破片の届かないところから
昭和十七年。ニューギニア戦線。
焦土のような湿地に、田辺中尉の第七中隊は張りついていた。米軍の機関銃座は、密林の影に据えられ、進むたびに部下が一人、また一人と倒れていった。
田辺は憤っていた。
戦術ではない。兵器そのものが、戦術を殺している。
中隊には例によって九一式手榴弾が支給されていた。投げるには導火線をこすり、数秒数える。湿気で信管が湿り、爆ぜぬこともあれば、手元で爆ぜることもあった。
「これじゃ、制圧もできん……!」
彼はかつて陸軍士官学校で、密かに歩兵中隊における火力集中と分隊単位の突破戦術を研究していた。
米軍が用いるような手榴弾による制圧→突入→制圧の連続リズム。日本でも十分に応用できると確信していた。
ただし、それには即応性の高い撃針式の手榴弾が必要不可欠だった。
戦闘の合間に、田辺は泥にまみれた手でノートを開いた。そこには、戦訓をまとめたレポートと、九一式手榴弾の改良案が綴られていた。
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《抜粋:田辺中尉 戦訓報告書》
・九一式手榴弾は構造が旧式にして起爆に手間取り、戦術的即応性に欠く。
・撃針起爆式・安全レバー・成形破片の採用により、制圧力と安全性を確保すべし。
・歩兵中隊に小火力支援分隊を編成し、手榴弾によるピンポイント制圧を基軸に突破戦術を確立可能。
・以上、速やかなる兵器改善と戦術教範の修正を具申する。
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田辺はこの報告書を戦線司令部に送った。工兵上がりの将校や実戦経験者の中にはその合理性を称賛する者もいた。
が、東京から届いた返答はこうだった。
「九一式は現に支給されており、改善は不要。
諸官に求むは工夫と精神力なり。弾薬の使い方を見直すこと。」
彼は読みながら唇をかんだ。
その報告には、実際に中隊全滅のリスクを減らす戦術的根拠と、それを支えるための兵器改良の提案があった。にもかかわらず、それは一枚の紙の上で、すべて無に帰した。
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数日後の夜襲。
田辺中尉は、部下にこう言った。
「お前たちが投げる九一式は、信用するな。近づきすぎるな。失敗すれば死ぬぞ。いや、成功しても死ぬかもしれんがな」
笑う者はいなかった。
その夜、彼らは機関銃座を一つ潰した。四人が倒れ、田辺自身も腕に銃弾を受けた。
だが、彼は最後まで手榴弾を手に、塹壕へ突入した。
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《その後》
田辺中尉の報告書は、再び参謀本部の机に載ることはなかった。
彼は戦死扱いとなり、その名も提案も、やがて記録の中に埋もれた。
しかし、戦争末期になって日本軍がようやく「九九式手榴弾」を歩兵装備として配備し始めたとき、一部の将兵はこうつぶやいた。
「これが最初からあれば……田辺中尉は、生きていたかもしれん」