表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/13

郷愁

 ■月■日

 国王陛下より、他国へ侵略する計画を聞いた。

 蘭により潤った国庫を活用し、今の勢いを盤石なものにするため、隣国に戦争を仕掛けるつもりだ、と。そんなことをしなくてもこの国の地位は揺るがない。病の治療も、宮廷の庭園も、音楽も絵画も、他国の追随を許さないほどになっている。陛下は、一体何が不安なのだろう。

 だが、僕の言葉は陛下には響かなかったようだ。近々、軍隊を立ち上げると言う。何とか思いとどまって欲しいが……。



「おっと、いきなりきな臭くなったぞ」

 数年は平穏な日々を綴った日記だったのに、唐突にこんな言葉が短く綴られていた。ついに来たか、と暗澹たる気分になる。

 それでもそこから数ページはまだ平和な言葉が綴られていた。不穏な空気はあれど、本格的に動くでもなく、本気で侵略を計画している様子も見られない。結末を知っている蘭からすれば胃が痛い話だが、決定的な出来事は起こっていないようだ。



 □月○日

 先日の侵略の話以降、あまりいい話題がなかったが、今日は特別だ! 王妃がご懐妊なさった! まだ皆には内緒、と言われたが、これほど嬉しいことはない。

 知っているのは王妃付の医者と一番近い侍女、それと僕だけらしい。あぁ、本当なら今すぐにでも街に出て国中に喧伝して回りたい! だが、無事に出産を終えられるまで滅多なことは言えない。うれしさは僕の胸にだけとどめておかなければ。

 ああ、だけどじっとなどしていられるものか。王妃は僕に、次に生まれるであろう姫の名付け親になって欲しいと、そう仰ったのだ。この僕が! この国の姫の名付け親に!

 これから毎日、名前を考えなければ。祝福に満ちた、あの素晴らしい王妃の御息女に相応しい名前を。


 □月△日

 あれから毎日名前を考えている。王妃に似てきっと美しい姫になる。なら、美しい響きの名がいいだろう。エリザベータ、カタリーナ、イザベラ……うーん、どれもしっくりこない。

 ご出産まで時間はある、もう少しゆっくり考えよう。


 ◆月△日

 陛下が王妃のご懐妊を知らされたそうだ。それはそれはお喜びで、僕も嬉しくなってしまう。だが、先に知らされていたことについてだけは嫌味を言われた。身体に触る薬や飲み物を出さないように先んじて知らされていたのだ、と言い訳をしたら納得してもらえたようだが、ちょっとだけ肝が冷えた。

 王妃のためにも、生まれてくる姫のためにも、国力をより一層強めなければ、と言っていたのだけが不安だ。諦めてくれたと思っていたのに、やはり戦争をするつもりなのだろうか。この美しい庭を踏み荒らすつもりなのだろうか……。



「あーうん、諦めたわけじゃなかったんだよなぁ」

 ニーヒルの知らないところで着々と戦争の準備は進んでいたようだ。ニーヒルは政治には疎そうだし、そういった話を聞かされる立場でもなかったのだろう。宮廷仕えとはいえ一介の魔女だ。重用されているからと言って何でも知らされるような間柄ではなかった。それが明らかになって読んでるこちらも気分が沈んでしまう。



 ◇月▽日

 王妃のお腹が随分大きくなってきた。宮廷内の侍女達にも流石に知らされたようで、少し浮かれた空気が漂っている。

 名前はまだ決められない。マルガリータ、アンナ……ヴィオランテはどうだろう? 王妃は蘭よりもスミレを好んでいたから、いいかもしれない。


 ○月■日

 とうとう恐れていたことが起こった。

 陛下は僕に、殺戮兵器を造れと命じた。専門は薬草学だから兵器は造れないといくら言っても聞き入れてもらえなかった。あの温室を造る技術があれば兵器の一つも造れるだろうと。

 陛下は、視野が狭まっている。侵略し、占領すれば、この国がもっと豊かになると思っている。だが本当にそうだろうか? 他国を踏み荒らし荒廃させたら、この国の国庫を支えている僕の蘭を、一体誰が買ってくれるというのだろう?


 ▲月●日

 銃を応用すれば兵器が作れるのではないかと考え、それらしいものを作ってみた。それなりの火力が出るだろう。どの程度の物になるのかは不透明だ。僕の魔力を安全装置にしておこう。陛下にお渡しする時に解除すれば問題ない。完成までに気が変わってくれればいいが、引き延ばすのも限界がありそうだ。


 ●月×日

 ベアトリス。うん。ベアトリスがいいんじゃないかな。姫君の名前だ。幸福をもたらす者。この国を幸福に導いてくれる姫君にぴったりだ。

 ああだけど、間に合うだろうか。陛下に命じられた兵器はじきに完成する。完成してしまう。これを陛下に渡せば、翌日にでも陛下は侵略を開始するだろう。この国は戦火に飲まれる。それまでに王妃が無事出産され、名前を伝えられたらいいのだけれど。



「ベアトリス!? え、あの、ベアトリスって、剣の……?」

 偶然だろうか。いや、無関係とは思えない。タイミング的にも、おそらくベアトリスを遺物にしたのはこのすぐ後のことだ。嫌な予感が胸によぎる。

 蘭は震える手でページをめくった。



 △月▽日

 ごめん、ごめんなさい、裏切り者と呼ばれても、駄目だ。これは駄目だ。こんなものを人の手に渡すわけにいかない。これは隣国を焼くだろう。街も森も畑も全て焦土に出来るだろう。だけど、そんなことをして何になる? 人の営みを焼き払って、その後に一体何が残る? それに、これを魔女が造ったと他国の人間が知れば、他の魔女に対抗する兵器を造らせるだろう。僕より火薬に秀でた魔女が造れば、こんな玩具みたいなものじゃなく、それこそ世界を焼き尽くす物だって造れてしまう。

 一度魔女の叡智が戦争に使われたら、あとはもう泥仕合にしかならない。魔女の力は、叡智は、そんなことのためにあるんじゃない。魔女の力をそんなことに使わせては駄目だ。


 外にトツカが迎えに来てくれている。僕は今晩ここを発つ。温室は諦めなければならないが、全ての種は持って行く。願わくば、次に辿り着く場所で再び温室を立てられることを祈ろう。

 陛下、僕を取り立てていただいて感謝しています。これまでの生活に感謝します。研究に打ち込める環境を作り、僕の咲かせた花を売り、庭園を自由にさせてくれて感謝しています。だけど、ごめんなさい。僕は貴方を裏切ります。これだけは、絶対に貴方に渡せない。

 ああ、王妃様、やはり名前をお伝えできなかった。どうか、どうか、どうか、無事にご出産を終えられますよう。そして、どうかこれからも心安らかに暮らされますよう。僕のような裏切り者のことなど忘れて、幸せに暮らせますよう。

 王子。身体の弱い貴方に薬を残します。熱病に打ち勝ってここまで育った貴方なら、きっとこの国を良い場所に導けるはずです。どうか、どうか、愚かな戦争を止めてください。


 さようなら、皆さん。さようなら。

 僕を愛してくれてありがとう、愛おしい人間達。




 所々、これまでは見られなかったインクの滲みがある。理由を言うのは野暮だろう。喉が詰まる。上を向いて必死に涙を堪える。

 知っていたはずだ。ニーヒルの結末を、この生活が続かないことを。それでも、こうやって文章として読んでしまうと胸に来るものがあった。幸せな生活を捨てて、人との関わりを捨てて、出奔しなければならなかったニーヒルのことを思うと痛ましくて仕方がない。

「戦争なんかなんでやったんだよばーか!!」

 後からなら何とでも言える。分かっている。後出しであれこれ言うのは卑怯者のすることだ。だが自分には、ニーヒルをここまで追い詰め、全てを失わせた国王に文句の一つも言う資格があるはずだ。

 暫く目頭を押さえ込んで涙を堪えた蘭は、頭を振って手帳を見た。日記にはまだ続きがある。もう少し先まで見届けよう。喉の奥の震えが止まらないまま、蘭は更にページをめくった。



 □月■日

 トツカの手引きで海を越え、大陸を出て島国に来た。人の手の及んでいない森の奥に館を建てた。暫くはここで人目を避けて暮らそうと思う。

 あれは恐ろしくて、封印の小箱に入れて地下の倉庫にしまい込んだ。見たくもない。

 外では魔女狩りが始まったと聞く。僕のせいかもしれない。兵器を持ったまま逃げてしまったから。



 次の日記は随分日付が飛んでいた。震える字で、短くそれだけ書かれている。

「魔女狩り……ベアトリスが言っていた迫害ってこれのことか」

 ニーヒルがどんな容姿だったにしろ、おそらく姿を変えることは難しくなかっただろう。だから外見でニーヒルを見つけ出すのは難しかった筈だ。なら、兵器を持ってそうな怪しい奴、すなわち魔女を全て狩ってしまえ、という考えに至った。

「視野が狭まってるってニーヒルも書いてたけど、相当だなこれ」

 結果的にこの事件を機に魔女は人間の社会から遠ざかっていった。得られるはずだった知恵や知識を遠ざけたのは人間の行いだった、というのが、皮肉というか何というか。寓話めいた話だ。



 ×月△日

 トツカが旧い剣を持ってきた。魔女狩りが攻めてきた時のために護身用の剣を造れという。刀身はトツカが修繕したようだ。身の回りのことをさせる護衛として、ヒトガタを造る魔法を教えてくれるという。

 生き延びてどうするって言うんだ。

 ……でも、そうだな。話し相手になるなら人の形にするのも悪くないかもしれない。口のきける道具を増やしたけど、やっぱり人と話したい。


 ×月●日

 トツカの手を借りて剣に命を吹き込んだ。トツカの魔法で、人の形と剣の形を自由に行き来できるようになっている。すごい。他の魔女の魔法を見る機会なんてないから感動してしまった。トツカにしてみれば研鑽の末の神秘はこれじゃないから見せても問題ないと言うが、本当だろうか。

 剣には銘があるものだ、と言われた。何も思いつかない。だけど、そうだな、あの名前を送ろうか。王妃に終ぞお伝えできなかった、あの名前を



「……やっぱり、そうだったのか」

 魔剣ベアトリス。その名前は、あの幸福な宮廷での暮らしの名残だったのだ。その名前を忘れたくなくて剣に付けたのだ。もう二度と戻れないと分かっていても。



 ×月■日

 最近、トツカが頻繁に顔を見せてくれる。話し相手がいるのはやはり心が安らぐ。あの暗い工房に通すわけにもいかないし、玄関のそばに談話室を造ることにした。一番日当たりのいい場所だから、きっと寛げる。客をもてなすなんて、いつ以来だろう。


 ◆月●日

 トツカにコツを聞いて、銀の鈴にも人の形を与えることにした。ベアトリスが狩りに行っている間、身の回りのことをしてくれる誰か必要だから。 

 僕の魔法では鈴の形に戻れなくなるけど、銀の鈴はそれでいいと言ってくれた。魔力の調律器としての機能は落ちるかもしれない。先代も、そのまた先代も、あの鈴の音に助けられてきたというから不安はある。でも、これで僕ももう少しここの暮らしを楽にできるだろう。



「先代、先々代……かなり古参の遺物だったんだな。オイルランプより古そうだ」

 乳鉢はギンレイを道具頭、と呼んでいた。それが何を指すのかは不明だし詳しいことは書かれていないが、ニーヒルにとっても、そして代々のニーヒルの先代達にとっても、ギンレイという存在が大きかったことが窺える。

「調律器、か。何かの調整役だったのかもな」

 機会があれば本人に聞いてみてもいいかもしれない。聞く機会があれば、の話だが。

 ここから先は日付は飛び飛びだが、館での日常についての短い日記が綴られていた。途中から明らかにインクの色や質が変わっている。経過した年月の長さが見て取れた。

 ともあれ、ニーヒルはこのあたりで少し前向きになったようだ。館の外に温室を拵え、トツカの為の客間に歌うカーテンを掛け、掃除を楽にするため手箒達を作り、近くの川から水を汲み上げる遺物を作って水回りを近代化し、少しずつ少しずつニーヒルはここでの生活を快適なものに作り替えていた。事件が起こった時にしか書かれない日記は後になるほど日付が飛んでいるが、それでも書くこと自体は辞めなかったようだ。

「研究日誌には新しいものもあったみたいだし、そっちに書くことが増えてたのかな」

 わざわざ個人的な日記に書き残すほどの事件が起こらなかった。それは決して、嘆くことではないだろう。穏やかで平和な暮らしが出来ていた。研究に没頭しながら、静かに暮らせていたという証拠なのだから。

 日付を見ると、蘭が生まれる数年前までこの日記を使っていたことが分かる。あの国を出奔したのが三百年前だと言っていたから、それだけの年数、この日記を使い続けていたようだ。紙に劣化が見られないのは、さすがニーヒルの作った紙と言ったところだろう。

 感心しながら最後のページをめくる。

 だが、最後の一ページになったその日記は、突然その様相を変えた。

「……字が、乱れてる」

 それまでの整ったものとは全く違う、歪み、途切れ、ペン先を引き摺ったような文字が書き殴られていた。あちこちに、文字を綴るのを躊躇ったようなインク溜りや、水で滲んだような跡も見て取れる。あまりの乱れ方にオイルランプの翻訳能力が追いつかない。

「えっと――」

 短い言葉が思いつくままに、断片的に書き散らされているようだ。乱れた筆跡をなぞりながら読み解いていく。


『帰りたい』

『あの庭が恋しい』

『どうして』

『王妃様、陛下』

『もう一度だけ、あの場所に』


『僕を許して』


 それは、ニーヒルが最も幸福な時間を過ごしたあの宮廷への郷愁の言葉だった。

 ニーヒルはこの館を建て、どうにか落ち着いて暮らし始めたんだと思った。おそらくそれは遺物達もトツカもそうだったのだろう。失った物は大きいが、何とか立ち直れたのだ、と。

 だが、ニーヒルはずっと望郷の念を抱えていた。長い長いニーヒルの人生において、あの国で過ごしたのはほんの僅かな間でしかない。だというのに、これほどまでに渇望するほど、あの場所での暮らしは幸せなものだったのだ。三百年経っても忘れられないほどに。

 謝罪の言葉が綴られた最後の一枚の日記を震える手でめくる。その裏は白紙だった。いや――。

ページの中心に、たった一言だけ綴られていた。


 ”hiraeth”


「ここではない何処かに……?」

 口に上らせてから、気付く。この言葉は翻訳されていない。読み方も知らない筆記体のままの文字を、蘭は無意識に理解していた。

 そして、その言葉を口にした瞬間、分かってしまった。ニーヒルが抱え続けていた望郷がどういったものか。

「あぁ、そっか」

 胸が詰まる。喉が締まる。堪えきれない涙があふれてくる。

 空白のままだった胸のピースが填まったようだった。全てに説明が付いた。

 郷愁。望郷。帰れない場所への思郷の念。

「……翻訳なんて必要なかったんだ。俺も、知ってたから」

 居心地がいいと感じていた。心が安らぐと感じていた。それは、ここが蘭の故郷だったからだ。帰るべき場所だったからだ。

「俺はこの場所に、この館に帰りたかったんだよ、ニーヒル。アンタがあの庭に帰りたがっていたのと同じように」

 涙で滲む視界の中で、蘭は部屋を見渡した。

 歌うカーテン。時を告げる鐘。そして、工房で待つ、たくさんの遺物たち。

 この館はただの建物じゃない。ニーヒルが築き上げ、そして蘭が帰りたかった「故郷」だ。

 でも、この故郷は永遠じゃない。

 温室は言っていた。主がいなければ、いずれ全てが枯れ果てると。

 ロッキングチェアも言っていた。主がいなければ、やがて自壊すると。

 魔女が――蘭が何もしなければ、この帰るべき場所は、また失われてしまう。

 ニーヒルが故郷を失ったように、蘭もまた、このようやく見つけた故郷を失うことになる。

「それだけは、絶対に嫌だ」

 ニーヒルは自分だ。それはもう、否定しがたかった。転生体で、同じ生き方は出来なくても、それでもやっぱり、自分はニーヒルであり蘭であるのだ。

 hiraeth。この望郷の正体を知って、それをはっきり自覚する。

「俺は俺だ。それは変わらない。でも、ニーヒルであることを否定したくない。……ニーヒルが紡いできたこれまでを無に帰すのは、嫌だ」

 この場所を、ニーヒルの思いを、研鑽の末を残すにはどうすればいいか。蘭は答えを知っていた。

「ニーヒル。折角遠ざけてくれたのにごめん。でも俺は魔女を継ぐよ。それで、この場所に蘭を咲かせるよ。貴方にとってはずっと帰る場所にならなかったこの場所で、いつか貴方が安らげるように」

 帰るべき場所に帰ろう。いるべき場所にいるために、成すべき事を成そう。  

 たとえこれまでの全てを手放すとしても、この欠落を埋められるのであれば、対価として十分だ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ