焦燥が沸き上がりつつあった。
嫌な予感――それはまもなく、現実の物として彼の眼前に突きつけられる事となる。
個室の一つを開けたとき、それまでもぬけの殻だった寝台の上に、わずかな膨らみがあった。
逃げ遅れた人だろうか? ともあれ、人の姿に彼は我知らず安堵を覚える。眠っているところ申し訳ないが、火事である以上避難しなければならない。
揺り起こそうと伸ばした手が、ふと生暖かい物に触れて滑る。
何、と手のひらに視線を落とせば薄暗い中、星明かりに照らされ赤黒い物が付着していた。
同時に鼻孔に進入する、生臭い鉄の臭い。
それが血液である事に気づくのと毛布の下にある体が微動たりともしていない事に気づくのはほぼ同時。
生ぬるい血液に反し、奇妙なくらいに冷えた体を横たえ、寝台の上の人物は文字通り眠りについていたのだ。――二度と醒めることのない、永久の眠りに。
あまりにりに唐突な、予想外の遭遇。
突きつけられた現実に理解が追いつかず、しかしいくら待とうと心臓を一付きにされた人間が動き出す事はない。
横たわっているのは見知った村の者ではなかった。けれど別棟に部屋があるという事は、同じよう行儀見習いに来た者の一人だろう。幼い顔が弟の物と重なり、彼は叫び出したくなる気持ちを無理矢理飲み下し、見知った者の姿を――生存者を探し駆けだした。
目に付いた扉という扉を開け放ち、気がつけば彼は変わり映えのない使用人の個室ではなく、白い壁の広い部屋にたどり着いていた。
どれだけ探し回ろうと生存者の姿はなく、それどころかあの亡骸以外、人の姿を目にする事はなかった。
まるで屋敷の者全てが、神隠しにでもあってしまったかのような異様な静けさ。
誰もが火災に気づき、避難したのだと信じたかった。
けれど先に発見した亡骸が、その希望を儚い妄想だと打ち砕く。
そして今また、切望を打ち砕く光景が現れる。
床という床に、壁という壁にぶちまけられた紅。ガラス張りの棚や大きな机を赤く染めあげる朱色。
紅い湖の上に浮かぶは、二つの亡骸。
一つは女性。胸を一突きにされ、自らの身に襲いかかった凶刃の存在など知らぬよう、穏やかに。
一つは男性。首筋を切り裂かれ、流れる血を止めようと足掻き、忍び寄る死の足音に恐怖する。
紅い湖に横たえた四肢に力はなく、えぐり取られた肉片が湖面に降り立った水鳥のようにあちこちに浮かぶ。血の気を失った顔はやおら白く人形のようで、生気を失った瞳がガラス玉のように虚空を見つめていた。
――領主夫婦の亡骸。
変わり果てた姿に理解が遅れ、しかし次の瞬間途方もない吐き気が彼を襲う。体を折って堪えようとするも、凄惨な光景が、立ちこめる死臭がまるで生者の存在を拒むかのよう押し寄せ、それを許さない。
とうとう吐き気を堪えることが出来ず、胃の奥から酸味がこみ上げる。口の端からこぼれた吐捨物が、赤い池に落ち生々しい水音を立てた。
胃の内容物を全て吐き出してなお、嘔吐感は消えない。口の中に広がった酸味がはたして胃酸の味なのか、それとも別の何かなのか――恐ろしい考えが脳裏をかすめ、追い払おうと首を振る。
否応なしに理解する――領主の屋敷を襲った惨劇を。
理解、させられた。
どれくらいそうしていたのか――気がつけば、背後に熱。
薄暗い室内を赤く照らす炎。別棟に放たれた炎が、いつの間にかこんなところまで迫っていたのだ。
うごめく炎はまるで意志を持つようで、その赤い腕で触れるもの全てを飲み込んでゆく。
炎が揺れ動く度に、照らし出された血の海がまるでうごめくような錯覚。
恐ろしくなり、追われるように走り出す。
そこにある物全てが、場違いな生者たる彼を責め立てているようで、引き込もうとしているようで――止まる事など、出来なかった。
一体どこをどう走ったのか、気づけば彼は別棟ではなく本館の通路にいた。
静まり返った室内に、時折思い出したよう現れる朱で彩られた人形。それもいつの間にか立ちこめる煙に覆われ、おぼろげな輪郭のみがそこであった惨劇を物語る。
しかしそれも、いずれは炎に飲み込まれる。ただ追いくる炎から逃れようと闇雲に走り続ける彼の耳に、ふと小さな物音が届く。
振り返れば、煙の中床に倒れ伏す小さな人影。
もはや見慣れた赤を纏う、小さな子供。
けれどそれは血の赤ではなく、別の赤。燃えるような長い赤毛を無造作に流し、ぐったりと倒れ伏す様子は嫌がおうにも血の海を連想させた。
が、そうではない事はすぐ知れた。
彼女からは、血の臭いがしない。館内に充満している匂いを感じはするが、彼女自身が血を流している様子はない。館に足を踏み入れて以来、それは初めての事だった。
恐る恐る伸ばした手は、思いの外暖かな熱を感じ取る。近づく全てを飲み込む狂気の熱でも、触れる者を凍えさせる冷気でもない、生命の温もり。幼子の体温。
わずかに上下する胸が、煙を吸い込んでいるのか苦しげな息づかいが、その子が生きていることを物語る。
――生きて、いる。
胸の中に広がる、途方もない安堵。
幼い面立ちに安否の解らない弟のそれを重ね見ていたのか、それとも己以外の生者の存在が彼を狂気の中から現実へと引き戻させたのか、それは彼本人にも解らない。
気がつけば幼子を抱え、彼は駆け出す。この場に残せば勢いを増しつつある炎に呑まれるであろう事は明らかだった。
苦しげな息づかいは、それだけで多くの煙を吸ってしまった事を意味するから。このまま長居をすれば、命に関わることは明白。
腕の中の弱々しい命の火を守りたい。
ただそれだけの思いで、彼は一心に炎に呑まれつつある屋敷を駆け抜けた。
外へつながる出入り口には既に火の手が回っていた為、窓を割って外へ飛び出す。
柔らかな芝生の上に転がりながら着地。同時に、後を追うように窓から火の粉が舞う。
腕の中の少女の様子を確かめれば、気絶でもしているのか、相変わらず意識はないが、かすかな息づかいが唇からこぼれ胸に当たる。
安堵の息をつく彼の耳に、炎が屋敷を飲み込む以外の音が届く。あがるざわめき、声――視線を上げれば、手に手に思い思いの道具を抱えた人の姿が。
おそらくは、火事に気づいた近隣の村や町の者が駆けつけたのだろう――安堵で胸をなで下ろす彼の煤にまみれた姿と、腕の中に抱えられた小さな子供を認めると、人々は駆け寄ってくる。
彼らに少女を預けるなり、彼は屋敷へきびすを返そうとし、慌てて止められる。何を、と振り払おうとするも、数人掛かりで押さえられては、いくら力が強かろうとどうにもならない。
死ぬつもりかと声を荒でる人々とのやりとりは、人数差から彼らの方に軍配が上がる。
まだ中に人が残っているかも知れない。離せ、ともがく声は炎の中、崩れさる屋敷の倒壊音に呑まれ、消えた。




