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溶けた、君

作者: 神江尚
掲載日:2025/12/23

「明日には東京行っちゃうんだから、最後くらいチョコの散歩行ってあげてー」


 母の要求に多少の面倒臭さを感じたが、今日散歩に行かなかったら次の機会は夏休みになると思ったので、チョコと散歩をすることにした。


「チョコ、さんぽさんぽ」


 チョコを散歩に誘う時は、口早に「さんぽ」という言葉を繰り返すのが我が家のルールだ。やがて、トコトコトコと可愛い足音を奏でながら、チョコがやってきた。昔はもっと早く来たのになあと、寂しさを覚える。最近受験勉強ばかりであまり構ってやれていなかったことへの反抗か、はたまた単におばあちゃんになっただけかは定かではないが、どちらにしても寂しい。


「なんだ、尻尾めっちゃ振ってんじゃん」


 そんな僕の心の内を知ってか知らずか、チョコは散歩に行くことが嬉しくて、幼犬のようにはしゃいでいた。はち切れそうな程尻尾を振るチョコを見て、先ほどの寂しさは吹き飛んでいた。

 慣れた手つきでチョコにリードを付ける。最近散歩に連れて行けてないとはいっても、その方法は体に染み付いており、一生忘れることはないだろう。散歩に行くことで嬉しくて飛び回っていたチョコも、この時だけは大人しくなる。その様子からは、僕とチョコの信頼が見て取れるようで、形容し難い満足感を感じた。


「よし、準備オーケー」


 玄関の扉を開ける。久々のチョコとの散歩になんだかんだワクワクしながら、ふと物思いに耽る。

 僕は明日から、東京で一人暮らしを始める。壮絶な受験勉強を乗り越え、見事第一志望に合格した。東京の大学だ。明日から東京に行くということは、チョコとは夏休みになるまで会えない。母や父と別れるよりも、チョコと別れることのほうが、なんとなく寂しく感じた。


「チョコは寂しくないのかよー」


 僕の気持ちなどいざ知らず、チョコはどんどん前に歩みを進める。気楽なもんだな、と呟きながらも、僕との散歩を楽しんでくれているという事実に思わずにやける。

 チョコが我が家にやってきたのは、僕が小学一年生の頃だ。近所で犬を飼っている友達を羨ましく思い、ダメ元で母に犬を飼いたいと頼んだ。しっかりお世話することを約束し、近所のペットショップでチョコを買ってもらったのだ。

 チョコはミニチュアダックスフンドでカラーはブラックタン。ダックスフンドなんて短足胴長でカッコ悪いだけだと思っていたが、チョコの姿を見た瞬間、その可愛さでこの子を飼うと即決したのを、今でも覚えている。くりくりの目に艶々な毛並み。片手で持ててしまうほど小さな体躯に庇護欲が駆り立てられ、一瞬で心を奪われた。

 チョコという名前は僕が決めた。黒い見た目と、ちょこんとした佇まい、そして僕の好物であるチョコが由来だ。我ながらチョコに相応しい可愛い名前だと自負している。

 チョコがやってきてからは、完全に我が家のアイドルだった。いつもは寡黙な父も、チョコに対しては猫撫で声で接するし、母に至っては、事あるごとにチョコ、チョコと言って、精一杯愛でていた。かく言う僕も、可愛い妹ができたようで、チョコには首っ丈だった。

 そんなことを考えていると、対面から同じく犬の散歩をしている人がやってきた。犬種はゴールデンレトリーバーだろうか。リードを短く持つ。チョコが吠えてしまわないか、相手の犬が吠えないか内心ドキドキしながら、軽く会釈をして通り過ぎた。

 チョコがまだ小さかった頃、チョコは道行く人に片っ端から吠えた。チョコの散歩をしていた僕は、甲高い声で吠えるチョコを制止できず、リードを必死に引っ張りそそくさとその場から去っていた。当時は小学生だったので今よりもずっと臆病で、チョコが吠える度に居た堪れない気持ちになったのを覚えている。


「チョコも、大人になったんだな」


 気づけばそんなことを口にしていた。家族以外のあらゆる生き物に吠えるチョコはもういない。大抵の犬は大人になると気性が落ち着くというし、躾が上手くいったことの表れでもある。しかし、僕は昔とは比べ物にならないほど大人しくなったチョコを見て、ただ楽観的になることはできなかった。


「チョコ、足拭こ」


 散歩から帰宅すると、母が用意してくれていた濡れ雑巾でチョコの足を拭く。母がチョコの足を拭く時は、チョコを抱きかかえて足を拭くが、僕はそのまま足を拭く。最初はただ横着しただけだったが、今となってはその方法に慣れてしまい、今更変える気にもならないので、この方法を続けている。右前足、左前足、右後ろ足、左後ろ足の順で拭くのがルーティンだ。

 いつからか、足を拭こうとチョコの足に雑巾を伸ばすと、チョコは自ら足を挙げるようになった。特にそういう躾をしていた訳でもないのに、自分から足を上げてくれたのを見て、僕とチョコの間の信頼関係や絆をひしひしと感じた。それからは、散歩後に足を拭き終わると、必ずチョコの頭を撫でてやった。そうしてやると、チョコは頭を前に突き出し、撫でられるのを存分に楽しんだ。


「よし、終わり」


 チョコの足を拭き終えた後、いつも以上にチョコの頭を撫でてやり、それからリードを外した。リードから解放されたチョコは、母の元へ駆けていく。

 散歩から帰ったら、疲れた体を癒そうとチョコレートを食べる。冷蔵庫から取り出したチョコレートは、しっかり冷えていて、なぜだかいつもより苦く感じた。




「「「かんぱ〜い!!!」」」


 サークル仲間のみんながそれぞれグラスを手に、今年何度目か分からない乾杯をした。もちろん僕は未成年なので、オレンジジュースを飲んでいる。僕は大学生となり、サークルの飲み会に参加していた。


「ゆうきは今日もソフドリか??そろそろ酒飲もうぜ!」


 僕が入ったサークルはいわゆる飲みサーなので、先輩はこうして一年生に酒を勧めてくる。僕は二十歳の誕生日にお酒を飲むと決めていたので、うまいこと断り続けている。


「いやー、この前やらかしちゃって、ちょっと僕今禁酒してるんですよ」


「何だよそれ、お前酒飲んだことないだろー」


 そのやりとりを聞いていた周りの者からは小さな笑いが溢れる。

 禁酒していると言えば、「お酒飲まないつまんないやつ」から、「ちょっと変な面白いやつ」に昇格し、先輩からの酒を断ることができる。これがこの三ヶ月で僕が身につけた処世術だ。お酒はまだ飲まないが、飲み会の雰囲気は好きな僕にとっては、このサークルは大学での居場所だった。

 大学生活は楽しい。東京は何でも揃っているし、五月に始めた居酒屋バイトも、未知の経験ばかりで新鮮だ。東京に来てから約三ヶ月経つが、七月の猛暑を感じさせないほど、大学生活を満喫していた。そして何より、サークルのみんなとは馬が合うし、週一以上で開催される飲み会は、進学校で勉強ばかりしてきた僕にとっては、非日常感満載で最高の娯楽だった。

 飲み会も中盤戦で、各々が好きな席に移動する。先ほどの先輩も、男子だけの飲み会で狙っていると宣言していた一年生の女子の元に行った。


「ゆうき君、お酒飲んでないの?」


 一緒にいた友達がその先輩に取られ、喋り相手を失ったゆみちゃんが僕の隣に来た。ゆみちゃんとは何度か話したことがあるが、端正な顔立ちと物腰の柔らかさから、正直僕は彼女に惹かれていた。


「うん、二十歳まで飲まないって決めてるんだ。」


「私も、そう!」


 ゆみちゃんは同じ志を持つ仲間ができたのが嬉しいのか、明らかにテンションが上がっていた。その様子に僕もドキッとする。


「じゃあ同志じゃん、因みに誕生日いつ?」


「えーっとね、十二月二十日だよ」


「まじ!僕も一緒!」


 そんなこともあるのかと、お互いに驚いていた。正直、ゆみちゃんは控えめに言っても可愛い。そんなゆみちゃんと誕生日が一緒であるという事実だけで、心のラッパが鳴り止まない。


「じゃあさ、お酒飲まない同盟で、今度どっか遊び行こ?」


 ラッパはオーケストラ隊へと昇格した。

 女性経験がない僕にとっては、その一言は爆弾だ。アルコールは入っていないはずなのに、そう告げるゆみちゃんの顔は赤く見えたし、僕の顔がすでに真っ赤であることは、鏡を見る必要もないくらい明らかであった。


 ゆみちゃんと遊びに行く約束をした飲み会から帰宅した。飲み会が終わっても、僕は未だに浮かれていた。この熱をお風呂で洗い流すのはもったいなく感じ、今日は寝巻きにだけ着替えて寝ることにした。

 布団に入っても心臓がうるさくてなかなか寝付けないでいると、ふとスマホの通知が鳴った。さてはゆみちゃんからのメッセージか。スマホを充電器から引き抜き、光の速度よりも速くメッセージアプリを確認する。


「最近チョコの元気がないので、明日病院に行ってくるね」


 母からのメールだった。普段のメールは使い慣れない絵文字で溢れているのに、今回に限っては絵文字が一つもないことに違和感を覚えたが、さほど深刻視はしていない。何か変なものを食べたか、単なる夏バテだろう。少し悲しい知らせに、何となく飲み会の熱が冷めたので、スマホを充電器に差し込み直し、さっさと寝ることにした。


 あの飲み会から、僕とゆみちゃんとの関係はどんどん進展していき、反対にチョコの体調は悪化の一途を辿った。


 ゆみちゃんと初めてのデート。最近話題の映画を見たが、デート用におめかしをしたゆみちゃんが隣にいることを意識してしまい、映画の内容は一ミリも頭に入ってこなかった。僕が夢中なのは映画ではないということだ。ゆみちゃんとデートしているという事実にあからさまに感情が昂るのを感じていた。


「チョコの検査結果が出たんだけど、大きい病院で再検査する必要があるみたい。すごく心配です」


 メールには映画館を出た後に気づいたが、ゆみちゃんとのデートに夢中だった僕は、見たくないものに蓋をするかのように、スマートフォンをバッグの奥深くにしまった。母は心配性だから、どうせ大袈裟に言っているに違いない、と決めつけチョコのことは見て見ぬ振りをし、ゆみちゃんとのデートに勤しんだ。


 ゆみちゃんと二回目のデート。お洒落なカフェに行き、一緒にショッピングを楽しんだ。以前より仲も深まり、会話も弾む。それなのに、僕の心は盛り上がり切らなかった。原因は明白だ。


「チョコの最終的な検査結果が出ました。かなり進行した乳がんらしく、治るかどうかは分からない状態です。最悪の場合も考えられるので、もし時間に余裕ができたら、帰ってきてチョコに会って欲しいです。」


 そのメールは、家を出る直前に来て、ゆみちゃんとのデートに踊っていた僕の心に深い影を落とした。チョコの体調不良は、母の勘違いなどではなかった。進行した乳がんとのことだが、チョコはまだ十二歳だ。きっと治る。今までだって、何回か病気に罹ってきたが、元気になってきた。だから今回も、きっと大丈夫だ。そう無根拠に信じるには、あまりにも母のメールは不穏だった。

 最悪の場合とは、要するにそういうことだろう。少しだけ想像してみる。チョコがいない。チョコと会うことも、一緒に遊ぶことも、散歩することも、叶わない。だめだ、耐えられない。こんなの、耐えられるわけがない。想像した時間は十秒にも満たないが、心に穴が空いたような気持ちになり、涙が込み上げてくるのを感じた。

チョコに会いに、帰省したほうがいいのだろうか。絶対にそのほうがいいに決まっている。今にも、チョコの容体が急変するかもしれないんだぞ。

 しかし、無慈悲なことに最近は忙しく日程が合わない。大学はテスト期間に入ったし、そして何よりゆみちゃんとの関係もある。あと二週間もすれば夏休みになる。そしたら帰省しよう。この二週間でチョコが死ぬわけがない。無根拠な自信だった。

 それに、弱ったチョコに会ってしまったら、チョコが病気だという事実が、確かなものになってしまう。チョコが病気だというのは、母の嘘なのではないか。病気だとしても、母が大袈裟に伝えているだけなのではないか。僕はまだ、その可能性に縋っていたかったのだ。もうすぐそこまで来ている残酷な現実から目を背けて。


 ゆみちゃんと三回目のデート。僕は今日、ゆみちゃんに告白する。明日から夏休みなので、チョコに会いに行く。その前に、ゆみちゃんとの関係に、答えを出しておきたかった。母からは毎日チョコの写真が送られてくる。日に日に元気がなくなり、体につながるチューブの数が増える。そんなチョコの写真を見て、毎晩胸が締め付けられる思いで眠りについていた。そのせいもあって最近は寝不足が続いているし、好物のはずのチョコレートも、味がしない。それに心なしか今日は頭も痛い。それでも、僕は今日、ゆみちゃんに告白する。

 用意していたデートプランを全て消化し、後は夜景が綺麗なこの場所で告白するだけだ。ゆみちゃんは夜景を見つめて、「綺麗だね」と呟いている。その横顔は、目の前に広がる夜景が燻んで見えるほど、美しかった。やはり僕はこの子のことが好きなのだと確信し、なけなしの勇気を振り絞る。


「ゆみちゃん!大事な話があるんだけど......!」


ブーブーブー。


その時、スマホが鳴った。普段は電話がかかってくることなんて滅多にない。どうしてこのタイミングなんだよ、とイライラしながら、ポケットからスマホを取り出し、発信者を確認する。


母。


 その通話は母からだった。今までチョコにどんなことが起きても、電話はかかってこなかった。チョコの癌が他の場所に転移した時も、チョコが固形物を食べられなくなった時も、チョコが歩けなくなった時も、電話はかかってこなかったのに。チョコに何かあったに違いない。一気にいろいろな可能性が頭を駆け巡る。チョコの病気が治った?チョコが急に倒れた?チョコが余命宣告された?それとも、チョコはもう…...?

不安で胸が押しつぶされそうになりながら、恐る恐る電話に出た。


「もしもし…...」


 スマートフォンの向こうでは、母が泣いていた。数秒の沈黙の後、母は言葉を捻り出した。


「チョコが…...!チョコが......」


 一旦母を落ち着かせ、詳細を聞く。どうやら今チョコは、非常に危険な状態にあり、いつその命が燃え尽きてもおかしくないとのことだ。頭が真っ白になる。僕は今日、ゆみちゃんに告白するつもりだったのに。明日になったら帰省できるのに。明日までチョコが生きてくれれば、チョコに会えるのに。僕は一体どうすればいいんだろう。今から帰省するか?いや、ゆみちゃんを放っておくわけにはいかない。それに、今から帰っても間に合うかは…...。


「今日は、解散にしよっか」


「え、なんで?全然大丈夫だよ!」


 デート中に突然電話に出たから、怒ってしまったのだろうか。だとしたら早く謝らないと......。


「何かあったんでしょ。わかるよ。この前のデートも今日のデートも、心ここに在らずって感じだったし…...」


 ゆみちゃんには全てお見通しだったのか。デート中はチョコのことはなるべく顔に出さないように努めていた。デート中に他のことを考えているなんて、僕は最低の男だ。ゆみちゃんには愛想を尽かされてしまっただろう。そんなことを考えて狼狽えていると、ゆみちゃんはこっちに近づいてきて、僕の目を真っ直ぐ見る。


「ちゃんとケジメをつけてから、もう一回大事な話を聞かせて」


 衝撃が走った。そっか。僕が好きになった女の子は、こんなにも魅力的だったのだ。こんなに情けない僕を勇気づけてくれて、許してくれて。ゆみちゃんは待っていてくれる。だから行こう。チョコの元へ。


 一度家に帰っていたら終電に間に合わないから、そのまま新幹線に乗った。地元までは3時間ほどかかる。流れる車窓を眺めながら、チョコの無事を祈る。こんなにも新幹線が遅いと思ったのは初めてであった。頑張れ、チョコ。もうすぐ行くから。それまで、頑張れ。病気は辛くて苦しいだろうけど、今まで精一杯頑張っていたのは分かっているけれど、最後に僕のわがままを聞いて、もう少しだけ頑張って、チョコ。

 時速200キロ以上で進む新幹線の中で、僕は人目を憚らずに泣いていた。




「チョコの、家族です!」


 チョコがいる動物病院に着いた僕は、受付にそう伝え、病室に向かう。顔はもう涙でぐしゃぐしゃで、最寄り駅から病院まで走ってきたから息も絶え絶えだ。


「こちらが、チョコちゃんの病室です」


 そこに、チョコはいた。目はもうほとんど空いておらず、肋骨が浮き彫りになるほど痩せほそり、ベッドに横たわっている。無数のチューブに繋がれ、生きているのではなく生かされているその姿はあまりにも痛々しかった。


「チョコ、ただいま」


 チョコにかけ寄り前足を握りそう呟く。その言葉を聞けたのが嬉しかったのか、チョコが少し笑った気がした。


「ごめんな、帰るの遅くなって。大学が忙しくてさ…...。いや、これは言い訳だよな。授業でも単位でも捨てて、もっと早く帰って来ればよかったんだ。こんなになるまで、頑張って、辛かったよな、痛かったよな、辛い時にそばにいてやれなくて、本当にごめんな…...」


 チョコの姿からは、闘病生活の辛さが見て取れる。今のチョコを見ていると、大学やゆみちゃんのことを言い訳にして現実から目を背けていた僕が情けなくなって、チョコに謝罪ばかり口にしてしまう。涙で目を晴らした母が優しく僕の肩に手を置く。ハッとした。チョコが望んでいる言葉は、きっと謝罪ではない。

それから僕は、再びチョコに語りかけた。


「チョコが初めて家にやってきたのは、僕が小学生に入ったくらいの頃だったよな。最初は全然懐いてくれなくて、よく噛まれてたっけ。あれ、意外と痛かったんだぞ。それでも根気よく接するうちに段々懐いてくれてさ、よくソファで一緒に昼寝したよな。散歩もよく一緒に行ったし、旅行にも連れてった。それから、それから、それから…...。もう、語りきれないよ。チョコが来てからの生活は、本当に楽しい事ばかりだった......」


 チョコの息は今にも絶えてしまいそうだ。見た目の痛々しさとは裏腹に、大きな手術ができるくらいの麻酔をかけているからか、チョコの顔は非常に安らかだ。

 チョコを抱きしめる。その体は、少し力を込めれば折れてしまいそうな程に細い。僕は、子供のように泣きじゃくりながら、チョコに最後の言葉を紡いだ。


「チョコ、ありがとう。うちに来てくれて、癒しをくれて、幸せを分け与えてくれて、僕たちの家族になってくれて、今日まで生きていてくれて、生まれてきてくれて、本当に本当に本当に、ありがとう......!」


 それから、チョコは満足そうな顔で、ここではないどこか遠いところへ、旅立ってしまった。チョコの命は、僕の腕の中で溶けたのだ。


 後悔は、受験期にあまり遊んであげられなかったこと。忙しいことを言い訳にすぐに会いにこなかったこと。一番大変な闘病中に、そばにいてやれなかったこと。

 救いは、最後の瞬間に間に合ったこと。チョコが、安らかな顔で逝ったこと。

 チョコは、僕の親友であり、家族だった。十二歳という若さで星になった愛犬を、僕は何歳になっても、新しい家族ができても、忘れることはないだろう。

 今日のチョコレートは久しぶりに甘い。その甘さを刹那の幸せにしないように、口の中でゆっくりゆっくり、溶かしていった。


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