残夢 -在りし日の情景-
この物語は残酷な描写を含みます。流血描写、殺戮描写などに忌避感、嫌悪感を持つ方は気分を害される可能性があります。ご注意ください。
緑あふれるお庭に、わたしはいた。
小さな頃から遊び場所にしている庭の、よく知った景色。庭からはお家がよく見える。赤い屋根で二階建ての本館と、屋敷で働く人達が暮らす別館の二つからなる大きなお家。幼いわたしの小さな世界の中で一番大きな建物。
お家の見える花畑に腰を下ろし、わたしは咲き乱れる花を摘んで花感を編む。赤い花、白い花、黄色い花、蒼い花、オレンジ色の花、ピンク色の花、紫色の花――まるで野の花みたいにいろいろな色が不規則に入り交じって咲き誇る。花、花、花。
たくさんの花が咲き誇る花畑で一番目立っているのは赤い花。お家の屋根と同じ、わたしの髪と同じ赤い花。
時々隣にいる茶色い大きな犬が、甘えるように頭をすり寄せて来る。まるで遊びに行こうと誘う姿に、だけどわたしはまだまだ花冠を作っていたくて、出来上がるまでもうちょっとだけ待ってねと大きな額をなでた。
風が、花畑を吹き抜ける。
遠く北の山から吹き下ろす風は冷たくて、でも山のすぐ近くではないからこれでもまだ温かいんだっと聞いた事があった。ここまで来る途中でいろいろなところを吹き抜けてくるせいか、風にはいろいろな匂いが混じっていて、わたしはそんな風を感じるのが好きだった。
だけどこの時は花冠を編んでいる最中。作りかけの花冠が飛ばされないよう両手でしっかり押さえながら、わたしは全身で吹き抜ける風を感じる。
お家の周りに広がる麦畑の匂い。草原で草を食べている家畜の匂い、近くの街に住む人達が作る夕ご飯の匂い――いろいろな匂いに混じってふと、その中に嗅ぎ慣れない匂いを感じてわたしは首を傾げた。
それはまるで例えるのなら暖炉に火を入れた時のような、もしくは料理をする時にうっかり焦がしてしまったみたいな匂い。
焦げ臭さを感じて視線を上げたわたしの目に、あり得ない物が映る。
それは初めはちろちろと小さなものだった。けれどすぐに広がる赤――紅。炎。
花畑から、庭木から、お家から、青かったはずの空までいつの間にか夕焼けよりも赤く染まって、見慣れたはずの景色はあっという間に紅く染め上げられる。
突然のことにどうすることも出来なかったわたしは、だけど気が付いた時には走り出していた。
いつの間にか炎は見慣れたお庭のあちこちからその姿を現し、たお庭を赤く染めてゆく。色とりどりのお花を呑み込み、瑞々しい緑の葉をつけていた木々はまるで秋が訪れたみたいに紅く燃え上がる。
所々に庭木が倒れていて通れなくなってしまったお庭はまるで迷路みたいで、すっかり様変わりしてしまったお庭を抜けて、わたしはお家に飛び込んだ。お庭よりはまだ少ないけれど、お家の中もあちこち紅い爪が突き立てられていて、今にも広がろうとしている。
お父さんとお母さんの姿を探して、わたしはお家の中を走る。二人だけじゃなくていつもならすぐにわたしの姿を見つけてくれるはずの執事のお兄さんやメイドのお姉さんの姿もなくて、お家の中で走っちゃいけませんと怒られない代わりにしんと静まりかえったお家が、余計にわたしの不安をかき立てる。
長い廊下を曲がったその時、何かに足を取られてわたしは盛大に転んでしまう。毛足の長い絨毯が敷かれているからちょっと転んだくらい鮭がなんてしないけど、いったい何に躓いてしまったんだろう? きれい好きのお姉さん達がいつも掃除をしているから、廊下にものを起きっぱなしにしているなんてまず無いのに。
確かめようと体を起こしたわたしの目に映ったのは、絨毯の上でふせをしている大きな犬。
さっきまで一緒にお庭にいたはずなのに、いつの間にかはぐれてしまっていたことに今になって気付く。ちっとも動かないと言うことは、こんな所で寝てしまったんだろうか? そう思って手を伸ばして、気付く――眠っているように見える大きな犬の体の下に、絨毯の赤い色とは違う朱が広がっていることに。
朱い色は、まるで湧き出す水みたいにわたしが見ている前でじわじわと広がってゆく。
広がる朱がなんなのか、頭が理解するよりも先に体が拒否反応を起こす。目の前に広がる現実を理解する事を拒んで回れ右したわたしの視界に、ふと見慣れた人影が映った。
お庭に咲いていた赤い花よりも、お家の朱い屋根よりも、廊下に敷かれた絨毯よりも紅い髪を持つ男の人と女の人。
わたしと同じ紅い髪。
お父さんとお母さんの姿を見つけて、だけどわたしの中に生まれたのは安堵じゃなくて戸惑いの感情。
だって、お父さんもお母さんも大きな犬と同じように、朱い染みの上に倒れていたから。
今すぐ駆け寄りたいのに、まるで足外資になってしまったみたいに動かない。――だめ、これ以上は――まるで自分の体なのに自分のものじゃないみたいで、呆然とするわたしの前で、お父さんとお母さんの体はみるみる人の形を無くしていく。
朱い水たまりに解けるように沈んでゆくお父さんとお母さんの姿。――いや、もう嫌――だけどわたしは何一つ出来無いまま、為す術もなくそれを見ているしかできない。
やがてお父さんとお母さんの姿はほとんど水たまりの中に沈んで、残ったのは朱い染みの上に転がる、まるでジャムのような固まりがいくつかで。
花の香りよりも燃える炎の匂いよりも、尚黒立ちこめる濃密な香り。生物的な本能がそれを理解する事を拒否する。吐き気を訴える。――お願い、もう――まるでここにいてはいけないと、これ以上見てはいけないというようにわたしの体をぐらぐら揺らす。
むせ返るような匂いが、いっそう濃くなったような気がした。
ふと自分に視線を向ける。ちゃんと人の形がある。手には花冠を握りしめたままだった。作りかけの花冠にはいろいろな花が咲いていて――
色とりどりだったはずの花が、いつの間にか朱く染まっていた。
ううん、それだけじゃない。朱い花からはまるで蜜がこぼれるみたいに、真っ赤な雫がしたたり落ちる。
流れ落ちたそれは血。人の中に流れるもの。
鉄と生ゴミの匂いを混ぜたような、不快な匂いが一気に濃くなる。
込み上げてくる吐き気を押さえることが出来なくなって、わたしはもう立っていることができなくなった。その場にへたり込んでしまったわたしを呑み込もうと、花冠から滴る朱い雫が勢いを増す。
逃げようと、這いつくばったまま腕を伸ばすけどそこは朱い水たまりの中。
ぬるりと嫌に生暖かい感触だけがして、手の平が朱に染まる。まとわりついた朱から逃げたくて、ただそれだけの思いで言うことを聞こうとしない体に鞭を打ち、手を伸ばす。
助けてと、お父さんとお母さんの形をしていた朱い水たまりに向かって――
触れた朱は、思っていたよりもずっとずっと温かくて。
でもそれは生きている人の暖かさとは違う、冷たい――まるで背筋を凍らせてしまうような何かを持っていた。
・ ・ ・
「――っ!」
跳ね起きる。途端に夜の冷たい空気がまとわりついて、細い体から熱を奪う。さっき見ていた光景が頭から離れない。落ち着かない呼吸、汗ばんでいるはずなのに体の芯は酷く冷えていて、震える両手で肩を抱く。
夜――静寂。窓からさし込む月の光と、夜でも眠らない街の一画で燃える篝火だけがささやかな明かりとなる。風に乗って遠くから聞こえてくる喧噪を耳にして、ようやく今居る場所が今夜の宿だという事を思い出す。
悪夢の残滓を振り払うよう、呼吸を整える。夜の空気は冷たくて、少しだけ前にこの部屋を使った誰かの匂いがして――でもむせかえる花の香りも、咽が痛くなる焦げ臭さも、吐き気を誘う濃密な血の香りもしない。感じるのは安宿には付きものの埃っぽい匂いと木の匂い。
ようやくここにいるわたしが現実感を帯びてきて、自分でも意識しないままほっと息をつく。ううん、本当はわかっている。悪夢から、いつもの夢から解放されて安堵しているんだって――
彼を心配させないためにも、早く休まなきゃ。今は出かけていない人を思いながらベッドに潜り込もうとした時月の光が一筋、部屋に差し込む。
黒に沈んでいた景色が、僅かに色を取り戻す。ほとんどモノトーンの世界の中、その色はただ一つ、色褪せることなくそこにあった。
闇に映える、鮮烈な赤。
小さな手の平に絡みついた数筋のそれは、夢の中に出てきた色と、何も変わらない。
赤く――紅く――朱く――アカイ、
体がぐらりと揺れる。収まりかけていた息が荒くなり、動悸が再び襲う。頭の中では夢で見た光景がフラッシュバックして、目の前の景色がぐにゃりと歪む。涙でにじんだ視界に朱が広がって、あの光景が戻ってくる。鼻の奥に今もこびりついて忘れる事の出来ない、濃密な血の香り。嘔吐感が込み上げてきて、胃液の匂いが混ざり合う。
現実と夢の光景が混ざり合って、今はわたしは夢を見ているのか起きているのかもわからなくなってしまう。瞼に今も焼き付いている鮮烈な朱を振り払いたくて、でも逃げる術を知らないわたしはただ闇雲に手を振りまわすことしかできなくて、急な動きについて行けず手にまとわりついていた朱が手を離れて空気に混ざる。
ゆっくりと落ちていくそれは、血飛沫を連想するには十分すぎた。
思わず反らした視線の先に、まるで嘲笑うみたいに朱は落ちてきて――
知っている。わたしは、この色から逃げるなんてできないって。一生逃げる事ができないって。
でも、もう見たくない。
逃げたくて、
にげたくて、
ニゲタクテ――
でたらめに振り上げられた手がわたし自身を傷つける前に、何かがわたしの腕を掴んでそれを阻んだ。
拘束された手を振り払おうと力を込めるけれど、わたしがどんなに力をしれても掴まれた両手は解放されることはなかった。そのことが悔しくてますます闇雲に暴れる、だけどやっぱり放してもらえなくて――かわりに腕を掴まれたまま、わたしの手を掴んでいる誰かはわたしを抱きしめた。
力強さも、伝わる温かさもまるでわたしを励ましてくれているようで、安心させようとしているみたいで――慰めるよう耳元で囁かれた低い声に、ようやくわたしは今彼の腕の中にいるのだという事に気付いた。
その事実に気付いて、呆然と口を開く。だけど引きつった咽からこぼれたのはいつものようにかすれた音だけだった。いつものこと、そう言ってしまえばそれまでだけれどそんなふうには思えなくて、情けなさと惨めさで涙が込み上げてくる。泣いちゃだめだってわかっているはずなのに、目からポロポロとこぼれる涙が彼の胸を濡らす。
咽は相変わらずひきつけを起こしたまま、嗚咽のかわりにかすれた息を吐き出す。
後から後からわいてくる涙はまるで涸れることを知らない湧き水みたいに、わたしはただただ彼の優しさに縋り泣いた。
ようやく眠りについた小さな体をベッドに寝かせる。幼い顔に残る二筋の涙の跡――そっと拭い、せめて今だけでも安らかな眠りが訪れるようにと、いもしない神に願わずにはいられない。
……また、泣かせてしまった。
彼女がこうだということは、もう長い間共に旅をする中で知っていたはずだ――いや、旅を始める以前から、あの時から途切れることなく彼女の悪夢は続いている。
だからこそ、あの時を思い出す夜の間はなるべく一人にしないようにと心がけている――けれど街から街へと渡り歩く根無し草の生活はそれを許さず、時には今日のように彼女一人を残していかなければならない場合も多々に起こる。
一人残していかなければならないことを告げると、決まって彼女は寂しそうに、けれどけして我が儘を言うことなくそれを受け入れる。そしてそういった日は必ずといっていいほど悪夢にみまわれる。
己しか頼るもののない中、どれだけ力をつけようと、周囲から評価を得ようと、悪夢に魘される彼女に対し、何一つ力になることができない。根拠のない慰めの言葉をかける度、無力感に苛まれる。
何一つ実のない、口先だけの慰め――その場しのぎの言葉しか、彼女に与える事ができない。
これで周囲からは凡人以上に力があると見られているのだから、笑うしかない。力があるのなら、こんな状況でもっと別の、現実的な形で彼女を助けることができるだろうに。自嘲的な笑みが込み上げてくるのをどうにか堪え、開け放たれたままの窓から空を見上げる。
夜の闇に浮かぶ月は、あの日と何ら変わることなく、その場所から地を這う人々の営みをただ静かに見下ろしていた。