第一章:紫禁城の牡丹
大暦三十二年、春。
紫禁城の庭園には、赤く濃い牡丹が咲き乱れていた。
その中心に立つ少女は、紅と金の刺繍を施した衣をまとい、黒い髪を鳳凰の簪で留めている。
彼女の名は、蘇紅蓮。
宰相・蘇家の嫡女にして、皇帝の寵愛を一身に受ける「紅蓮姫」として、宮中で恐れられ、妬まれていた。
「紅蓮姫、また陛下の御前へ召されたと聞きましたわね……」
「あの年で、あの美しさ。まるで妖妃のようだ」
「先帝の妃たちさえ、彼女の前に立つことを恐れているというのに……」
耳を澄ませば、宮女たちの囁きが風に乗って届く。
しかし紅蓮は、そのすべてを聞き流していた。
彼女は、悪役としての役割を、自ら選んだのだから。
「紅蓮、参れ」
皇帝の呼び声が、御書房から響いた。
中に入ると、年老いた皇帝が、朱筆を手に文書に目を通している。
彼の横には、若き皇子・李暁が控えていた。
冷たい瞳を持つ青年。
彼は、紅蓮を見るなり、わずかに眉をひそめる。
「紅蓮、宰相の娘とあろう者が、先日、皇太后の御前で無礼を働いたと申すが?」
皇帝の声は穏やかだったが、その底には怒りが潜んでいた。
「はい。ですが、皇太后が母の名を辱められたため、我慢できず口を挟んだまでです。母は、ただの側室ではなく、父の正妻でした。その事実を、太后は意図的に隠そうとされました」
紅蓮は、膝をついたまま、顔を上げずに答える。
しかし、声には一切の震えもない。
皇帝はしばらく沈黙し、やがて笑った。
「お前は、いつもそうやって、正論で相手を黙らせる。だが、それがお前の災いとなるかもしれんぞ」
「ならば、災いを受け入れましょう。私は、真実を隠すことはできません」
その言葉に、皇子・暁の瞳が鋭く光る。
「宰相の娘にしては、生意気すぎる。宮廷は、正論で動くものではない」
紅蓮は、初めて顔を上げ、皇子を見据えた。
「では、何で動くのでしょう? 権力ですか? 策略ですか? それとも……憎しみですか?」
その場の空気が凍る。
皇帝は、ふと手を挙げて会話を打ち切った。
「よろしい。紅蓮、お前は三日間、自室に謹慎せよ。そして、皇太后には詫びの手紙を出せ」
「……承知いたしました」
紅蓮は静かに退出する。
背後で、皇子の声が聞こえた。
「あの女、いずれ国を乱す」