「私は誰だ?」
記憶喪失って大変だと思います…。
「私は誰だ?」
今朝俺が朝早く起きたので今日は外を軽く走ってくるか、と走ったそのランニングコースの途中にある公園でうつ伏せに倒れていたのを俺が起こしあげたそのおじさんが最初に放った言葉がこれだった。
「………は?」
しばらく俺は放心して聞き返してしまう。
公園に入って、白いTシャツとズボンでおじさんが倒れていたのは驚いた。そしてこれは助け起こさなければならない、と思って起こしたおじさんが記憶喪失になっていたのには、かなり驚いた。というかもはや言葉を失った。
なんだこのおっさん、大丈夫か…?
と主に心配したのは頭の方だが。
さて、しかし大変なのはここからであった。
「私は誰だ? 君は誰だ? ここはどこだ? 今何時だ?」
おっさんから質問攻めにされたのである。
顔を引きつらせつつも俺は返答を一つ一つ返す。
「あなたが誰かは知りません。俺はあなたとは初対面です。ここは公園です。今は七時です」
それを聞き、おじさんは目をぱちくりさせる。
「なんだ。すると私は記憶喪失になったのか」
そして意外とまともに現状を受け止めた。まぁこれが現状というのもなんともおかしな話ではあるがほんとうみたいだし仕方あるまい。
おっさんは自分の言葉に納得したかのようにふむふむと頷く。次に立ち上がり、おしりについたホコリをパンパンと払った。そして俺に向き直る。
「で、私はどうすればいいのだ?」
「知らねぇよ……」
このおっさん……。
今日は休日で高校もない絶好の日なのに、こんなアクシデントに見舞われてしまうとはなんとも俺はついてない。ここで見捨てていくこともできる。しかし……
「私は誰だ? 私は誰だ? 私は誰なのだ?」
と来る人来る人に質問するおじさんは止めないといけないだろう。訊かれた人は曖昧な笑みを浮かべて明らかに困っている。
このおじさん、迷惑だよなぁ………。
……しゃーない、おじさんを手伝ってやるか…。
「おーい、そこの記憶喪失のおっさーん」
そして俺は声を掛ける羽目になったのである。
「という訳で動くことになったのだが……」
俺がおじさんに声を掛けてから、まずどうすれば現状打破できるのかを話し合ってみた。そして、この辺をとりあえず見てまわってとにかく記憶に関係がある物はないか、を調べるという無難な意見に着地したのだが……。
「お、これはおもちゃ屋か! おー、これはファミレスか! おー、そしてここは――」
四十後半くらいのおっさんはまるで子どものように飛び跳ねて、繁華街を歩いていた。ちなみに通りすがる人全員からは怪しげで不気味なものを見る目を頂戴している。もう俺は関わるのを止め、後ろからついていく形になっていた。ってなんで俺が保護者みたいなことをしなきゃならんのだ……。そう愚痴を吐いてもどうしようもない。俺はため息をつき、後ろに手を組んで仕方なくおっさんを後ろから見守った。
~~五分後~~
もうそろそろおっさんのお守りをするのが精神的に厳しくなったそんな頃、おっさんがあるところの前で歩みを止めた。そして無言でその店を凝視している。
「おっさん、どうかしたのか?」
俺は尋ねながらおっさんの視線の先を追った。
「………え?」
視線を追い、そのまま硬直してしまう。
そんな訳でおっさんと俺の目の前にあるのは、弁護士事務所だった。しかも大きな造りになっていて、コンクリートでできた大きな建物で、どう見ても有名な事務所ということは間違いないようだった。
俺はギギギと油の無くなったロボットのように首を動かし、おっさんの様子を窺う。
「…………。」
おっさんは額に脂汗を浮かべ、顔面蒼白になっていた。顔は血の気をサーと引き、汗が滝のように流れ出している。
……どうしよう。嫌な予感しかしないのだが。
俺も伝染したかのように血の気が引いてきたその時、おっさんが震える唇を動かした。
「記憶が戻った……」
悟ったように小さな声で言い、ついで続ける。
「あああ、私は今朝妻に自分が浮気をしていた事がバレたのだ! そして裁判に話しを持って行くだのそんな口げんかになって私はキレて家を飛び出したのだ! そのまま公園にいったらそこで小石に躓いてしまい、頭を打ちそして記憶喪失になったのだ!!」
おっさんは恐れをなしたかのようにわなわなと震え、頭を抱える。
「ああああ…、わたしはどうしたらいいのだ…! 一体どうすればいいのだ…!」
叫び、次には近くにいた俺に掴みかかる。
「なあ、どうしたらいい!? どうすれば…!」
「お、落ち着いてください。落ち着いて…」
揺られながら俺は必死になって宥めようとする。でもおっさんは般若のような形相になり、もはや聞く耳を持てないくらい取り乱していた。
どうしたらいいのか俺自身が困っていたその時。
「危ないですよー!」
「へ……?」
遠くで声が聞こえたかと思うと、
「へぶしっ!」
おっさんの頭に遠くから流れてきた野球ボールが見事命中。おっさんは後ろに吹き飛んでいった。呆気に取られる俺はしばしフリーズ。
ととと、とそこに足音が聞こえてきて野球のユニフォームらしき服を着たさっきの声の主とおぼしき小学生くらいの男の子二人組がやってきた。
「すいませんー、ホームランボールここに来たみたいなんですけど、大丈夫ですかー?」
「えーと……」
俺はつつっとおっさんに視線を向ける。
あの人、大丈夫かな、ぶつかった方の窓ガラスが割れてるんだけど……。
そんな俺の不安を知るよしもなく、程なくしておっさんはむっくりと起き上がった。
おお…、どうやら大丈夫だったようだ…。
俺は胸をなで下ろす。が、体を起こしたおっさんは第一声にこう言った。
「私は誰だ?」
「………………………。」
その声を聞いた俺はもうこの場から背を向け立ち去った。
無表情で内心で一言呟く。
もう…、知らね。