悪役令嬢になったのは、ずっと女になりたかったから
五歳のマレーネ・ヴァルデックは、鏡の前から動かなかった。
薄桃色のドレスだった。裾には小さな白い花がいくつも刺繍され、腰には同じ色の細いリボンが結ばれている。
「そんなに気に入ったの?」
母エッダが笑った。
マレーネは何度も頷いた。
鏡の中に、女の子がいる。
肩まで伸びた淡い金髪。
丸い頬。
薄桃色のドレス。
自分だった。
それが嬉しくて仕方がなかった。
「もう一着、見てみる?」
「これがいいです」
「さっき青も可愛いって言っていたでしょう?」
「これがいいの」
譲らなかった。エッダは困ったように笑い、それから娘の頭を撫でた。
「では、これにしましょう」
マレーネはまた鏡を見た。
前の人生では、鏡を見るのが嫌いだった。けれど今は違う。
鏡の中にいる子を、ずっと見ていたかった。
十三年後。
十八歳になったマレーネは、再び鏡の前に立っていた。
今夜のドレスは淡い青だった。五歳の頃ほど甘い意匠ではなく、胸元には細かな銀糸、裾には青灰色の花があしらわれている。王太子の婚約者として、王立学院の卒業夜会へ出席するために仕立てられたものだった。
「綺麗ね」
「ありがとうございます」
「気に入っている?」
「ええ」
そこだけは嘘ではない。
マレーネはドレスが好きだった。宝石も香水も、髪を結ってもらうことも、新しい化粧品を試すことも好きだった。だから今日の自分も好きだった。
ただ、今夜は少し気が重い。
「何かあったの?」
母は鏡越しに娘を見る。
「まだ、何も」
「まだ?」
「殿下が何かお話しになりたいようですの」
ここ数日、王太子オスカー・アーレンスは側近たちと頻繁に話し合っていた。マレーネの卒業後の教育について、王太子妃としての振る舞いについて、そんな言葉も聞こえてきた。
なぜかそこへ、聖女リーヴ・セインの名前まで出ている。
何を言われるのかまでは分からない。ただ、オスカーがここ半年ほど、自分を見るたびに不満そうな顔をしていたことは知っていた。
「二人で話せば済むことならよいのですけれど」
マレーネは鏡の中の自分へ苦笑した。
今日のドレスは気に入っている。せめて夜会そのものは、静かに終わってほしかった。
王立学院の大広間は、卒業生とその家族で埋め尽くされていた。楽団が演奏し、笑い声が重なり、色とりどりのドレスが揺れている。
マレーネは壁際で、ほとんど口をつけていないグラスを持っていた。
「マレーネ」
呼ばれて顔を上げる。
オスカーは大広間の中央に立っていた。その隣には、白い礼装を着たリーヴがいる。
ずいぶん困った顔をしていた。
「こちらへ」
「はい、殿下」
マレーネが歩み寄ると、オスカーは周囲を見渡した。
「皆にも聞いてもらいたい」
楽団へ合図が送られ、演奏が止まった。大広間の視線が集まる。
マレーネは少しだけ眉を寄せた。
やはり、二人で済ませる話ではないらしい。
「マレーネ」
オスカーは正面から彼女を見た。
「私は今日、君に改めてもらわなければならないことがある」
予想していた言葉とは、少し違った。
「改める、とは?」
「王太子妃となる者としての振る舞いだ」
オスカーの声はよく通った。
「君は優秀だ。それについて異論はない。学問も実務も、王太子妃候補として十分な水準にある」
褒められているらしい。それなのに、なぜ大勢の前で言われているのだろう。
「だが、妻となる女性としては問題がある」
広間が静かになる。
「君は何でも自分で判断しすぎる。婚約者である私へ意見することをためらわず、人前で私の誤りを指摘することさえある。何より、相手を立てようという柔らかさが足りない」
オスカーは隣へ視線を向けた。
「リーヴを見れば分かるだろう」
リーヴが露骨に嫌そうな顔をした。
「殿下」
「君はいいんだ、リーヴ」
「よくありません」
「君はいつもそうやって人を庇う」
リーヴの眉間に皺が寄った。オスカーは気づかず、マレーネへ向き直る。
「リーヴは人の気持ちを考えられる。優しく、慎ましく、相手が不快にならないよう言葉を選ぶ。君にも、そういう女性になってもらいたい」
少し間を置いて、さらに続けた。
「王太子妃である以前に、妻となる女性には必要なことだ」
「殿下」
リーヴが今度ははっきりと声を上げた。
「先ほどから、わたしを基準になさっていますが、困ります」
「なぜだ?」
「そもそも、わたしは殿下がおっしゃるほど慎ましい人間ではありません」
オスカーが眉を寄せた。
「何を言っている。君はいつも穏やかで――」
「怒るときは怒ります」
即答だった。
「嫌なことは嫌だと言いますし、マレーネ様のようにはっきり物事を言える方を羨ましいと思うこともあります」
「だが君は、人前で相手を立てることを――」
「それは、わたしがそうしたい相手にそうしているだけです」
リーヴは首を振った。
「わたしがマレーネ様のようになる必要がないように、マレーネ様がわたしのようになる必要もないでしょう」
オスカーは一瞬、言葉に詰まった。だが、すぐにマレーネへ向き直った。
「今は君の話をしている」
どうやら、リーヴ本人の説明より、自分が見ているリーヴ像の方を信じるらしい。
マレーネはしばらく彼を見つめた。
「確認してもよろしいでしょうか」
「ああ」
「殿下は今夜、わたくしとの婚約を解消なさるおつもりなのですか?」
「違う」
即答だった。
今度はマレーネが少し驚いた。オスカーの方が、なぜそんなことを聞くのかという顔をしている。
「八年の婚約を、この程度のことで反故にするつもりはない」
この程度。
マレーネはその言葉を胸の中で繰り返した。
「私は君に、変わる機会を与えたい」
「機会」
「卒業後もしばらく王太子妃教育を続ける。礼法だけではなく、妻としての心構えも改めて学んでもらうつもりだ」
そこでようやく、マレーネは理解した。
今夜は断罪ではない。追放でもなければ、婚約破棄でもない。
もっと善意に満ちたものだった。
オスカーは本気で、マレーネのために、自分が正してやろうとしている。
「殿下」
マレーネが静かに呼ぶ。
「もうひとつ、確認しても?」
「ああ」
「つまり、わたくしは女として、そして妻として、今のままでは殿下にふさわしくない。そういうことでございますね?」
オスカーは少し躊躇した。
「……言い方は厳しいが、そうなる」
「そして、わたくしが変われば婚約は続ける」
「そのための話だ」
マレーネは小さく頷いた。
よく分かった。
本当に、よく分かった。
「では、婚約を解消してくださいませ」
静寂が落ちた。
オスカーが瞬きをする。
「……何?」
「婚約を解消していただきたいと申し上げました」
「待て。なぜそうなる」
初めて、彼の声に動揺が混じった。
「私は婚約を破棄すると言っているのではない」
「存じております」
「君に直すべきところがあると――」
「ですからです」
マレーネは静かに答えた。
「殿下のお望みになる妻になるためには、わたくしは今のわたくしではいけないのでしょう?」
「そこまで大げさな話ではない」
「人前で殿下の誤りを指摘しない。殿下より先に判断しない。自分の意見を抑える。もっと柔らかく、もっと慎ましく、もっと殿下を立てる。それをこれから改めて学ぶのでしょう?」
「王太子妃なら当然の――」
「でしたら」
マレーネはほんの少し笑った。
「わたくしは王太子妃にならなくて結構ですわ」
オスカーの顔から表情が消えた。
「マレーネ」
「八年間、必要だと言われたことは学んでまいりました。外交も、会計も、礼法も、王宮の慣例も。それらが足りないのでしたら、まだ学べます」
一度、息を吸う。
「ですが、わたくし自身を殿下のお好みに合わせて作り直すことまで、王太子妃教育だとは思えません」
「好みの問題ではない」
「では、何の問題でしょう」
「妻としての在り方だ」
オスカーは苛立ったように言った。
「夫を支え、時には自分を抑える。男には男の、女には女の役割がある。それは女性として当然の――」
マレーネの表情が止まった。
「……女には女の役割?」
「ああ」
オスカーは気づかない。
「君には、女性として大切なものが欠けている」
その言葉を聞いて、マレーネは遠い人生を思い出した。
前の人生で、マレーネは男の子として育てられた。
男の子なんだから泣くな。
男の子なんだから、そんなものを欲しがるな。
男の子なんだから、もっとしっかりしろ。
そのたびに、自分の輪郭が少しずつ誰かの手で塗り潰されていくような気がした。
女の子の服が好きだった。長い髪に憧れた。けれど、誰にも言えなかった。
言えば困らせる。笑われる。嫌われる。
そんな気がして、黙った。
男になった。
少なくとも、周囲からそう見えるようには生きた。
そして最後まで一度も、「女になりたい」と口にはできなかった。
次に目を開けたとき、赤ん坊だった。
柔らかな布に包まれ、母の腕に抱かれていた。
「まあ。可愛い女の子」
その言葉を聞いた瞬間、泣いた。
もちろん赤ん坊だったから、理由など説明できない。母エッダは「元気ねえ」と笑った。
違う。
嬉しかったのだ。
女の子。
その言葉が初めて、自分の中へまっすぐ落ちた。
五歳で薄桃色のドレスを選び、髪を伸ばした。胸が膨らみ始めたときには、一人で泣いた。
嬉しかった。
鏡を見ることが好きになった。
そこに自分がいたから。
十歳で、王太子との婚約が決まった。
すると今度は、別の言葉が始まった。
王太子妃となる女性なのですから。
女性は殿方より一歩下がって。
夫の誤りを人前で指摘してはなりません。
妻には夫の顔を立てる務めがあります。
王太子妃はいずれ王妃となり、世継ぎを産むのです。
賢さを見せすぎる女性は、殿方から疎まれます。
笑うときは口元を隠して。
声を上げすぎてはいけません。
感情を表へ出しすぎてはいけません。
最初は、それが女として生きるということなのだと思った。
だから覚えた。
礼法、歴史、外交、会計、領地経営、王宮内の派閥、外国使節の家族構成。必要だと言われたことは、すべて。
オスカーが使節の名を忘れれば、そっと教えた。
すると言われた。
「人前で私の間違いを指摘するな」
「承知いたしました」
次からは、人前では言わなかった。
ある晩、オスカーが翌朝提出する書類の締切を忘れていることに気づいた。人前で指摘してはいけない。だから何も言わなかった。
翌日、
「なぜ教えなかった」
と言われた。
そこで次からは、事前に伝えた。
「殿下、明日の午前までにこちらの書類が必要です」
「分かっている」
「ですが先ほど、午後からお出かけになると――」
「いちいち細かい」
だから自分で側近へ確認し、必要な資料を揃えておいた。
すると、
「勝手なことをするな」
と言われた。
何もしなかった。
すると今度は、
「婚約者なのだから、少しは支えてくれてもいいだろう」
と言われた。
どうすれば正解なのだろう。
マレーネには分からなかった。
一度だけ、オスカーが三日続きの会議で明らかに疲れていたことがある。顔色も悪かった。
「殿下。午後の会議は延期なさってはいかがです?」
「王太子が疲れたなどと言えるか」
「ですが」
「私が弱音を吐けば、下の者が不安になる」
「休むことは弱音ではございません」
「君には分からない」
オスカーは苛立ったように言った。
「男が、まして王太子が、弱い姿を見せられるものか」
そのとき、マレーネは何も返せなかった。
その言葉を知っていたからだ。
男なんだから。
王太子なんだから。
弱音を吐くな。失敗するな。迷うな。人前で恥をかくな。
オスカーもまた、何かの形へ押し込められて育ったのだろう。だからこそ、自分が耐えているのだから、婚約者も耐えて当然だと考えている。
ある日、王太子妃教育の教師へ尋ねた。
「先生。殿下が間違っていらっしゃる場合、わたくしはどうすればよいのでしょう」
教師は微笑んだ。
「殿方に気持ちよくお仕事をしていただけるよう支えるのも、女性の務めですよ」
その瞬間、遠い昔の声が蘇った。
男なんだから。
今度は。
女なんだから。
言葉が逆になっただけだった。
それからマレーネは、少しずつ笑わなくなった。
「女性として大切なものが欠けている」
大広間へ意識が戻る。
マレーネは静かにオスカーを見た。
「殿下」
「何だ」
「わたくしは、女です」
「……何?」
「十八年間、この身体で生きてまいりました」
マレーネは淡い青のドレスの裾を摘まむ。自分で選んだ色だった。
「ドレスが好きです」
「何の話をしている」
「花も、宝石も、香水も好きです。髪を結っていただくのも、新しい化粧品を試すのも好きです」
静まり返った大広間で、マレーネは笑った。
「わたくし、自分が女であることが大好きなのです」
胸を張り、オスカーをまっすぐ見る。
「けれど、あなたにとって都合のよい女になるために、女になりたかったのではありません」
オスカーの顔から表情が消えた。
「……何を」
「あなたが間違えば、間違っていると言います。嫌なことは嫌だと言います。わたくしの時間はわたくしのものですし、わたくしの能力も、あなたが当然のように使ってよいものではありません」
「それでは妻として――」
「ええ」
マレーネは頷いた。
「ですから、その妻にならないために、わたくしから婚約解消をお願いしております」
オスカーの頬が赤くなった。
「なぜそこまで拒む! 私は君を捨てると言っているのではない!」
「存じております」
「私は、君がよりよい王太子妃になれるように――」
言葉の途中で、オスカーの視線が一度だけ周囲へ流れた。
大勢の貴族が見ている。けれど、誰も助け舟を出さない。握った拳が、わずかに震えていた。
怒っているというより、追い詰められているように見えた。
「私は王太子だ!」
マレーネは黙った。
「好きで何もかも決めているわけではない!」
大広間が静まり、オスカーの声だけが響く。
「幼い頃から、王太子なのだから弱みを見せるなと言われた! 男なのだから迷うな、失敗するな、下の者の前で恥をかくなと!」
拳を握ったまま、吐き出すように続けた。
「私だって、好きで王太子をやっているわけではない!」
マレーネはしばらく彼を見ていた。
怒りより先に、少しだけ悲しいと思った。
「でしたら、なおさら、わたくしへ同じことを強いてはいけなかったのではありませんか」
オスカーが止まる。
「殿下が『王太子なのだから』『男なのだから』と言われて苦しかったのでしたら、なぜ、わたくしへ『女なのだから』とおっしゃるのです?」
答えはなかった。
「殿下は、ご自分が背負わされて苦しかったものを、形を変えてわたくしにも背負わせただけですわ」
オスカーは何も言えなかった。
「マレーネ様」
リーヴが小さく呼んだ。
「はい?」
「わたしも、ずっと嫌だったんです」
「何が?」
「聖女なんだから、って言われること」
白い礼装の裾を握る。
「聖女なんだから優しくしなさい。聖女なんだから怒ってはいけない。聖女なんだから誰でも許しなさい」
リーヴは少しだけ目を伏せた。
「一度、嫌なことをされたので嫌だと言ったら、『聖女様がそのようなことを口にしてはいけません』って」
「まあ」
「嫌なことをした人ではなく、嫌だと言ったわたしの方が叱られました」
しばらく黙ってから、リーヴは唇を尖らせた。
「だから先ほど、殿下がわたしを『優しくて慎ましい女性』とおっしゃったときも、少し嫌でした」
オスカーが顔を上げる。
リーヴは彼を見る。
「わたしがそうしたいから優しくすることと、聖女だから、女だから優しくしなさいと言われることは、違います」
「リーヴ……」
「わたし、怒ることくらいあります。嫌いな人もいます。お腹が空いたら機嫌も悪くなります」
「それはわたくしもです」
マレーネが答えると、リーヴが笑った。
「聖女だからではなく、わたしが優しくしたい相手には優しくしたいです。怒りたいときには、怒りたいです」
「それでよろしいと思います」
二人は顔を見合わせた。
その横で、オスカーだけが何も言わなかった。
その夜のうちに、マレーネからの婚約解消の申し出はヴァルデック公爵家と王家の双方へ正式に伝えられた。
八年続いた王太子と公爵令嬢の婚約である。当人同士が大広間で言い合ったからといって、それだけで翌朝から他人になるわけではない。まして今回は、オスカーの側に婚約を解消する意思がない。
当然、王家との協議が必要になった。
翌日、マレーネは王宮へ呼ばれた。
待っていたのはオスカーではない。
王妃シビラだった。
「座りなさい」
「失礼いたします」
シビラは四十三歳。いつ見ても完璧な王妃だった。
姿勢も、言葉も、微笑みも、衣装も、何ひとつ乱れがない。マレーネが八年間、目標として示され続けた女性でもある。
「昨夜の件は聞きました」
「はい」
「オスカーは、婚約を継続したいと申しております」
予想していた。
「わたくしは、解消を希望しております」
「そうでしょうね」
意外なほどあっさりした返事だった。
シビラは紅茶へ手を伸ばす。
「王家としても、あなたに今後さらに教育を受けさせ、性格や振る舞いまで作り直した上で婚約を継続させるつもりはありません」
マレーネは少し目を見開いた。
「では」
「婚約解消を受け入れます」
シビラは静かに答えた。
「昨夜、大勢の前であなたを矯正しようとしたことについても、王家から正式に謝罪します。あれは婚約者同士で話し合うべきことであり、見世物にするべきではありませんでした」
「恐れ入ります」
「オスカーには、しばらく対外公務から外れてもらいます」
そこでシビラは少し目を伏せた。
「……あの子は、あのようなことを言いましたか」
「どのことでしょう」
「王太子なのだから、男なのだから、弱みを見せられないと」
「はい」
王妃の指が、カップの取っ手へ触れた。
「わたくしも言ったことがあります」
マレーネは黙って続きを待つ。
「王太子なのだから。いずれ王になるのだから。男なのだから、人前で泣いてはいけない。迷ってはいけない」
静かな声だった。
「そう教えることが、あの子のためだと思っていました」
「……はい」
「そして、あなたには王太子妃なのだから、女なのだからと、同じことを教えてきました」
長い沈黙があった。
「わたくしも、そう教えられて育ちましたから」
十六で婚約し、十八で結婚した。二十で最初の子を産み、国王が怒れば宥め、貴族が揉めれば茶会を開き、外国使節が来れば笑顔で迎えた。
「疲れていても、王妃ですから。悲しくても、王妃ですから。腹が立っても、王妃ですから」
シビラは自分の手を見る。
「それが正しいのだと思っていました。自分が耐えられたのだから、次の世代にもできるのだと」
それはオスカーと同じだった。
自分が背負ったものを、次の誰かへ渡す。正しいものだと思って。あるいは、それ以外の生き方を知らないから。
「昨夜、あなたが言ったそうですね」
「何をでしょう」
「都合のよい女になるために、女になったのではないと」
「……はい」
「羨ましいわ」
マレーネは目を見開いた。
シビラは、完璧ではない笑い方をした。ほんの少しだけ口元が歪んだ。
「あなたは、わたくしにならなくてよいのですね」
マレーネはゆっくり頷いた。
「はい。わたくしは、わたくしになりたいのです」
シビラはしばらく、娘ほどの年齢の少女を見つめていた。
「そう」
一言だけ答えた。
数日後、公爵邸の書斎で父アルノルトが書類を閉じた。
「婚約は正式に解消された」
「はい」
「理由については、双方の適性と将来像の不一致。お前に婚約者としての瑕疵があったとは記録しないそうだ」
マレーネは少しだけ肩の力を抜いた。
「夜会での件については王家から謝罪文も来ている。今後予定されていた王太子妃教育の費用負担も、当然なくなる」
アルノルトは鼻を鳴らした。
「王太子の教育不足まで、こちらで尻拭いする理由はない」
父らしい感想だった。
「それで、これからどうする」
マレーネは少し考えた。
王太子妃にはならない。王妃にもならない。ずっと先まで決められていた人生が、突然真っ白になった。
少し怖い。
けれど、それ以上に嬉しかった。
「そうですわね。まず、新しいドレスを仕立てたいです」
父が黙った。
ちょうどそのとき、書斎の扉が開いた。
「まあ。いいじゃない」
母エッダだった。
「お母様」
「どんなドレス?」
「まだ決めておりません」
「では好きなものにしなさい。卒業祝いも兼ねて」
「ですが、夜会用を仕立てたばかりですわ」
「あれは王太子の婚約者として出席するためのドレスでしょう?」
エッダは当然のように言った。
「今度は、マレーネが着たいドレスを作ればいいじゃない」
マレーネは母を見つめた。
十八年前、「可愛い女の子」と言って自分を抱いてくれた人。
「……はい」
少しだけ声が震えた。
「どうしたの?」
「何でもありませんわ」
マレーネは笑った。
今度は何色にしよう。
赤もいいし、深い緑もいい。これまで王太子妃候補には派手すぎると避けてきた色でもいい。髪だって、少し切ってみてもいいし、伸ばしたままでもいい。
誰に好かれるかではなく、誰にふさわしいかでもなく、自分が好きかどうかで決めればいい。
前の人生では、ずっと女になりたいと思っていた。
けれど今なら、少し違うと分かる。
欲しかったのはドレスだけではない。長い髪だけでも、化粧でも、女という言葉だけでもなかった。
男だからこうしろとも、女だからこうしろとも、誰にも決められず、鏡の中にいる自分を自分だと思える人生が欲しかったのだ。
女として生きることは、誰かに従うことではない。慎ましく笑うことでも、夫を立てることでも、子を産むことでもない。
そう生きたい女がいてもいい。そう生きたくない女がいてもいい。
マレーネは女だった。
ただ、それだけだった。
婚約解消を自分から願い出たことで、しばらく色々と言われたらしい。
王太子に公然と逆らった。
せっかく妃にしてもらえるのに、自分から捨てた。
可愛げがない。
中には「悪役令嬢のようだ」と面白がる者までいたという。
マレーネには、どうでもよかった。
数日後。
新しいドレスの仮縫いを終え、マレーネは鏡の前に立っていた。
今度は深い赤。
王太子妃候補だった頃なら、少し目立ちすぎると却下されていただろう色だ。
五歳のマレーネが選んだのは、可愛いと思った薄桃色だった。
十八歳のマレーネが選んだのは、綺麗だと思った深い赤だった。
どちらも、誰かに選ばされた色ではない。
よく似合っている。
「可愛げのない悪役令嬢、でしたかしら」
鏡の中の自分へ呟く。
悪くない。
少なくとも、誰かの理想の女として生きるよりは。
マレーネは笑った。
五歳の頃。
鏡の前から動けなくなった少女が、十八歳になってもそこにいる。
ずっと会いたかった自分だった。
「ええ。悪役令嬢で結構ですわ」
今度こそ、この人生はわたくしのものなのだから。
お読みいただき、ありがとうございます。
今回は「女になりたかった」から始まって、
「誰かに決められた自分ではなく、自分として生きたい」
という話になりました。
薄桃色も、深い赤も。
どちらもマレーネが自分で選んだ色です。
それでいいんじゃないかな、と思います。




