↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
総理になれなかった元大臣、農民の娘に転生して二千年王家の宰相になります  作者: ちょこまろ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/5

第2話 読めない契約書

懸命に働いているのに、なぜ農民たちは豊かになれないのか。


十歳になったミリアが見つけたのは、文字を読めない少女に差し出された一枚の契約書。


そこには、貧しい者が決して抜け出せない、恐ろしい仕組みが隠されていました。


かつて国の制度と向き合ってきた女は、この不条理を見過ごせるのでしょうか。

 母の皿から芋が消えた夜から、五年が過ぎた。


 ミリアは十歳になっていた。


 リーネ村の朝は、鶏の声よりも先に、土を踏む音で始まる。


 夜明け前の空は薄く青く、畑の畝には白い霜が残っていた。家々の煙突から細い煙が上がり、湿った藁と灰の匂いが村の低い屋根のあいだに溜まっている。


 五年前、ミリアは何もできなかった。


 母の皿が空になっているのを見ても、ただ腹を鳴らすことしかできなかった。


 あの夜から、ミリアは村を見続けた。


 畑を見る。


 倉を見る。


 袋を見る。


 水路を見る。


 誰が春に種をまき、誰が夏に黙って痩せ、誰が秋に笑い、誰が冬に借りに行くのかを見る。


 貧しい。


 村人はよくそう言った。


 今年も貧しい。


 昔から貧しい。


 この土地は痩せている。


 天が味方しない。


 取れるものが少ないのだから、仕方がない。


 けれど、ミリアは五年見て、少しずつ違和感を覚えていた。


 収穫が少ない年だけ、苦しいのではない。


 収穫がある年でも、苦しい家は苦しい。


 よく働く家ほど、なぜか翌年に種を減らす。


 畑を広げた家ほど、冬に借りが増える。


 麦袋が倉へ積まれたはずの家から、春先に泣き声が聞こえる。


 貧しいのではない。


 何かが、村の先を食っている。


 今夜の飯だけではない。


 来年の畑を、少しずつ食っている。


 ミリアは、そう思うようになっていた。


 もちろん、十歳の農民の娘に、村を動かす力などない。


 誰かに命じることもできない。


 倉を開けさせることもできない。


 大人の会合へ座ることもできない。


 ただ、見ることだけはできた。


 覚えることもできた。


 五年前の遠野紗和子の記憶は、十歳の体の奥で、まだ熱を持って残っていた。


 論点を見る。


 相手の恐れを見る。


 数字ではなく、数字の動きを見る。


 そして何より、言葉にされていない痛みを見る。


 ミリアは井戸端で桶を置き、両手をこすった。


 冷たい水で指先が赤くなっている。


 隣で母が洗い物をしていた。五年前より、少しだけ頬に肉が戻っている。だが皿の芋を譲る癖は、今でも消えていなかった。


「ミリア、今日は畑へ出なくていいの?」


「あとで行く。先に、リナの家へ寄る」


 母の手が止まった。


「リナのところへ?」


「うん」


 母は、言いかけてやめた。


 村では、あまり他家の借りの話に踏み込まない。


 踏み込めば、次は自分の家が見られる。


 誰もが分かっていた。


 だから、誰かの家の戸口に村の外の者が立っていても、皆、少しだけ視線を逸らす。


 だが母は、ミリアの目を見た。


 五年前から、時々そうするようになった。


 この子は、子どもらしくない目をする。


 そう思っているのだろう。


「見るだけよ」


 母が小さく言った。


「大人の話に、口を出しすぎてはいけないわ」


「分かってる」


 嘘ではなかった。


 口を出すつもりはなかった。


 ただ、見逃すつもりもなかった。


 リナの家は、村の外れにあった。


 屋根は低く、壁の隙間には古い布が詰められている。軒先に吊るされた干し草は、冬を越すには少なすぎた。戸口の横には、すり減った木靴が三足並んでいた。一足は大人用。二足は子ども用。そのうち一足は、つま先が割れて紐で縛ってある。


 中から、男の声がした。


「だから、ここに親指を押せばいい」


 ミリアは足を止めた。


 戸は少し開いている。


 土間の中に、リナが立っていた。


 リナは十二歳ほどの少女だった。


 ミリアより少し背が高い。


 けれど、肩は細く、袖から出た手首は折れそうに見える。栗色の髪を雑に後ろで結び、色の抜けた前掛けをしていた。足元には、小さな弟がしがみついている。


 弟は、泣きそうな顔でリナの袖を握っていた。


 リナはその手をそっと押さえながら、目の前の紙を見つめていた。


 紙。


 この村では、それだけで重いものだった。


 薄く、灰色がかった紙に、黒い文字がびっしりと並んでいる。端には、赤黒い封蝋の跡があった。


 紙を持っているのは、村の外から来た商人の代理人だった。


 上等とは言えないが、村人よりは良い布を着ている。腰には小さな革袋を提げていて、動くたびに中の銅貨がかすかに鳴った。


 その隣に、村の書き手が座っていた。


 書き手は、村で数少ない文字を扱える男だ。税穀の札や借りの控えを書く時に呼ばれる。彼はリナを見ず、紙の上だけを見ていた。


「去年の借りを今年に回すだけだ。難しい話じゃない」


 代理人が言った。


 リナは唇を噛んだ。


「でも、父さんは、麦袋二つって」


「利がついた」


「利……」


「借りたものは増える。そういう決まりだ」


 リナの弟が、小さく腹を鳴らした。


 リナは反射のように弟の頭を撫でた。


「昨日、食べたでしょ」


 弟は首を振った。


 リナは笑った。


「食べたよ。私も食べた。だから大丈夫」


 そのとき、リナの腹も鳴った。


 けれど彼女は、弟の腹の音だけを聞いたふりをした。


 ミリアは、その笑顔を見て、胸の奥が冷たくなった。


 五年前、母がした笑い方と同じだった。


 食べたふりをする者の笑顔。


 相手を安心させるために、自分の空腹を隠す笑顔。


 ミリアは戸口から声をかけた。


「リナ」


 リナが振り向いた。


「ミリア?」


 代理人の顔がわずかに歪んだ。


「子どもが何の用だ」


「リナに、昨日借りた糸を返しに来ました」


 ミリアは、手に持っていた古い糸巻きを見せた。


 借りてはいない。


 だがリナは一瞬だけ目を見開き、すぐに頷いた。


「うん。ありがとう」


 ミリアは土間に入り、リナの横に立った。


 代理人は面倒そうに鼻を鳴らした。


「なら返したら帰れ。今は大事な契約の話だ」


「契約?」


 ミリアは首をかしげた。


 十歳の子どもらしく。


 そう見えるように。


「リナの家、何を借りるの?」


「お前に関係ない」


「麦?」


「そうだ」


「食べる麦?」


 代理人の目が細くなった。


 リナが不安そうにミリアを見た。


 ミリアは紙を見た。


 文字は、この五年で少しずつ読めるようになっていた。


 最初は何も分からなかった。だが、村の札、倉の印、父がたまに持ち帰る控え、母が市場で受け取る小さな紙切れを見続けて、少しずつ覚えた。


 前世の紗和子は、文字の読み方そのものを持ち込めたわけではない。


 だが、読むべき場所は分かった。


 大事なことは、いつも紙の真ん中に書かれているとは限らない。


 小さな字。


 端の追記。


 数字の後ろ。


 条件の中の条件。


 逃げ道は、そこにある。


 罠も、そこにある。


 ミリアは紙の下の方を見た。


 食用麦。


 翌春播種用麦。


 収穫後返済分。


 鋤修理代。


 塩代。


 担保。


 追加利。


 ミリアの指先が冷えた。


 ただの麦の借りではなかった。


「リナ」


 ミリアは小さく尋ねた。


「これ、読んでもらった?」


 リナは恥ずかしそうに目を伏せた。


「読んでもらったよ」


「全部?」


「たぶん」


 書き手が咳払いした。


「必要なところは読んだ」


「必要なところって、誰に必要なの?」


 土間の空気が止まった。


 代理人がミリアを睨んだ。


「ませた子どもだな」


 ミリアは黙った。


 ここで言い返してはいけない。


 まだ、ミリアには何の権限もない。


 大人の男二人に、十歳の娘が正面から噛みつけば、リナの家が困るだけだ。


 だからミリアは、紙ではなく、土間の隅に置かれた袋を見た。


 袋が三つ。


 一つは口を縛った縄が白っぽい。


 一つは黒い紐。


 もう一つには、擦れた丸印が焼きつけてある。


 リナの視線も、同じ場所を見ていた。


 ミリアは気づいた。


 リナは文字を読めない。


 けれど、袋を見ている。


 袋の口。


 印。


 紐の色。


 置かれた順番。


 リナはそれを覚えている。


「リナ、その白い紐の袋は?」


 リナは戸惑いながら答えた。


「食べる分。母さんが、間違えないように白い紐にしたの」


「黒い紐は?」


「春に播く分。父さんが、絶対に開けるなって」


「丸印の袋は?」


「去年、借りた分。返す袋」


 リナは、すらすら答えた。


 ミリアは、代理人ではなくリナを見た。


 この子は読めない。


 けれど、見分けている。


 文字ではなく、印で。


 紙ではなく、袋で。


 リナは袋の文字を読んだのではない。縄の結び方、縫い目、焦げた丸印の位置を覚えていた。


 袋の上の小さな傷まで、目で拾っていた。


 書き手が少し苛立ったように言った。


「だから、それをまとめて借り直すという話だ。袋がどうこうではない」


「まとめる?」


 ミリアは、子どもらしく復唱した。


「そうだ。食べる分も、返す分も、修理代も、塩代も、まとめた方が分かりやすい」


 分かりやすい。


 その言葉に、ミリアの胸の奥が静かに熱くなった。


 前世でも、何度も聞いた言葉だった。


 分かりやすくする、という名で、弱い者の逃げ道が消されることがある。


 ミリアは紙を見た。


 食べる麦。


 播く麦。


 返す麦。


 修理代。


 塩代。


 それらが一つの借りとしてまとめられている。


 まとめられた瞬間、区別が消える。


 食べる麦と播く麦が同じ借りになる。


 来年の畑が、今夜の腹と同じ袋に入れられる。


 そして返せなければ、収穫後の麦の一部が先に取られる。


 そのうえ、鋤の修理代も塩代も上乗せされる。


 ミリアは、榊原の字を思い出した。


 収入減より深刻なのは、翌年の種を食べる状態。


 ここで村は折れる。


 ミリアは、やっと見えた気がした。


 この村は、ただ飢えているのではない。


 来年を担保に、今年を生きている。


 そして、来年を担保にした者は、次の年もまた借りるしかなくなる。


 リナは弟の口元を手で隠すようにした。


「大丈夫」


 小さな声だった。


「夜まで我慢できるよね」


 弟は黙って頷いた。


 ミリアは拳を握った。


 怒りで言葉が出そうになった。


 けれど、飲み込んだ。


 今ここで代理人を責めても、契約は止まらない。


 リナの家には、今夜食べる麦が必要だ。


 父の鋤が折れたままでは、春の畑を起こせない。


 塩がなければ、冬の残りをつなぐ漬け物も作れない。


 相手にも理屈はある。


 貸した麦を返せという理屈。


 修理代を払えという理屈。


 塩代を足すという理屈。


 その一つ一つは、紙の上では間違っていない。


 だから危ない。


 間違っていないものが、束になると人を殺すことがある。


「リナ」


 ミリアは、なるべく静かに言った。


「押す前に、袋をもう一度見て」


「袋?」


「白い紐。黒い紐。丸印。どれが何か、リナは分かるよね」


 リナは頷いた。


「分かる」


「紙には、それが一つに書かれてる」


 リナの顔から血の気が引いた。


「一つ?」


「うん」


 代理人が声を荒げた。


「余計なことを言うな。子どもが契約の邪魔をするな」


 その声に、リナの弟がびくりと震えた。


 ミリアは代理人を見た。


 反論された。


 胸の奥が燃えた。


 だが、まだ勝ちに行ってはいけない。


 必要なのは、相手を黙らせることではなかった。


 リナが、自分の家が何を失うのか分かることだった。


「私は邪魔していません」


 ミリアは言った。


「リナが、どの袋を借りるのか知りたいだけです」


「全部だ」


 代理人が言った。


「全部まとめて借りる。そういう契約だ」


「じゃあ、黒い紐の袋も?」


「必要ならな」


「春に播く袋も?」


「返せなければ仕方ない」


「播く袋を食べたら、春はどうするの?」


「また借りればいい」


 言った。


 代理人は、言ってしまった。


 リナが息を呑んだ。


 書き手が気まずそうに視線を落とした。


 ミリアの中で、何かがはっきりと形を持った。


 奪われているのは、今夜の飯ではない。


 来年の畑だ。


 ミリアは、リナの手を見た。


 荒れて、赤くなっている。


 この手は、まだ子どもの手だった。


 でも、弟のために食べたふりをして、袋の印を覚えて、白い紐と黒い紐を間違えないように守ってきた手だった。


 ミリアは、リナにだけ聞こえる声で言った。


「リナ、黒い紐の袋を、今夜食べたらどうなる?」


 リナの唇が震えた。


「春に、播けない」


「春に播けなかったら?」


「秋に、取れない」


「秋に取れなかったら?」


「また、借りる」


 リナの目に涙が溜まった。


「ずっと?」


 ミリアは答えなかった。


 答えなくても、リナには分かった。


 代理人が紙を叩いた。


「いい加減にしろ。押すのか、押さないのか。借りがなければ、今日の麦も塩も渡せないぞ」


 リナの体が揺れた。


 現実が、そこにあった。


 正しいだけでは、勝てない。


 リナが紙の罠に気づいても、食べるものがなければ押すしかない。


 ミリアは歯を食いしばった。


 自分には、まだ倉を開ける力がない。


 父の麦を勝手に渡すこともできない。


 村の大人を動かす力もない。


 でも、今この場でできることは一つだけあった。


「一つにしないで」


 ミリアは言った。


 代理人が眉を上げた。


「何?」


「リナに分かるようにして」


「字が読めない娘に、どう分からせる」


「印なら分かる」


 代理人は鼻で笑った。


「印?」


 ミリアは土間の隅に置かれた袋を指さした。


「白い紐は食べる分。黒い紐は播く分。丸印は去年の返す分。塩の袋は、端に青い線がある。鋤の修理は、鍛冶屋の印がつく」


 リナが、はっと顔を上げた。


 ミリアはリナを見た。


「そうだよね?」


 リナは頷いた。


「分かる」


「どれも見分けられる?」


「見分けられる」


「じゃあ、紙の横に印を書いてもらおう」


 代理人の目が、初めて子どもを見る目ではなくなった。


「契約を書き換える気か」


「書き換えない」


 ミリアは首を振った。


「横に印をつけるだけ。リナが、どれが何か忘れないように」


「そんなものに意味はない」


「意味がないなら、つけても困らないでしょう」


 代理人は黙った。


 書き手が渋い顔をした。


「紙の端に印を添えるくらいなら……できなくはない」


「余計な手間だ」


 代理人が吐き捨てる。


 ミリアはリナの母を見た。


 リナの母は奥から出てきていた。痩せた顔をしていたが、目だけは強かった。これまで黙って聞いていたのだろう。手は震えている。それでも、リナの肩にそっと触れた。


「お願いします」


 母は言った。


「払うものは払います。でも、うちの子にも分かるようにしてください」


 代理人は不愉快そうに唇を曲げた。


「読めない者に分かるようにする義理はない」


「だったら、読めない者に押させるのはなぜですか」


 ミリアは、静かに言った。


 代理人の顔が強張った。


 言いすぎたかもしれない。


 ここで怒らせれば、麦は来ない。


 ミリアは、唇を結んで声を落とした。


「契約はそのままでいいです」


 ミリアは言った。


「ただ、控えの端に印を描くだけ。リナが家で見返した時に、どれが食べる麦で、どれが播く麦か分かるように」


 書き手が代理人を見た。


「それなら、契約の文は変わらん」


 代理人は舌打ちした。


「勝手にしろ。だが親指印は今日押せ」


 リナの母が小さく頭を下げた。


 ミリアは息を吐いた。


 勝ったわけではない。


 リナの家の借りが消えたわけでもない。


 契約の罠がなくなったわけでもない。


 今夜の苦しさも、そのままだ。


 けれど、紙の端に小さな穴が開いた。


 読めない者が、何も分からないまま押すだけではなくなる。


 ミリアは、かまどの横に落ちていた炭を拾った。


 代理人が肩をすくめた。


「子どもの落書きで借りが軽くなると思うなよ」


「思っていません」


 ミリアは答えた。


「でも、何を借りたかは、忘れません」


 代理人はもう返事をしなかった。


 ミリアは土間に、灰で白い丸を描いた。


 その横に、炭で黒い丸を描いた。


「白は、食べる麦」


 リナは息を止めた。


「黒は、播く麦」


 ミリアは、二つの丸を指さした。


「一緒にしない」


 リナはその二つの印を、瞬きもせずに見つめていた。


 その小さな黒い丸を見ているのは、リナだけではなかった。


 代理人もまた、笑うのをやめていた。

正しい手続きで結ばれた契約でも、必ずしも人を守るとは限りません。


ミリアが見抜いたのは、今日の食料と引き換えに、来年の命まで差し出させる仕組みでした。


文字を読めないリナにも、自分たちの暮らしを守る力がある。


その可能性に気づいたことが、最初の変化でした。


一枚の紙に対抗するため、ミリアは誰もが理解できる仕組みを考え始めます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。