六話 白昼夢
揺れる、その飾り紐をただ目で追う。
思えばそれは物心がつく頃からずっと隣にあったような気さえしてくる。
手を伸ばそうとすれば危ないから、と優しく叱られてしまう。これぽっちも怒ってなどいない事を知っているために。でも制されたそれがほんの少しだけ寂しくて、自分よりも幾分か大きいだけの背に顔を埋めた。
その温もりに、ひどく安堵した。たとえ見えずともその“色”がある限り、彼女が自分のことを常に見ていてくれるような錯覚を覚えたのだ。
『なにを、笑ってるんだい?』
『―には内緒。』
紡いだその名に違和感を抱いた。
『“――”?』
どこか、違う。
揺れる飾り紐は、はたしてそのように凝ったものであったろうか。違う、もっと使い古したような解れかけた汚れのある細いものだった筈だ。
『――、』
三度、その名を紡ぐ。
間違っていないことをまるで確かめるように紡いで、紡いで、そうして、微睡みが邪魔をする。
『急に静かになるものだからどうしたのかと思ったら眠たくなっちゃったかな?遊び疲れちゃったんだね。大丈夫、安心して寝てていいよ。』
赤子を寝かしつける親のようなそれは、容易く揺らぐ意識を掠め、攫おうとする。
『おやすみ、千方。』
(ちかた?)
頭を撫でられる。つい先ほど感じた寂しさは途端にあっさりと消え去ってしまった。満たされる。たったそれだけの事、で。
でも、
(――は、そんな風に俺を呼ばない。)
だから、やっと彼は気付いた。
あぁ、そうか。
これは、夢である、と。
「春原さんっ!」
薄らと開かれた瞼の、その奥で灯る青い瞳を視る。
傾きかけていた彼の頭がゆるく持ち直すのを見遣れば安心する。
硝子板越しの赤を捉えて紡ごうとしたのだろう名の、その主がいない事をすぐに理解した彼がグッと下唇を噛んだ。意識もしっかりしているようだ。
料理とは桁違いの、真似たところで意味などないだろうにそれでも春原の脈に指を添えていた相良は、深く安堵の息を漏らした。
生憎と今は頼りになる薬師は何処へ行くとも告げぬまま、今日一日姿を見てはいない。
少しで不調があるのならそれを汲まねばなるまいと考えはするのだが、相手の顔を見れば体調に合わせたものを必要に応じて調合することが出来る彼女のような芸当は自分には出来ない。
勝手に薬庫に踏み入ろうものなら帰ってきた彼女に何を言われるかなんて分かっているが、何かあってからでは遅い。
このところ梅雨を忘れたように急に日照りが強くなる日もあるものだから急に体調を崩してしまいかねない事もない。
気にしすぎだと言われればそこまでだが、気にかける相手はそんなことを一々口にすることはない。思われたところで痛くも痒くもないのなら相良はしつこいぐらいに言葉を重ねる。
もう、昔のように見て見ぬ振りはしたくないから。
「御身体が優れませんか?昨晩は眠れませんでしたか?」
三日に一度の頻度でしか眠りにつけない。昨晩は眠れた筈だが夏の暑さが濃くなるこの時節の夜も、中々に深い眠りにつくのは難しいだろう。自身だって昨晩は色々とありまともに休めていないのを棚に上げ、そんな事を考えながら相良は春原に向かい合う。
何より今日は既に日が暮れそうだというのにまともな食事を口にしていない。いつ帰ってくるかも分からぬ相手を待つのは止めて、近くの飯屋に適当に転がり込んでも罰は当たらないと言ってい館林は、朝庭を飛び出していったきりの若輩者・芳賀を探しに行ってしまった。
一人でも何も問題のない伽々里とは違い、芳賀は他に寄るところがあるとは思えない。夜になる前に見つかればいいものだが。全くをもってこの時期というものは茹だるような暑さに頭をやられてしまい、溺れそうな程肌に纏わりつく湿気が気を荒立たせて仕方がない。やはりどうにも上手くいかぬことばかりであまり好ましくない。
鬼ノ目 五十六話
『扇堂雪那ってたらそいつぁ本家のお嬢さんじゃねぇかい?…はぁ、こいつはたまげたもんだなぁ?随分長いこと屋敷の奥から出てこねぇもんだって噂ぁ耳にしてたもんだから、てっきりもっと辛気臭い面したお嬢さんかと思ってたんだが何だい?たまげちまうぐれけの別嬪さんじゃねぇかいこりゃあ?…おい、鈴枝っ!それならそうと端から言やぁいいもんを…、お前は何を渋ってたってんだ。おかげで待たせちまったじゃねぇか?早く儂の茶も用意せぇ!温いのはごめんだ下げろっ!
………いやいや本当に口汚ねぇもんですまねぇ。本当にこいつは着飾った言葉つーのが苦手なもんでよぉ。えれぇ世辞の一つでも零せりゃいいんだろうが生憎とこんな風体の者にかけられる言葉なんてもん、これまであったもんじゃねぇもんでよぉ。おまけにこいつときたら学のねぇ、腕ばっかしの職人なもんでよぉ。うめぇ言葉の一つと知ったもんじゃねぇんだよ。…あぁ、でも一つ心当たりがあんなそうだ、こういう言葉はこういう時に使うもんだんだろうよ。
言葉にすんのも勿体ねぇぐれぇに美人、つーんだわ。違えねぇ、違えねえなこいつは?』
意図して舌を捲し立てるわけではなく杵田大門は腰を寛げるなりつらつらと言葉を並べた。随分とよく回る舌だと初めの内は和馬も関心していたし、職人気質の頑固者として事前に扇堂美琴より聞かされていたために全くそんな風には見えない様子に拍子抜けした。
これで顔を突き合わせたが一向に口を開かないものを勝手に想像していた為にホッと胸を撫で下ろしたのもかれこれ二刻程前の事。
『美琴様から頼まれてだぁ?美琴ってーとあの気弱そうな分家の娘ころだよなぁ?杷勿ちゃんの後ろに隠れてばっかりでまともに口も開けないで震え上がってたあの嬢ちゃんかぇ?それが何だって?今じゃ杷勿ちゃんの右腕ってかぁ?随分とまぁ立派になったもんだなぁ?…そうそ、確か小せぇ頃は春奈ちゃんに…おっとこいつはそうだなあんまり良くはねぇな。…まぁ生まれつき体が丈夫じゃねぇってんで薬師さんが用意した薬から逃げ回るように寝巻きのまんま廊下走っててなぁ。一回派手に転けて泣きじゃくってたの見たことがあるなぁ。いやぁ…その子が右腕ねぇ?時間ってのはすぎるのが早ぇもんで。』
『今じゃ雪那様が里一の美女だぁ言われてるみてぇだがな、儂の中では今も昔も杷勿ちゃんが里一番の美女に違えねぇなやっぱりよ。いやいや嬢ちゃんが美人じゃねぇって言ってるわけじゃねぇんだい。ただ選り好みってーもんがあるだろ?儂の中じゃそれが杷勿ちゃんだったってぇだけの話でな。…何?杷勿ちゃんの話が聞きたい?おぅ何が聞きてぇ?幾らでも話せる自信があるからなぁ任せろ!惚れた女の話なんて山程あるからなぁ!……あっ?何だ鈴枝その目は?儂が惚れたのはこの世で杷勿ちゃんと初だけだ何度も言ってるだろうがっ!』
『そうそう若ぇ頃の杷勿ちゃんといえばお転婆娘でなぁ…、初めて会ったのはもう当主の座を継がれた後だったんだけどよぉ、偶々他所から来たところを謂れのない罪吹っ掛けられちまって、してもねぇ盗みの罪着させられそうだったんだけどな。そいつを屋敷まで出向くのは遠くて仕方がなかったが杷勿ちゃんは偉ぇ頭のキレるお嬢さんだったもんだからよ、無罪だって裁きを下してくれた上に本物の下手人まで見つけ出してくれてなぁ。あん時から儂ぁこの御人にゃ頭が上がらねぇのなんのってよ。おまけに行く宛のねぇ儂ら家族の為に家まで用意してくれてなぁ。だからよ、間違っても屋敷のある方角に足は向けて眠れねぇわけよ。』
『杷勿ちゃんってたら若ぇ頃から大岡政談物が好きだった上に、最近じゃ屋敷まで連れてきて裁きを下すなんて事は減ったらしいが、人の犯した罪ってのに関心のある不思議な御人でなぁ。儂が世話になった時みてぇに屋敷の、正門の目の前にある御堂で背を正してなぁ、里の揉め事を日夜裁いてみせるその手腕が凄ぇのなんの…。神仏様の御加護目当てってのもそうだろうが、杷勿ちゃんに縋りてぇって奴もいた事だろうよ。この人に寄りかかってしまいたいって、思わせてくれるような御人なんだ、あの方は。』
『それがよぉ…杷勿様は早ぇ内になんだったか、阿夫利の宮司のおとこの坊さんと夫婦になられてな…。遠目でもお綺麗なもんだったのを今でも思い出すねぇ…。秋の紅葉で山が染まってな、そんな中を真っ白な白無垢纏った姿と言ったらなぁ…あぁ、そうだそうだ、言葉にするのも勿体ねぇぐらいの美人だつったろ?アレはなそん時に、浮かぶ言葉の一つもありゃしねぇで恥かいてる儂に杷勿ちゃんが教えてくれた言葉でなぁ。後に出逢った初にも使ったの覚えてる。一目惚れって言ったら頬叩かれてな。調子のいいこと吐かしてるんじゃないわよっ!って啖呵切られたんだ。懐かしいったらありゃしんねぇな。』
「初って女はぁ、何とも気の短ぇ女でよぉ。喧嘩っ早い上に手も足も男顔負けに出すもんで敵が多いのなんの。初めて会ったのは橋の上だってのに膝上まで裾捲って、掴みかかってこようとした男投げ倒した挙句腹に重てぇもん喰らわしてな。それに一目惚れしちまう時点で儂も中々の変わりもんだったんだろうがのぉ…相手の身内と勘違いされて貰ったもんが痛くて仕方がなかったのは忘れられんのぉ。鈴枝は初の妹だがな、姉がお転婆だと妹は気が弱くなるもんなのか知りはしねぇが未だに気が弱いまんまだ。一人前になるまで世話ぁしてやらにゃいけねぇがそろそろ三十を迎えるもんだからどうしたもんかと悩みの種さ。」
今しがた菓子を用意しに部屋を後にした女中の背中が見えなくなったのを、態々廊下に顔を出して確認してからそう切り出した男の舌は渇く事を知らない。舌の根が乾かぬうちになんて言葉がるが何もそういう意味ではなく純粋に、言葉の通り舌が乾かぬものかと思いたくもなる勢いで延々と話を続けた。
長屋の主人というものは話が長いと聞いたことはあったがこうも長いものかと感心を通り越して呆れてしまう程の長さで、一体いつになれば終わるのやら。当の昔に痺れきってしまい悲鳴の上げ方を忘れた足を憐れみながら和馬は過ごしていたのだが、やはりそんな和馬の心境など梅雨知らず、右手の彼女は杵田大門からどんな話が出てきても楽しげだ。僅かに腰を浮かせるようにして前のめりになりながら耳を傾けている姿など、玩具を前に喜ぶ子どものようではないか。年相応ではないが何とも可愛らしい。
少しばかりの現実逃避を交えながら、そういえば彼女は以前にも友人である弥代の代わりに、彼女が住まう長屋に家賃を払いに訪れた事があったのを思い出す。あの頃は丁度年度の終わりということもあり人手の足らない討伐屋にタダ働き同然で朝目が覚めてから日がどっぷりと暮れても尚顔を出し、手伝いに明け暮れていたものだが、どこの長屋の主人もやはり話は長いのか。帰ってきてせめてもと一緒に夕餉をいただく際に家賃を立て替えた後の話を掻い摘んで聞かされたのだが、またそれも長かった。話している内に二転三転と話題が逸れてしまう雪那が、必死にこんな話を聞いたのだと教えてくれるのは良かったのだが、中身のない話を聞かされて疲れは溜まる一方。湯を浴びてから私室の布団に潜り込んで、眠りにつくまでの早さは今の生活が始まってからを思えばどの時よりも早かった気さえする。つまりはそういうものなのだ。
弥代もまた友人の、雪那の一度話し出したらキリがない話の長さに感心を覚えた事があると以前に話していたからやはりそういうものなのだろう。
好きになれそうにはないが別に嫌いなわけでもない。複雑なものだ。
いい加減に終わらぬものかと和馬が頭を抱え出した頃、菓子を取りにいった筈の女中・鈴枝が何も持たずに部屋へと戻ってきた。
「旦那様お話中のところ申し訳ございません。屋敷の遣いの方がそろそろ、と。お迎えに上がっております。」
「なんじゃぁっ⁉︎呼んどらんじゃろそんなもんっ!」
「あれより二刻半程経っております。日も傾き始めています故、迎えに来られたのかと…」
「…そ、そうか。」
そう言われてしまえば杵田大門も押し黙った。
「迎え、別に来てませんよね?」
雪那が草履を履いているのを尻目に、和馬は女中の鈴枝に小さく訊ねた。その目尻がキュッと萎む。
「いえ、誠に勝手ながら此方から手配させていただいております。主人…大門様は一度話し始めると止まらない御人、故。」
「今日一日でえらい程分かりました。大変そう、ですね。」
「いいえ、慣れています。もうかれこれ二十年程になりますので。」
(二十年程前、か。)
彼女の言った通り、行きに乗ったのとは違う牛車が屋敷の前には停められていた。屋敷の遣いであれば扇の紋が刻まれている屋形である筈だ。それがないという事は言葉の通り彼女が呼んだのだろう。
そろそろ我慢の限界に達しそうだったこともあり彼女の用意したそれが助け舟に感じられた和馬は、それがあの場を終わらせるためのでまかせだったやもと考えたのだが違かった。
改めて礼を述べるつもりでいたのだが、鈴枝が口にした二十年程前という言葉に引っ掛かりを覚えてしまう。
そしてどことなく察してしまった。
名は出ても姿を見ない彼の妻であり、女中の実の姉である杵田初という女性が今どうなっているのかを。
和馬はどうにもやはり勘がいい。なんとなく分かりたくない事も分かってしまうことがある。だから先の秋口の件でもそれで一人苦しんだ。苦しんだその結果が今こうしてここにいられるのだとすればそれはなくてはならなかった事だと思えるのだから別に嫌な気はしないのだが。
先日、春の彩が色付く縁側で氷室から聞かされた話の時もそうだった。疑念は確信へと変わった。
二十年程前、雪那の生まれた年にこの里を襲ったという大火災。それと同じ年に命を落としたという雪那の母親・扇堂春奈。火の手が上がったのは屋敷からとされている。氷室の語るかつての扇堂春奈という人間がどのような人物であったか。火災以降大主は公務で表へと出る機会が減ったのだといつだったか扇堂美琴が話していた。表立って明かされてはいないが本家の生まれにして“色”を持たずに生まれた盲目の娘。広い屋敷の中で誰も彼も扇堂春奈の話を中々しようとしない点や、先の杵田大門の話の中でも何度かその名前に触れかけたのに、まるでそこだけを避けるかのように話を続けた姿を目にした。
和馬はまだ扇堂家の恩恵に肖り始めてまだ日は浅い。それでも十二分にその答えに至る事が出来る材料を得てしまっていた。昔から何かと勘のいい和馬にとっては尚更。
そして当然それだけではない。
『あの子が、幸せでいられるのでしたらそれだけで、それだけで私は構わないのですよ。』
柔らかく細めれたその瞳が分かりやすい程に全てを物語っていた。
「と、ところで和馬さん私お聞きしたい事があったのですが?」
「…あぁ、ごめんな。ちょっと考え事しとって。えっと、何?聞きたい事?」
「はい、そうです。その……」
「肝心のお話って何だったのでしょうか?」
「え………あっ、」
「明日も、ですか?」
「はい…えっと、すみません。話し切り出す機会すっかり忘れてて…」
東の離れで一緒に夕餉を取った後、西区画の扇堂美琴への部屋へと訪れた和馬は今日あった出来事を簡潔にまとめ、彼女へと報告をした。何とも情けない話だ。長話に気が逸れて肝心の話を一切振れぬまま、向こう方の女中の助け舟に縋るようにして帰されただけで一日を終えてしまったのだから、これを情けないと言わずなんというというのか。
気性が少々粗いと聞かされていた上の厄介な相手という情報だけでいざとなれば守るかやり返すなんて冗談でも息巻いていた数刻前の自分が恥ずかしい。
「別段、雪那様に何かがあったというわけではないのですね?」
「何にもありませんでした。ただ話が長いだけで…。あっ、でも雪那ちゃ…雪那様は楽しそうでした。ああいうお話聞くの苦じゃないみたいで。」
「楽しそうな…。そうですか、それでしたら明日一番に大主様に私から御報告を致します。明日は首題の件を願います。」
「かしこまりました。」
と、部屋に毎度運び込まれる彼女の夕餉が乗った盆の上に目が留まる。後は大人しく部屋を後にすればそれでいいのだが、その配膳の隅、小鉢に僅かに残っているそれは薬味が彩る豆腐だ。確か一緒に食事をした際に雪那が今日の豆腐は普段よりも苦みがあるなんて溢していた気がする。
「………。」
「どうかされましたか?」
「あっ……いえ、」
そういえば先の杵田大門が幼い頃の扇堂美琴は薬の苦さから逃げるように泣きじゃくって嫌がっていたなんて話していたような記憶があるが、気付くまいと和馬は直ぐ様それに静かに蓋をした。
「おはようございます、伽々里さん。」
「えぇ、遅いお目覚めですこと。おはようございます弥代さん。勝手にお台所を借りていますがお気になさらず。…あぁ、顔は洗われますよね?洗わないまま過ごすわけがありませんね?どうぞお使いください。先ほど井戸から汲んできたばかりですのでよく冷えていますわよ。」
「…っす、」
どうしてこうなったのだろう、と弥代は起きて早々頭を抱える。吊るしていた手拭いを片手に、桶に張られた水をもう片手で器用に掬いあげる。片掌で掬える量なんて少ないに決まってるのに、向けられる鋭い視線を前に、何か下手なことをすれば言葉が飛んでくると変に肩に力が入ってしまう。違うのだ、普段ならちゃんと両手で掬いあげるのだ。緊張してしまって普段当たり前に出来ている事が出来ないだけで。
「もし、よろしければ。手拭い、持っていてさしあげましょうか?」
「いや…そういうの大丈夫なんで。け、結構です。」
「そうですか。」
かれこれ一年程(途中半年程留守にはしていたが)暮らしている筈の長屋が知らない空間に思えてしまう。緊張で朝っぱらから気に触れてしまいそうだと天井板を見上げる。
「朝餉の用意が出来ていますので一緒にどうですか?」
「いただきます。」
本当にどうしてこうなった?
自分の家にあった食材を思い出しながら目の前に差し出された朝餉を前に困惑する。果たしてそんなものが拵えれるだけのものが揃っていただろうか記憶にない。辣韮の漬物なんてそもそも漬けた事もない。夏にはこれの酢漬けがいいのだとか漬物一つ自分で漬けるのが得意な鶫が話していたのを思い出す。思い出しただけで作り方を教わったことなんてやっぱりありはしない。
「めっちゃ美味い」
「お口に合ったようで良かったです。」
軸のブレることのない正した姿勢のまま、対面する形で食事を取る彼女は頭を垂れた。こうして向かい合って食事をするのはこれが初めてだ。
以前一度だけ討伐屋で賑やしいにも程がある朝餉を頂戴したことがあったが、見慣れたちゃぶ台を囲むのではなく人数分の盆がどこからか用意され、一人一人距離を空けていただく形となった。
朝一番、日の出と共に目が覚めて外を駆け回る芳賀の次にいつも目を覚ますという彼女は、人数分の食事の用意をした後あの重たい薬箱を抱え近所の家々を一軒ずつ周り、そうして帰ってきて最後、静かになった部屋で少々冷えた朝餉を一人食べていた様子を、討伐屋を出る際に見かけていたものだから、やはり一緒に食事をするというのはやはりこれが初めてに違いない。
「少々不安だったのですがどうやら定着しているようですね安心しました。」
「何の話?」
昨日、髪を切り揃えてくれた伽々里はその後てっきり討伐屋へ帰るのかと思ったのだが、あろうことか泊めてはくれないか?と弥代に提案したのだ。頼まれてはいない、頭も下げられてはいないのに二つ返事で受け入れてしまった。頭が上がらない相手をそう易々と断れるわけがない。少なくとも彼女に対しては弥代は無理だ。
結局昨日の引っ掛かりを覚えた会話の続きだって出来てやいない。疑問は疑問のまま弥代の中で蟠りを作るだけに終わり夜を迎え、そうして朝になってしまった。
今日もいつも通りにこれから近所の家々を回って必要に応じて薬を飲ませに行くのだと彼女が口にすれば、弥代も自然とそれに着いていくと返事をしていた。求められていたのは昨日だけで特段今日は必要とされていないだろう事は薄々感じながらも。
「アンタ…どうしたんだいその髪?」
「は?髪がなんだって?」
伽々里に続くように家を出て早々、向かって左隣に住んでいる長谷一家の女房が弥代を指差して困惑しきった声をあげた。
髪なんて昨日伽々里に切り揃えられたぐらいしか記憶にない。目に掛からないぐらいの、眉よりも上まで前髪は薄くしてもらったぐらいで、既に夏の暑さが感じられるこの季節ならこれぐらい短い方がすっきりしていいのではないかな?なんて思っていたものだから、それを指差されて困惑されたとなっては余程似合ってないのかと動揺して頭を押さえてしまう。
「何々?え?そんなに変…?」
慌てて半歩先の伽々里の方を見遣ればその肩は隠しようがないぐらいに上下に振動している。
「だからっ⁈何なのさっ⁉︎」
「それで…髪がお黒いんですか?」
「いや………うん。なんだろ、腑に落ちない。」
「腑に…落ちませんか?」
「うん。」
意気消沈といった様子の弥代を前に雪那は何と声を掛けたらいいものかと雪那は小首を傾げた。
なんというか、物凄く似合っていない。
否、“色持ち”であるから黒とは違う髪色をしているだけで、色を持たなければ本来自分も弥代も黒髪黒目であることを理解している、互いに色を持っているからこそのこれまでと今の関係があるのは分かってはいるのだが、何というか、
「とても、お似合いではないですね。」
「なんでかな?これまで当たり前にあったもんがそうじゃなくなっちゃうって、こんなになんかこう…辛いもんなのかな。俺よく分かんねぇけどそういうもんなのかな。…どうしたらいいのか分かんないや。」
「弥代ちゃん!そっ、そんな落ち込まないでください‼︎」
「落ち込んじゃいねぇよ。落ち込んでるわけじゃ…ねぇよ。」
「あぁ…、」
意地を張って頑なに認めようとしないだけなのは分かりきっているためにそれ以上を言えなくなってしまう。弥代と言えばその緑混じりのような青髪あってこそだと思っていただけに、ほんのちょっとだけ雪那も普段の色ではない弥代を前に調子が崩れてしまっているのは言いはしないが事実だ。
こんな調子の弥代ちゃんは弥代ちゃんじゃない!なんて思うも、何も落ち込む友人を全否定しているわけではなく、そういった事もあるだろうなぐらいでどうにか捉えてはいる。しかしその反面ちょっとだけ色を持たない髪をした今日の友人を羨ましいな、だなんて思ったりしたのは本当に秘密だ。
複雑な心持ちのまま、雪那はどうしてそんなことになったのかと、先ずは状況を整理する為に弥代に訊ねた。
「…昨日、」
「昨日?」
「討伐屋の…伽々里さんっていって通じるかな。その人に髪切ってもらって、その時にちょっと…まぁやたらと長いなとは思ってたんだけど、なんか粉を髪に揉み込まれたみたいで、それから外出てなかったんだけど、朝起きて外出たら隣の妙さんになんだそれ?って指差されて。…それで、気付いたらこうなってた。」
「あぁ……」
やはりなんと声を掛けたらいいものかと雪那は悩むしかなかった。
話しながら膝の間で組んだ指と共に頭が落ちていく姿に掛ける言葉がからっきし浮かばない。浮かぶわけがない。
とりあえず背中でも摩ってやろうかと、胸の前で組んでいた指を解いたところで救世主が訪れた。
「何や何や湿っぽい面して?湿っぽいんは天気だけで十分やさかい、茶でも呑んで気引き締めぇ弥代ちゃん?」
多少行儀は悪いが足の裏で襖を開けて部屋に入ってきた和馬は、言いながら二人の前にお盆に乗った湯呑みと菓子を差し出した。
「湿っぽいつーか今日は雨だけどな。何?最近声大きい連中多くないか?そういうもん?」
「シャキッとせぇ言うてんや!君がそんなんだと雪那ちゃんも気にして笑えんやろ‼︎一発殴ったろか⁈」
「お前…あれから何かにつけて俺の事殴ろうとしてない?他に発散先がないわけ?それ八つ当たりって言うんだろ?良くねぇよそういうの。」
「口だけはそんな様子でも相変わらず一丁前やなぁ君は⁉︎いっそ腹立たしいわ‼︎」
「いや、だから声大きいって、」
指先ほどの大きさの匙で羊羹を切り分けながら、和馬から浴びさせられる応酬をあっさり打ち返してみせた。口ぶりは普段通りだがそこには覇気がない。いつぞやの雪那みたいに下手な臍の曲げ方をしていないだけ幾分かマシではあるが厄介であることに違いないが、片や雪那といえばそんな二人のやりとりを尻目に暢気に湯呑みを傾けていた。
「ご機嫌に髪の毛跳ねさせてるお前にゃ俺の気持ちは分かんねぇよ。」
「好きで跳ねさせてる思うとる君の気持ちなんて一生分からんでええわなっ!」
「和馬さん、和馬さん!こちらの羊羹は中々見ない模様をされていますがどちらのお店のですか?」
「友月屋の新しいのやって!戸鞠ちゃんが今朝買ってきてくれたんよ?」
「まぁ!」
「ハッ、随分な変わりようで。甘やかし上手にも程があんだろ。」
「君は黙っとれっ‼︎」
やんややんやと主に二人が実のない言い争いを続けていれば、ふと雪那の耳に聞き慣れたどこか重たい、それでいて静かな足音が聞こえてきた。
「氷室!」
「失礼いたします雪那。」
穿いていた袴を綺麗に払い、余計な皺が残らぬように部屋の前、廊下で正座をした氷室がそのまま一礼を挟む。
「談笑中のところ申し訳ございません。そちらの…者に用が、……何方ですか?」
「もう止めにしないこのくだり?」
手早いもので、嫌がる弥代は氷室のその脇に抱えられて部屋を後にすることとなった。どうやら道場の方に討伐屋の面々が来ており稽古をしているのだが、稽古が始まってから早半月。初めの一、二回は嫌々ながらも参加していたが後はサボり続きで中々屋敷に近寄ろうとしなかった弥代を捕まえにきたのと、討伐屋の頭である春原千方のやる気を出させるのに必要だと判断した為に連れて行こうと考えたのだという。
何も言わずに連れていくわけではない。一頻り説明を終えた氷室の手によって弥代は物のように運び出されてしまったが、そんな話を聞けば好奇心旺盛な雪那が関心を示さないわけがない。
空になった器と湯呑みを盆に戻してから彼女はそっと、傍らの幼馴染の裾口をその指で摘んで引き寄せてみた。
「和馬さん、お願いがあるのですが…?」
そういえば昨日の頑張りを雪那はまだ弥代に話せてすらなかった。
『何をしているんですか、貴方はっ‼︎』
その男の変わり様を前にして、彼女は宛ら雷に撃たれたような衝撃を受けた。
これまでにおいても五度顔を合わせ言葉を交わす内に、なんとも面白いものだと思ってはいはしたが、それまでとはまるで訳が違った。
何より…
『ごめんなさい、ごめんなさいっ、ごめ、ごめんなさいっ‼︎』
身を屈める、その非力な細腕の奥。
そのあまりにも鮮やかな赤髪には覚えがあったからだ。
十四年程昔に捨て置いた筈のややこが、まさかまさか生きていようとは思ってなかった。
(どうするのが、一番面白いのかしら…)
得意ではない煙を口に含み、舌先で転がすようにしてから意のままに細く、細くそれを燻らせる。
でもまだ儘ならない。宙を漂うそれを爪先で撫であげて、そうして
「そうね…それがきっと一番素敵ね。」
窓枠に腰を預け、まだ幼さの抜けきらない女が一人ほくそ笑んだ。




