魔女の館
あれから二ヶ月が経った。
蘭は大学とバイトを往復する、以前と変わらぬ日々を送っていた。
少なくとも、そう思い込もうとしていた。
だが実際には。
「お帰りなさいませ。今日の夕食は鶏肉のグリルです。季節の野菜を添えて焼き上げましたよ」
こんな調子で、部屋のドアを開けるとギンレイが当然のように出迎える。
そして、蘭もそれを当然のように受け止めるようになっていた。
「今日は何を持ってきたの」
部屋に入りベッドの上に腰掛ければ、ギンレイが笑みを浮かべながら自慢の品を持ってくる。それがここ最近の日課にすらなっている。今日の遺物はどうやら筆記用具……羽ペンらしい。
「ええ、はい、今日は美しい字を書ける羽ペンでございます」
「へぇ。自動筆記ってこと? 例えば英文を読んでその訳を書いてくれるとか」
悔しいことにちょっとだけ興味が湧く。だが続くギンレイの言葉で期待は落胆に変わる。
「頭に浮かべた言葉を美しい文字で筆記しますが、翻訳機能はございませんので……ニーヒルが日本語を書けませんでしたから日本語も非対応となっております」
「そっかぁ」
ギンレイが手にしている、工芸品のような立派な羽ペンを見つめる。飾っておくだけならいいだろうが、蘭にとって実用性は皆無だ。どうにもこうにも痒い所に手が届かない。ニーヒルの生活と自分の生活がそれだけかけ離れていて、不便に感じることが違っているということでもあるのだろう。
「残念だけど、うん、それほど魅力的じゃないなぁ」
「左様ですか」
眉を下げたギンレイがすごすごと羽ペンをしまい込む。どういう手品か――魔法なのかは知らないが、両手に乗っていた大きな羽ペンはギンレイの胸ポケットに簡単に収納されていた。
そんなこんなで、蘭に魔女の生活の快適さをアピールするというギンレイの目的はさほど進捗のないまま約束の期限を迎えようとしている。
「蘭。提案なのですが」
「ん?」
「一度、工房に行ってみませんか」
「工房って……ニーヒルが暮らしていた?」
「ええ、はい」
「二ヶ月で説得できなかったら諦めるって話だろ」
「まだあと一週間ございます。持ち込めなかった遺物がまだ工房に残されておりますし、何より遺物とはその場で使ってみてこそのものでしょう。一度、体験なさってもよいのでは」
今度は蘭が眉を下げる方だった。
バイトがあるから、夏休みはぎっしりバイトを入れて家を空けるつもりだから。昨日までならそう言って断っていただろう。だが今はその理由が使えない。
『施設水漏れのため臨時休業』
先ほど見てきたバイト先店舗の店先に貼られた張り紙を思い起こす。
店長からは、保険が下りたらバイト代の補填はするが一ヶ月以上休業になるのでその間は無給ですごめんなさい、というひどく憔悴したメールが届いていた。店長を責めても仕方がないが、ぽっかり空いた予定と失われた一ヶ月分の生活費に気が遠くなったものだ。
「何か……作為すら感じる……」
だが、考えようによってはチャンスではある。工房に向かった先での生活費を負担してもらえるなら、その期間は自分の懐を痛めなくて済む。
「……旅費、行程、向こうでの生活費、移動方法。それによって検討する」
ひどく打算的な気持ちから問いかけた言葉に、ギンレイはいかにも当然といった笑顔で、間を置かずに返答する。
「もちろん旅費も当面の生活費も私が負担します。工房は何分深い森にございますが、国にさえ入ればどうとでも。ええ、かの国までは普通に飛行機で移動していただきますが」
「そこは遺物でなんとかしないのかよ!」
「ニーヒルはあまり移動を好みませんでしたので、ええ。それに伴う遺物は残しておらず……」
深い溜息をつく。とはいえ、魔法の箒に跨がって飛んでいただきます、なんて言われたら流石に却下していた。飛行機での移動ならある意味安全で安心だ。少なくとも生身で空を飛ぶよりはずっと。
「アンタは? 一緒に飛行機か?」
「ぱすぽーと、でしたか、ああいったものがありませんので私は先に戻ってお出迎えいたします」
「やっぱり変なところで律儀だな」
まぁ、旅費を負担してくれるならそう悪い話でもないかもしれない。海外旅行など行ったこともないのだ。行くかもしれないと高校時代に取らされたパスポートもまだ生きているだろう。
「行ってすぐ帰るからな」
「ええ、はい。期限の一週間でお帰りいただいて結構です。それでご納得頂けなければ、今後私は付きまとうこともありません」
「ちょっと待て、帰りは自力で、とか言うつもりじゃないだろうな?」
「空港まではお送りしますし往復きちんと手配いたしますよ」
よし。懸念点は潰せた。
「分かった。出発は?」
「明日にでも」
「はぁ? 飛行機ってそんなすぐに取れるもんか?」
「伝手がございますので」
魔女の関係者が何故そんな伝手を、と思ったが、結局それ以上突っ込むのはやめた。多分、聞いてもあまり面白い話ではなさそうだ。それにこいつの事情に深入りするとそれだけ自分がそちら側になってしまうような気がする。
「では私は支度をして参ります。明日の朝、九時にお迎えに上がります」
ギンレイはそう言っていつものように美しい角度でお辞儀をしたまますっと姿を消した。暫くその空間を眺めていた蘭は、気を取り直して立ち上がる。
「……着替えぐらいは準備するか」
クローゼットの中にはギンレイが綺麗に畳んで収納してくれた服が並んでいた。何の疑問もなくそれに手を伸ばしていた蘭は、突然我に返る。
「何か、この生活に慣れ始めてやばいな、俺」
毒されているし絆されているし生活に入り込まれている。そろそろ本気で考えなければいけない。そう気を引き締めたのだが――。
「お待ちしておりました」
慣れない国際線での移動と入国手続きを済ませ、空港を出たところでギンレイを見つけた時に、蘭は不覚にも安堵してしまった。毒されているから気を引き締めなければ、といった翌日にはこれだ。状況が特殊だからと自分に言い訳をするが、誰にも届かないその言い訳はひどくむなしく響いた。
「ここからは車での移動になります」
頭を垂れる蘭にお構いなしにギンレイは話を進めていく。
「タクシーとか?」
「いえ、私が運転します」
それ大丈夫なのか、と言いかけた言葉をすんでの所で飲み込む。ここまで来て放り出されたらそれこそどうしようもない。
こうなったら乗りかかった船だ。腹をくくった蘭は、空港前に止められていた艶やかな黒いセダンの後部座席に身を滑り込ませる。それを見届けてからギンレイは迷いのない動作で運転席に座り、車を発進させた。
「暫しかかります。寝ていても構いませんよ」
「うん……」
あくびをかみ殺しながら窓の外を見る。時差ボケ、というやつだろうか。意識が混濁している……というか、眠い。ものすごく眠い。
空港から十分も走ればもう街から離れていた。道路の周囲を背の高い、見慣れない木々が覆っている。霧がかった空気が世界の全てを曖昧に包み込んでいるようだった。変化と色彩に乏しい山の風景を見ながら、蘭はいつの間にか意識を夢の中に落としてしまっていた。
「着きましたよ」
「ん、ん」
ギンレイに揺り起こされ、眠い目をこすりながら車外に出る。その瞬間、蘭の意識は完全に覚醒した。
空気の味が、違う。
文字通り味が違うのだ。肺を満たす空気は冷たく、これまで嗅いだことのないほど濃密な木々の気配を含んでいた。松脂だろうか。清涼感のある、少し薬草っぽい香りが満ちている。排ガスや黄砂や花粉といった煩わしいものが混ざらない空気は、思わず深呼吸を繰り返したくなるほど美味しかった。
「ここから先は道が細いので、申し訳ありませんが徒歩となります」
「どれぐらい?」
「十五分程度でしょうか」
荷物はギンレイが既に抱えていた。取り戻そうと手を伸ばしたが、微笑みを浮かべた顔でがっちり抱え込んでいるギンレイから奪うのは骨が折れそうだ。たいした物も入っていないので、そのまま持ってもらうことにする。
森は静かだった。時折遠くで鳥が羽ばたく羽音が聞こえるが、それ以外に音がない。自分の呼吸の音すら、周囲に満ちる霧に吸い込まれているようだ。
「歩くのは苦じゃなかったんだな、ニーヒルって」
車で移動するにしても十五分の道のりを歩く必要がある。快適に過ごすならそれこそその間を移動する道具でも作っても良さそうなのに、そういったものは作らなかったようだ。
「というより、もとより出不精でそれほど出歩くことがなかっただけです。あまり派手に動くと目立ちますので」
「成程」
蘭は柔らかい土の地面を踏みしめながら考えを巡らせる。
周囲に人の気配はない。他の民家も、何かの店も全く見当たらない。人里からは離れているようだ。こんなところに住んでいたのだ、やはり人目に付きたくなかったのだろう。
足元には茶色く変色した無数の針のような葉が堆積し、踏みしめるたびに乾いた軽い音と微かな弾力が伝わってくる。湿度とは違う濡れた空気が肌を冷たく撫でていく。
「ギンレイはニーヒルと二人で暮らしてたのか?」
「身の回りの世話をする側仕えとしては、ええ。あと一人いましたが、あれはどちらかと言えば話し相手と、いざというときの護衛、でしょうか。あとは、時折他の魔女が顔を出しに」
「へぇ。群れて暮らしたりはしないんだ。魔女同士で助け合ったり、とか」
ギンレイは小さく首を振った。
「魔女とは基本、孤独なものです。ニーヒルを尋ねてきていたあの魔女が特殊だったのでしょう。我々も、他にどんな魔女がどこに住んでいるのか、殆ど把握はしていません。魔女同士であれば分かることもありましょうが」
「そうなんだ」
出歩くことも少なく、他から訪れる者もいない。孤独な暮らしに思いを馳せる。
「……ま、俺の暮らしもそんなに変わらないか」
あんなに街に人がいるのに、蘭はずっと寄る辺ない気持ちのままだった。止まり木を見失った渡り鳥のような、足下のおぼつかない思いを抱いていた。であれば、暮らす場所がここでも街中でも、さしたる違いはないのかもしれない。
「見えました。あちらです」
妙に感傷的な気持ちになり黙りこくっていた蘭を気遣うようなタイミングでギンレイが声をかけてきた。蘭は立ち止まり、ギンレイが指さす先に視線を向ける。
「お、おおお……」
白い石造りの館がそこにあった。人が住んでいないとは思えない程に手入れの行き届いた壁は美しい白さを保っている。館の左手には円柱のように湾曲した部分があり、その上には朱色の瓦に覆われたとんがり屋根が乗っていた。右手の平坦な部分に比べたら一段高くなっているから、屋根裏部屋があるのかもしれない。
深い緑の森の中にあって、その館の白と朱のコントラストは、鮮烈に映えた。
「ジ○リじゃん!」
「じぶり、ですか?」
「ああごめん、何でもない。童話とか絵本とかそういうアレだなって」
ギンレイに揺り起こされるまで、蘭は一度も目を覚まさなかった。だから、実は寝ている間にどこか異世界に連れてこられたのだと言われたら、そのままその言葉を信じたかもしれない。それほどまでに眼前に広がる風景は現実離れしていた。扉を開けたらとんがり帽子の妖精でも飛び出してきそうだ。
館に向かって十メートルほど進んだところで、蘭は突然足を止めた。
「ギンレイ、あれは?」
それまでの清冽な空気とは不釣り合いな、濃密で甘い花の香りがしたのだ。顔を巡らせ出所を探ると、一目で場違いだと分かる花が咲いたガラス張りの建物が目に入った。
「ああ、あれですか。ニーヒルの管理していた温室ですよ。薬草を育てていました」
「……薬草にしてはあの花は派手じゃない?」
温室の中には所狭しと派手な花が咲き誇っている。どれもこれも南国の島国に咲いていそうな鮮やかな朱や黄色、オレンジをしていて、薬草と言われて思いつくものとは相当かけ離れていた。
「あれはニーヒルの趣味ですね。大ぶりで香りのいい花を好んでいたので」
「趣味かぁ」
孤独が高じて園芸に走ったのだろう。まぁでも確かに、悪くはない。ここの空気は澄んでいて心地いいが、ずっと同じだと飽きが来るのかもしれない。出不精だったと言うからなおのことだ。変化を求めれば花の栽培に行き着くのも自明の理、というやつだ。
「後で見に行ってもいい?」
「構いませんが、あそこは私の管理外です。案内は出来かねます」
「危険……あったりする?」
「ない、と思いますが」
ギンレイが珍しく眉を下げて言い淀んだので、蘭は頭を振って言葉を取り消した。
「やめとくよ。アンタも把握してないんじゃ危なくて近寄れない」
「それが賢明です」
どこかほっとしたようにそう言うギンレイに、蘭は肩をすくめて見せた。
木製の扉を押し開き、館に足を踏み入れる。蘭が一歩踏み入れた瞬間、壁に掛けられたランプが独りでに点灯し、中の蝋燭が歓迎するかのように炎を揺らした。
「うわ、勝手に付いた」
「こういったものはそちらには?」
いかにも得意げな顔を浮かべてギンレイが顔をのぞき込んでくる。
「あるよ! うちにはなかったけど人感式の照明とか珍しくもないよ! 蝋燭が勝手に付いたからびっくりしただけだ!」
「そうですか」
やけにすんなりと引き下がったな、と思いつつ部屋の中を進む。誰も住んでいない筈の館の中は塵一つない。閉ざされていた空間特有の埃っぽさも黴臭さもなかった。まるでつい最近まで誰か暮らしていたかのようだ。
「お帰りなさいませニーヒルさま!」
「お帰りなさいませ!」
パタパタと音を立てて奥から何かが飛び込んできた。蘭の足下に、ふさふさで柔らかい手触りの箒、のようなものが纏わり付いてくる。
「お前達、このお方はニーヒルではありませんよ」
「でも同じ匂い!」
「同じカタチ!」
くるくると足下を回る二本の手箒は口々にそう言って蘭の足にすがりついてくる。いや、そう感じただけで、実際は手足はないから毛先が足下に纏わり付いていただけなのだが。
「俺、ニーヒルに似てるの?」
「いえ姿は全く。ですが、我々にとって姿形はさほど重要ではありません。魂の形が同じならば、遺物達にとって貴方様はまごうことなくニーヒルなのですよ」
「そっかぁ」
瓜二つです、と言われた方が幾分気が楽だった。顔が似てるなら見間違っても仕方ないよね、と言い訳も出来た。だが、魂の形と来たか。言い逃れが出来ないじゃないか。
「……本当に、ニーヒルは俺の」
父親? 母親? オリジナル? どれもしっくりこなくて言い淀む。
「長旅でお疲れでしょう。一服なさったらどうです? そちらの奥に談話室がありますので」
「……そうだな。そうする」
「紅茶かコーヒー、どちらになさいますか?」
「ニーヒルはどっちが好きだった?」
「どちらかと言えば紅茶を好まれましたね」
知らず、安堵の息を吐く。自分の選択がニーヒルと違っていてよかった、と思ったのか。それとも、その影を気にしている自分に気づいてしまったからか。
何に対する安堵なのか、蘭は自覚できなかった。
「じゃ、コーヒー。ブラックでいいや」
「承知しました。ちなみに」
ギンレイは少し悪い顔で笑う。嫌な予感がする。が、止める前にギンレイが言葉を続けていた。
「ニーヒルは紅茶をストレートで飲んでいましたよ」
「くそっやっぱりそう来るか!」
砂糖たっぷりジャムたっぷりのミルクティでも飲んでおけよ! と、無茶なこと思う。だが、その叫びでどこか気が楽になったのは確かだった。過剰に気にしても仕方ない。蘭は諦めてギンレイに背を向けると、玄関ロビーを左に曲がって廊下を進んでいった。
突き当たりにはギンレイの言う談話室があった。湾曲した白い壁に広く窓が取られており、部屋の中は蝋燭がなくても十分明るかった。おそらくこの場所が外から見たあの円柱に当たる場所なのだろう。見上げると、部屋の上にロフトのような、屋根裏のようなものが見える。
視線を部屋に戻し、ぐるりと見渡してみた。
部屋に置かれた書棚にはまばらに本が入れられている。蘭には馴染みのない言語でそれが何なのかは把握できない。
書棚の側の机には羽ペンとインク壺が置かれている。
そして机の傍らには、軋む音さえ古びた、調度品のような椅子が一脚、ぽつんと置かれていた。
「おや、魔女の卵のお帰りだ」
「魔女の卵?」
ギンレイとは違う、しわがれた男の声がした。部屋を見渡し声の主を探すが、人影は見当たらない。ならばおそらく家具のどれかなのだろう。
「こちらだよ、魔女の卵。椅子だ。どうぞ遠慮なく座るといい」
声の主らしき椅子の脚先は弓形になっており、声に合わせて微かに揺れている。
「ロッキングチェア……?」
「おや、人の世ではそう呼び名が付いたのか。大丈夫、古びているがまだまだ壊れやしないよ」
声に導かれるように蘭はそっと椅子に腰掛ける。高い背もたれは背中に沿って身体を支え、クッションのないはずの座面は柔らかく臀部を包み込んだ。やがて椅子はゆっくりと揺れ始める。
「おかえり、と言わせておくれ、魔女の卵。主を再び乗せられて私は幸せだ」
「アンタも魔女の遺物ってヤツ?」
「ああ。もう三百年ほどになるか。ニーヒルが揺り籠に入りたいと駄々をこねて、私をこういう形に改造してね」
前後に揺れる椅子は成程、確かに揺り籠のような心地よさだった。揺り籠に入った記憶はなくても、何というか、本能的に安心できるような雰囲気がある。
「魔女の心臓を受け取りに来たのだろう? 魔女の卵」
「魔女の心臓?」
「ああ、そうだ。魔女は心臓を受け継いで初めて魔女になる。ニーヒルは君にそれを渡しそびれてしまっただろう。この工房にある。場所までは、残念ながら私には分からないがね」
「……まだ魔女になるって決めたわけじゃないよ」
僅かな罪悪感とともにそう吐き出す蘭に、ロッキングチェアは優しい笑い声を上げた。
「そうか、そうか。まぁいいさ。私は再び主を寛がせたことで満足さ。もう二度と相まみえないと諦めていたからね」
「俺は魔女じゃないしアンタの主でもないよ」
「いいや、いいや。君は魔女だ。魂が同じだ。ならば私にとっては主だとも」
「……二度と会えないっていうのは」
使い込まれた、滑らかな手触りの肘掛けを撫でながら蘭は問いかける。聞かなくても、蘭は答えを知っている気がした。
「魔女の遺物は遺物のままでは長持ちしない。そう。私は直に自壊する。けれども、そう、もう一度だけ主に寛いで欲しかったのさ。ああ、満足だとも」
「それは、俺が魔女を継がなかったから?」
「そうだ。だがいいや、いいや、気にしなくていい。そもそも寿命だろう。十分に生きた」
「俺が魔女を継いだら、アンタも長生きするのか?」
「そうさな、魔女から生きろと言われれば、生きるものだよ。魔女の道具は魔女のためにあるのだから。私のような老いぼれでも、ああ、もう一周ぐらいは付き従えるだろうさ」
蘭は唇を噛んで黙りこくる。
薄々自覚していた。この館は居心地がいい。呼吸が楽だ。空気の清浄さ、森の静けさ、それだけではない。あの独りで住む家で感じていた疎外感や閉塞感がここにはない。
はっきり言ってあの街に未練はない。友達と呼べるものは終ぞ作れなかった。親もいない。当然だ、親なんて最初からいなかった。育ててくれた人はいるが、どこか距離を感じ続けていた。それが一方的なものだったとしても、何もかもを打ち明けられる関係でない、というのは結局の所同じだった。
――魔女になれば、ここで暮らせるのか。
一瞬でもその選択肢が脳裏に浮かぶ。
「ここで暮らすのも――」
「お待たせしました。コーヒーです。おや、椅子を見つけましたか。それはニーヒルのお気に入りでしたよ」
ギンレイの言葉に蘭は慌てて口をつぐむ。聞かれていなかっただろうか、と顔色を窺うが、ギンレイは相変わらず何を考えているのか分からない端正な顔で微笑むだけだった。
「座り心地いいな、これ。持って帰りたいぐらいだ」
「ははは。残念だ。きっと私は移動には耐えられない。工房から出ればきっと、壊れてしまうだろう」
「そっか」
「貴方がこちらで暮らす方が早いのでは?」
「それとこれは別だ」
蘭がコーヒーを飲もうと手を伸ばした瞬間、椅子は静かに揺れるのをやめた。不安定な脚が付いているとは思えない程に、安定して停止している。
「止まれるんだな」
「主のためなら、踏ん張るさ」
もう一度肘掛けを撫でてから、蘭はテーブルに置かれたカップを手に取った。
コーヒーカップからは香ばしい香りが立ち上っている。香りに誘われるように口に含む。
「……美味しいな」
苦みが強く重たい口触りは、これまでに飲んだどんなコーヒーも敵わない。そう思うほど美味しかった。
好みを調べられたのか、あるいはニーヒルもこの味を好んでいたのか。恐ろしくて、それを問いただすことは出来なかった。
「夕食を支度して参ります。それまでどうぞ、ご自由に探索を。館の中には危険はありません」
「分かった」
ギンレイに手を振ってその背中を見送った蘭は、コーヒーを飲みきって立ち上がる。振り返り、椅子の背もたれをゆっくり撫でると、椅子は独りでに揺れた。
「とりあえず、ちょっと散策してくる。俺は一週間ぐらいはここにいるからさ、それまでは壊れずに頑張ってよ」
「そうか、そうか。では、せめてその間は、耐えるとしよう」
椅子に笑いかけて蘭は談話室を後にした。
館は蘭を歓迎しているようだった。進もうと思う方向のランプが自動的に点り、足下を照らす。現れる遺物はどれもこれも親しげに蘭に挨拶し、纏わり付き、口々にお帰り、と言っていた。
そういった遺物に挨拶を返しながら当てもなく歩いていた蘭は、やがて館の最奥らしき扉にたどり着いていた。他の場所と違って、そこはしん――と静まりかえっている。
好奇心のままに、蘭はその扉を押し開いた。
まず目に入ったのは、壁を埋め尽くす書棚だった。ぎっしりと背の高い本が詰め込まれている。革の装丁に金属で装飾された重厚な本、黄色く分厚い、革のような紙を束ねただけの乱雑なメモ、表紙と中身が和紙で作られたらしいものまである。
その隣には実験道具らしきものが並べられた棚があった。液体を入れておくガラス器具、蒸留のための装置、何かを煮出すための鍋や、それを濾す茶漉しのようなものが整然と並べられている。どれも古びているが、丁寧に磨き上げた状態でしまい込まれていた。同じ棚に、読めない文字でラベリングされた茶色や深い緑の瓶も並べてある。
「遮光のため、だっけ。理科室で見たことあるな、こういう瓶」
危ないので手は触れないようにその棚を見つめる。
部屋の中央に置かれた大きな木製の机は、刻まれた傷や変色具合から相当年季が入っていることがうかがえた。何かが長期間置かれていただろう痕が残されている。今は棚にしまわれている道具達はここで使われていたのだろう。もう使うことはないと、しまい込んだのかもしれない。
天井を見上げると、植物の標本や天体模型、何に使うのかよく分からない機械なんかがいくつもぶら下がっている。他の道具が片付けられていることから、これらはここが定位置なのだろう。
「おお……」
あまりにも想像通りにいかにもな魔女の工房に、間抜けな声を上げる。
だが、違和感に気付いた蘭は思わず閉口した。
静かだ。あまりにも。誰の声もしない。
館に入った瞬間、手箒が歓迎してくれた。談話室では入った瞬間にロッキングチェアが話しかけてきた。客間ではカーテンまでも語りかけてきたのだ。
だというのに、この部屋からは誰の声もしない。
「遺物が、ない?」
そんなことがあり得るだろうか? ここは一見しただけでも魔女の工房、いわば心臓部だ。そんな大事な場所にニーヒルが遺物を置かないとは考えづらかった。
「ここで長い時間を過ごしてたはずなのに」
そしてもう一つ。蘭はこの部屋から、妙な拒絶感を覚えていた。他の部屋では感じたことのないものだ。よそ者、と言われているような感覚がある。
「俺が、魔女じゃないから?」
魔女の工房に魔女じゃないものが足を踏み入れたら、そりゃ残されたものとしては気分がよくないのかもしれない。答えはなかった。だが、あまり長居はしない方が良さそうだ。
踵を返そうとした蘭の目に、不意に奇妙な枠が飛び込んできた。
館の壁は石造りだが床は全て木目だった。それはこの工房も同じだ。その床の一部に、奇妙な枠がある。
「いや、いかにもだろ、これ」
開けろと言わんばかりに縁取られた床の一部に近付いてしゃがみ込む。触れる前に、取っ手が独りでにひっくり返って金具を露出する。指をかけようと手を伸ばすだけで、床の一部だった扉が持ち上がった。
覗き込んでみると、扉の奥には石造りの階段が長く続いていた。
「……歓迎されてるのか誘い込まれてるのかどっちだろうな、これ」
ギンレイは、館の中に危険はない、と言っていた。なら、降りても問題はないだろう。好奇心に負けて蘭は冷たい階段を一つずつ下っていった。
階段の壁に設置された疎らな蝋燭は、蘭が階下へ近付くたびに一つずつ明かりが点される。それは他の部屋と同じだった。
「これはまた、随分と厳重だなぁ」
下りきった先にあったのは、他の部屋とは違う重厚な金属の扉だった。鍵はかかっていないようだ。
「重っ」
堪らずそんな間抜けな叫び声を上げながら、なんとか扉を押し開く。
扉の先には雑然と様々な道具が押し込まれていた。これまでの部屋は塵一つないほど清潔に手入れされていたというのに、この地下室は埃にまみれ、黴臭い空気に満ちている。
「これは……倉庫か?」
「……何をしに来た」
「え――?」
声がすると思ってもみなかったところで唐突にかけられた言葉に、蘭の身体がぎくりと強ばる。恐る恐る首を巡らせ周囲を探ると、暗闇の奥で、古ぼけたオイルランプの灯が揺れていた。
「何故お前がここにいる。何をしに来た。ここはお前のようなものが来る場所ではない。誰がお前を招き入れた?」
「えっと、アンタは、その、ランプ、か?」
「まだ継承は終わっていないようだな。なら都合がいい。さっさと帰れ。一刻も早く立ち去れ。ここはお前のようなものが来るべき場所ではない」
蘭の問いかけに答えることなく、その何かは一方的に言い切った。
「この倉庫のことか?」
「違う。この屋敷だ。この館だ。帰れ。お前のあるべき場所に」
とりつく島もない。あまりに一方的な物言いに反感を覚えながらも、蘭はその言葉の裏に何か切実なものを感じ取った。
「それは、どう言う――」
けれど、蘭のその問いかけは最後まで発されることはなかった。




